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出かけるころになると雨脚はずいぶん弱まっていた。
スペイン料理店《ソル》は雰囲気が良く、落ち着いて利用できるから気に入っている店だ。
照近はこういう店に慣れていないのか店に入るなりキョロキョロしていた。
席に通してもらい、二人でメニューを見ながら食事をオーダーした。
素早くワインと前菜 が運ばれてくる。パエリアは提供まで時間がかかるため、のんびりと待った。
話題はもっぱら、壊れた冷蔵庫とその中身をほとんど持ち帰ってくれた庭師たちの話だ。何歳になっても食べ盛りと言わんばかりのあの頼もしさは笑い話にもなろう。
「花沢さん、ハムで小躍りしてましたもんね」
「マヨネーズと七味で食べるのが好きらしいよ」
「おいしい食べ方だ」
雑談の内容はころころと移り変わっていく。その最中、私は頭に浮かんだ疑問を何気なく口にしていた。
「照近さんは、友達と遊びに行ったりしないの?」
プライベートの買い物や旅行で出かけることがあまりない、という話からだった。
「誰かと一緒にいるともっとさみしくなる……そう思うことって、ありませんか」
「いつもだよ」
矛盾しているような内容でも、照近の話には共感できるものが多い。
感情をどこかに置いてきてしまったような人だと思っていたが、話すうちにそうではないことがわかってきた。彼の心は、確かに彼の中にある。
そしてどこか私と似ている。
「自慢じゃないけど、人に囲まれた人生だった。充実を感じていたよ。でも、キミのいう感覚はずっとここにあった」
自分の胸に手を当てて見せた。
そして、「でも」と続ける。
「でも、照近さんといるときはそう感じない。キミもそうなら嬉しいんだけど」
照近との対話は、私にとってかけがえのない癒しの時間になっていた。
彼は眉根を下げて、小さく微笑む。
泣きそうな顔で笑う人だ。まるで、溜め込んだものがあふれないようこらえるみたいに。
人の気配が近づいてくる。料理の良い香りがした。
「お待たせしました」
テーブルに華やかなパエリアが運ばれる。
照近の瞳がわかりやすく輝くのがわかった。私の言葉より、美味いもののほうが彼にはよく効くようだ。
生まれて初めて、魚介スープで煮込んだ米に嫉妬した。
■ ■ ■
酒が饒舌にさせているのかもしれない。あまり踏み込むものではないと思いながらも、彼がいつもより話してくれるので一生懸命聞いてしまった。
夫とは離婚ではなく死別であることや、義母との関係、金銭的に困っていて家政婦をしていること。
彼のような善き人間がどうしてそうも過酷な道を歩む必要があるのかと、現実の厳しさを悲しく思った。
「うう、飲み過ぎました……」
傘をさしながら照近がタクシーに乗り込むのを手伝う。
一人暮らしだと聞いているからこのまま帰らせるのも不安で、私の家へ運ぶことにした。
後部座席で二人並んで座る。真っ赤な顔で眠そうにしている照近は、車の揺れに合わせてふらふらしていた。危なかっかしくて肩を支える。
「吐きそうになったら言うんだよ」
「はい……すみません……。いまは平気です」
汗をかいたせいか、頬のガーゼが剥がれかけていた。痛々しい打撲の傷が見える。
「頬の怪我、どこで転んだの?」
「……一日契約 の家事代行で呼ばれたお宅で……」
「本当に転んでついた傷? そうは見えないよ」
うとうとしている照近は素直だった。しかしすぐに探られていることに気付いたようで、ジトっとした目でこちらを見る。
「どうして知りたがるんですか」
「キミの痛みも知りたいから」
「……意味がわからない」
「私も、酔ってるからよくわかんないや。あはは」
適当にごまかすと、考えるのもめんどくさくなったのか答えてくれた。
「抵抗しなければ良かっただけなんです」
断片的で簡潔な言葉だったが、いくらか察しがついた。壁や床には"抵抗"などしない。明らかに人間が関わっている。
「やっぱり、誰かに殴られたの?」
「依頼主を勘違いさせた俺が悪いので。オメガが、奉仕で自宅を訪問するのは、そういうことだろうと」
「はぁ?」
日頃出さないような声が出てしまった。
確かに、発情期 のあるオメガに偏見を持つ人間は存在する。つまり、淫乱などの言葉に当てはめ、誰とでもすると信じて手を出す人間が。
そんなもの、非常識だと後ろ指を刺されるべき存在だ。
よりにもよってオメガである彼がかばうなんて信じられない。
「でも、断ったら殴るだけで済ませてくれたんです。相手は良い人でした」
「それは良い人とは言わないよ」
「いいんです。掃除の日当も貰いましたし、終わったことですから」
「……そう」
彼の自己への頓着の無さなんなんだ。
これがオメガという人間なのか?
思うところはあったが、それ以上は言わなかった。彼を責めたいわけではない。
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