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9 薄墨【1】 *英一視点

「はじめまして。家政婦の射場と申します」  出会ったとき、幽霊のような人だと思った。それも、家事が完璧な幽霊。  一度指示したことは忘れないし、言っていないことでも状況から察してやってくれる。こなすことのすべてが親切だった。  前の家政婦には悪いが比べてしまう。同じ賃金で彼が派遣されていることにこちらが戸惑うほどだ。  彼は定刻に来て定刻に帰った。広い邸宅を掃除し、洗濯し、食事を作り置いて。交わす言葉は「おはようございます」と「それでは失礼します」くらい。  私は、せわしなく動き回る彼の姿を見ていた。リビングのソファからだったり、庭からだったり、廊下のすれ違いざまに。  彼と目が合うことは一度もなかった。  ある日の私は、庭に出ていつもと同じルートで草木に水をやっていた。  時には気になる雑草を抜いたり、昨日はなかった蕾を眺めたり、ベンチに座って春の風を浴びたりしながら。  ベンチ脇の花壇を見下ろしたとき、見慣れたはずの花に違和感を感じた。  その場に屈んで葉をめくると、アブラムシが何匹か固まってくっついている。 「ああ……」  放置すると増え拡がる厄介な虫だ。  ポケットに入れていた軍手をはめる。  そばに放っていたホースを拾いあげ、水流をあてながらせっせと虫たちをこそぎ落としていった。  背後から小走りの足音がした。  振り返ると、血相を変えた照近が立ってこちらを見ているではないか。しかもスリッパのまま。  私を見つけてほうと息を吐き、肩を撫で下ろしている。……私の姿が見えなくなって、庭で倒れているとでも思ったのだろうか。 「やあ。アブラムシを取ってるんだよ」 「……そうですか」 「花の健康によくないから」  私の視線を追うようにして、照近も花をじっと見ていた。 「これはヒナゲシ。鮮やかで綺麗だよね」  赤や白の素朴な花たちが風に揺れる。  ほんのしばし、静寂が続いた。 「……鍋を火にかけっぱなしなので、戻ります」 「うん。ありがとう」  くるりと踵を返した彼を見送る。  目を合わせないし、挨拶以外で喋ることもないし、私のことなんて無いものとして扱って働いていると思っていた。窓から庭を──私の様子を見ていたなんて、意外だ。 「不思議な人だな」  庭いじりを一通り終えた後、いつもなら部屋で読書をする。今日はなんとなく気になって、キッチンに向かった。  そこには業務中の照近がいる。  作り置きの料理をタッパーに詰め、うちわで仰いで粗熱をとっているところだった。  うつむき加減の横顔は淡く儚く見える。活力とは真逆に位置する静かな静かな息遣い。彼を見ているとなぜだか悲しくなる。希望を抱いて生きている者の目ではなかった。血の代わりに悲嘆が血管を巡り、心臓が止まっていないだけの──幽霊。 「……あの、なんですか?」  いつの間にか、照近が手を止めてこちらを見ていた。戸惑った顔をしている。  私は何分ほど彼を黙って見つめていたのだろう。 「あ、ごめん。目を離したらキミが消えてしまいそうで」  素直にそう言うと、彼はきょとんとした。そして表情をほころばせる。 「ふふ、消えたりしませんよ。……生きた人間なんですから」  その微笑みの温度の無さに驚いてしまう。感情が読み取れなかった。 「……今夜、予定はある?」  私は考えるより先に、そんなことを提案していた。 「これからですか? ……特にないですが」 「じゃあ、一杯付き合ってくれない?」  キミの作ったご飯を一人で温め直して食べるのは結構さみしいんだ──とかなんとか、思ってもいないことを並べ立てていた。  彼が仕方がなさそうに頷くまで。  その日から、私はタイミングがあると彼を食事に付き合わせるようになった。  彼が作ったものを一緒に食べ、一杯だけ酒を酌み交わす。  私にとっても、おそらく彼にとっても、繰り返しの日常に生まれた変化だった。 「──大学生の息子さんがいるんだ。就活中?」 「それが……友達と店をやるつもりらしくて、スーツを買おうとすらしてないんです」 「目標があるなんて立派なことじゃないか。息子さんが一人立ちしたら、照近さんはどうするの?」 「さあ……」  彼との会話は淡々としていた。質問をすればそれなりに返事が返ってくるが、彼から話題を振られることはほとんどない。  機械と喋っているように感じるとまでは言わないが、他人事のように喋る人だった。感情をどこに置いてきてしまったのか心配になる。 「私が今まさに余生の最中だけど、趣味がないと本当に退屈だよ。庭いじりを始めたら案外楽しくてね。キミもやってみたらいい」 「そうですね」 (絶対やらないぞ、これ) 「……俺なんかより、」  珍しく、照近からぽつりと言葉が発せられた。  私は静かに耳を傾ける。 「ん?」 「俺なんかより、ご友人や家族を食事に招いたらどうですか」  私のことを遠巻きに迷惑がっているな、と内心で苦笑した。 「いないよ、友達」 「いないんですか」 「友達の定義にもよるかもしれない。いると言えばいるかも」 「いるんですか」  友達と呼べる存在といえば、仕事関係か学生時代の知り合いだ。だが、互いにわきまえた距離感だからこそのトモダチである。 「便宜上の友達はいるけど、私が友達と呼びたい友達はいないよ。向こうには申し訳ないけどね。……これって、偏屈ってことかな? ああ、だから友達がいないんだ。初めて気付いたな」 「はあ」 「家族もね、私に愛想を尽かしてるから来ないよ」 「そうですか」 「だからと言って、キミにそういうのの代わりをさせたいわけじゃないんだけれど」 「……わかっています」 (絶対そう思ってるなぁ。最初の誘い方を思えば言い訳に聞こえても仕方がないか) 「悪い人には思いませんが」 「え?」 「あなたは悪い人には思いませんが。家族仲があまり良くないんですか」 「おや。私に興味がでた?」 「不思議に思ったので。俺がオメガだと、雇用の際に知っているはずです。こんな遠回りなことをしなくても、俺は別に訴えませんし、辞めもしませんよ。そのくらいのこと、寡婦のオメガにはよくあることですから、いちいち気にしない……」 「ん? ……んん? 待って、これは良くない流れな気がする。待って待って。もしかして、私が性欲を持て余したアルファとしてオメガのキミを食事に誘ってると思ってる?」 「はい」 「さすがにショックだな。そんな思いでそこに座らせていたなんて」 「ですが、途中からは違うなと感じてはいました。ものすごい奥手にしたって奥手すぎますし、この人は本当にただ暇で家政婦を食事に同席させている変わった人なんだなと……」 (褒められてはないな) 「俺には、あなたが悪い人には見えません。だから、こんなふうに独りで暮らしているのが不思議です」  来客もほとんどなく、外出もせず、庭と家を往復する私を毎日のように見ながら、彼はそう考えていたらしい。 「そう言ってもらえると、悪い気はしないね。──でも、元妻や息子たちはそう思っていないんだよ。私自身もね」

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