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9 【3】
あれから、互いの深い話をすることは無かった。
合鍵で入ってくる彼をリビングなりで迎え、時間になると食卓を挟んで庭のことだったり、気候のことだったり、料理のことだったり、当たり障りのない話をする。そして玄関で送り出す。
特段仲良くなった実感もなければ、うんざりされている気配もない。日常の工程がただ増えたような自然さで、家の中で完結した関係が続いていた。
そうして春が終わり、夏も晩となったころ。
曇りの朝はカーテンを開けても心許ない光量だった。
空気はしっとりしていて、予報を見なくてもやがて雨だとわかる。
「えっ」
朝食のために冷蔵庫を開けて異変に気付いた。ぬるい。
コンセントを抜き差ししたり、様々試したが調子が戻ることはなく、寿命を迎えたのだと認めるしかなかった。
ひとまず朝食をととる。
そのあと、クーラーボックスを引っ張り出してきた。製氷室の生き残りをまるごと流し込み、冷凍庫と冷蔵庫の危うげなものはクーラーボックスに避難させ、常温でも大丈夫そうなものはキッチンカウンターにまとめて置いた。
知り合いの業者に電話し、適当な冷蔵庫を手配してもらう。早ければ明後日にでも交換してくれそうだ。
照近や庭師たちが来たら、事情を話してその場で食べられるものは食べ、持ち帰れるものは持ち帰ってもらおう。
インターホンが鳴った。時間的に照近だ。しばらく待てば、彼がリビングの扉を開けて入ってくる。
冷蔵庫の話をしようとキッチンから出るなり、彼の顔を見て声を上げてしまった。
「どうしたの、それ」
照近の左頬に大きなガーゼが貼り付けられていた。目に近い位置で、瞼までほんのり腫れている。
「転びました」
「……顔からいったってことかい?」
不自然に思ったが、照近はそれ以上なにも答えなかった。
彼の視線がキッチンの冷蔵庫に向いている。コンセントを抜いてあるから、扉が開けっぱなしだ。
「ああ、実はね……」
故障のことを伝えると、早い昼飯として痛みそうな食べ物から一緒に食べてくれた。
やってきた庭師たちにも協力を頼むと、彼らは喜んで持参のドリンク用クーラーボックスに食材を詰めて持ち帰ってくれた。
「自分でやるからいいのに」
「ついでですから」
照近は進んで冷蔵庫の掃除を引き継いでくれた。手持ち無沙汰になってしまった私は照近の後ろ姿を見つめる。
顔の怪我のことを聞きたかったが、彼は話したくなさそうだ。庭師たちにも質問されて返答を濁していた。
ただでさえ物静かな彼が、いつもより元気がないことも心配だった。
思い立ち、ダメ元で声をかける。
「こんな状態だから今夜は外食するけど、一緒にどう?」
急に声をかけられた照近が、開けっぱなしの冷蔵庫のドアで頭をぶつけていた。
駆け寄ろうとすると、大丈夫だと片手を上げて静止される。
「いてて。──そんな、俺なんかが」
「すごく美味しいパエリアのお店なんだ。魚介がこう、乗っていて」
「パエリア……」
渋る仕草はしていたが、食欲に負けた表情がわかりやすかった。
(照近さん、意外と食べ物で釣れるんだな)
ざあ、と雨が降り出す音がした。
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