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13 【3】

 階段を上がって進む。番号がついた扉のそばに立った。いつも帰宅していた場所。変な感覚だ。  蔵乃が扉を開けて部屋に入っていく。  廊下からはドア枠に四角く切り取られた玄関が見えた。下駄箱の外に蔵乃の靴が数足と、傘が一本あるだけ。靴を脱いだ先には見知らぬ柄の玄関マット。 (他人の家だ)  当たり前の感想を抱いて、俺は少しだけ安心する。 「何してるの。風が入ってきて寒いわ」 「すみません。おじゃまします」  スーパーの袋を持って居間に入るなり声をかけられた。 「袋はお勝手に置いてくれる?」 「はい」  間取りは昔と変わらないから、案内されずともキッチンの場所はわかる。  カウンターに袋を置いた。冷蔵と常温とで中身を仕分けしようとして手を止め、首を左右に振った。骨まで染みた習慣をこんなところで発揮しなくていい。  自分がまだ動揺しているのを感じる。心臓の鼓動も早い。静かに深呼吸をした。 「こちらお使いになって」  居間のほうから、英一にコートをかけるハンガーや座布団をすすめる声が聞こえてくる。  袋をそのままにして居間へ戻った。  部屋のすみを目で追うがすぐに止める。もう嫁ではないのだから、そこに座るのはさすがにおかしい。  俺のぶんの座布団は当たり前にないが、英一の隣に正座する。コートは膝に乗せた。  蔵乃が生活する空間は掃除が行き届いていて、神経質なまでに整然としていた。大判の畳ラグが置かれ、テーブルや座椅子などがこぢんまりとした仏壇のそばにまとまっている。  住む人間が変わればこんなにも違うのかと思う。俺と永遠で生活していたころは物であふれていて、部屋をこんなに広く感じたことはない。  仏壇のりんを鳴らす音がした。蔵乃が手を合わせている。 (幸日さん)  久しぶりに幸日の顔を見た。飾られた写真はずっと変わらない。  俺も手を合わせるために移動しようとしたが、正座崩すに留まった。なぜなら、蔵乃が隠すように仏壇を閉じてしまったからだ。  俺は座り直し、おとなしくする。  座椅子の蔵乃がこちらを振り向いて微笑んだ。 「お勝手、モノの場所がわかりにくかったかしら?」  お茶を出されない程度には歓迎されていないらしい……と思っていたら、どうやら俺がお茶を用意するべきだったようだ。  謝ろうと口を開くが、またも遮(さえぎ)られる。 「ああ、照近さんはお客さんだものね。私、足が悪いからお茶が飲みたかったらご自身でいれてちょうだいね」 「はい。お気遣いありがとうございます」  胃がぎゅうっと搾られるような心地になった。口が乾く。喉が張りついているみたいに声を出すのに苦労する。  ぜんぜん本題に入れないことにも焦(じ)れた。  蔵乃と目を合わせることもできず、英一の顔も見られない。  情けない。なんのために来たんだ。  テーブルには書籍やノートパソコンが置かれている。──気付いてしまった。開きっぱなしになっている雑誌、そこに掲載されているのは篠の写真にあった記事そのものだ。 「その雑誌の記事……」 「あなたも苦労するわよねぇ」 「記者と話したのは、射場さんですか」  ようやく言えた。こちらは震える声を絞り出しているのに、向こうは平然と答えるのだった。 「まあ、そうね。たまたま知り合ったのだけれど、親身になってくれたの。テレビであなたのおうちが紹介されているのを観た後だったから、少し感情的にお話しちゃった。──でも、幸日のことを情けない男みたいに書くなんてひどいわ」  話しながら笑ったり怒ったり、忙しい人だ。告発した側だというのに、被害を受けて傷ついたと雑誌を乱暴に閉じる。  あっさりと記事への関与を認めた相手へ、言いたいことはたくさんあった。けれど悪びれない姿を見ていると、何を言えばいいのかわからなくなる。 「その記事は……事実を歪めています」 「私もそう思うわ」 「ならどうして……」 「どうして? これを書いたのは私じゃないわよ」 「でも射場さんが話さなければ、記事が書かれることはなかったでしょう」 「そうかしら。あなたがちゃんとしていれば、こんなふうに言われることもなかったんじゃない?」 「…………どうして、ここへ引っ越したんですか」 「見てわからない? 幸日と暮らしてるの。──幸せな老後ってこういうものよね。おだやかで、自由で、邪魔もなくて」  初めての一人暮らしに心躍らせる学生のようだった。その幸せそうな表情で俺はますます混乱してしまう。  満ち足りているのに、どうして他人を転ばせるようなことに時間を割いているんだ。 「そんなに俺のことが気に入らないんですか?」 「あらやだ。それは被害妄想よ。十八のあなたと初めて会ったとき、なんて可愛い子なんだろうって思ったわ。おぼこいあなたを私がちゃんと育ててあげようって誓ったの。今でもその気持ちは変わっていないわ」  こちらへ身を乗り出した蔵乃に手を握られる。長年の家事で皮が厚く硬くなった細い指。彼女のそれと比べれば、俺の手は赤子のように柔い。 「同じオメガでも、男の手はやっぱり違うわね。記憶よりずっとたくましいわ。大きくなったわねぇ」  親が子をねぎらうように言われると、つい目頭が熱くなる。  蔵乃を前にすると十八歳(あのころ)に戻ってしまう。当時の俺は、彼女に認めてもらうために必死だった。  嫁として親族へ奉仕する中で、少しでも察しが悪いと裏に連れていかれて叱られた。当たり前ができない愚図を育てる身にもなれと泣かれることもあった。  彼女を失望させないために、本家での生活は一秒たりとも気を抜けなかった。  先生であり育ての親に責められ続ける先で、ふと褒められたときの安堵の深さといったら。  ──今思えば、それは健全な関係ではなかった。  頭ではわかっているのに、少し優しい言葉をかけられただけでこれだ。  やっぱり彼女に逆らわないほうが身のためだと、考えそうになってしまう。 「すみません」  蔵乃の手からそっと逃げた。口の中の肉を噛んで気を強く持つ。  俺は隣にいる英一へ横目で視線をやった。彼は沈黙し、ことの行方を見守っている。  俺みたいなやられっぱなし、見ていて気持ち良いはずがない。それでも口を出さないでいるのは俺を信じてくれているからだ。  ふと目が合い、彼が目で小さく微笑む。その手が俺の肩を撫でた。  俺は無意識に指先で触れる。自分がいま一人ではないことを思い出す。  彼の手はすぐに離れていったが、俺に勇気を与えるには充分だった。

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