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「はじめまして。南雲井英一といいます」  蔵乃は変わらず背中を向けて無視を決め込んでいた。  それに構わず英一は話を続ける。 「お話はかねがね聞いております。行き違いもあったようですが、照近がお世話になりました」  彼は持っていたセカンドバックから茶封筒を取り出し、蔵乃の横にあるテーブルに置いた。彼女が見える位置まで差し出す。  キーを押す音が止まった。 「見たところ、こちらの自宅にお一人で住まわれるのは大変そうだ。階段も長いし、周辺施設も遠い」  蔵乃が触らないのを見て、英一は封筒を回収して自分で開けた。中身を取り出し、表紙が見えるように改めてテーブルに置く。それは施設のパンフレットのようだった。 「新生活を楽しんでいらっしゃるところにこんな話をするのも野暮かもしれませんが、知人がホテル経営をやっていまして。シニアレジデンスとも最近は言うようですが」  シニアレジデンス……テレビの特集で見たことがある。つまりは富裕層向けの老人ホームだ。 「『部屋が空いたが、誰か良い人はいないか』と聞かれてましてね。最高級ホテルですから、見合う人間以外お断りなんだそうで。──私と照近が本日参ったのはこういうわけなんです」  英一の意図を察した。見栄っ張りな蔵乃は富裕層向けサービスに惹かれるだろうが、そんな金があるはずない。まさか、と思ったがそのまさかだった。 「入居だけで一億ほどかかりますが、照近はあなたに返せないほどの恩がありますから。照近の恩は私の恩、どうか遠慮しないでいただきたい。幸日さんにとっても良い贈り物でしょう」  開いた口が塞がらない。提案そのものにも、その額にも。 「ああ、そうそう──」  英一は口元に笑みをたたえたまま、眼鏡の奥で目を細めた。 「──頷いていただけないのであれば、あなたをインターネット上での名誉毀損と幸日さんの遺産に関する不当利得について裁判を起こします」 「え?」  声を上げたのは俺だった。  名誉毀損はわかる。それは英一の権利だ。  だが、幸日の不当利益……ってなんだ?  英一はなんの話をしているんだ?  黙って話を聞いていた蔵乃が、ゆっくりとこちらへ向き直った。値踏みするようにテーブルのパンフレットを横目で見下ろす。 「あらあら……いいのぉ? 悪いわねぇ」  パンフレットを手に取った蔵乃は、都合の悪い部分は聞いていなかったかのように愛想良く笑った。 「では早速取り次ぎましょう。──すっかり長居してしまいましたね。そろそろお暇(いとま)いたします」  英一はサッと立ち上がった。ハンガーから自分のコートをとり、俺のコートも持つ。  俺も慌てて立ち上がろうとしたとき、嬉しそうにページをめくっていた蔵乃が顔も上げずに言った。 「ね、照近さん。困ったことがあったらいつでも相談してね。私はあなたの力になりたいのよ」  俺はどこか諦めたような気持ちになって、姿勢を正して深々と頭を下げる。 「今までお世話になりました」  彼女と話すことはもうないだろうと思った。    ■  玄関を出てからコートが背中にかけられた。 「ごめん、寒いね」  袖を通しながら首を左右に振る。着る時間も惜しむほど早く立ち去りたかった彼の気持ちはよくわかる。  玄関まで手を引かれている間、英一の手の冷たさを感じていた。部屋はけっして寒くなかったのに。人は度を越して怒ると末端から冷えるという話を思い出していた。  駐車場に戻って車に乗り込んだが、すぐには発車しなかった。  エンジンをかけて暖房の風に当たりながら、二人でふうと息をつく。 「あの感じなら、しばらくは私の機嫌を損ねないよう大人しくしているんじゃないかな」 「そう……ですね。結局、俺じゃ何も解決できませんでした。すみません」 「キミはできることをしたよ。幸日さんとのけじめをつけて、彼女と決別した。それが一番だ。残りは金で解決できることだったんだから、大したことじゃない」 「すごい額ですよ、大したことです」 「はした金だよ。大丈夫、柾諒たちとも話し合ってある。誰も怒ったりしない」 「お、俺だけ知らなかったんですか?」 「反対するでしょう?」 「そりゃあ……そうですよ……」  どれほど南雲井の家で過ごせば、一億をはした金だと言えるだろう。だが、俺のために計画してくれたことだからこれ以上はとても言えない。  蔵乃と話そうとした俺を受け入れてくれたように、俺も英一の判断を受け入れる。それが信じるということだろう。……それにしたって額のことはずっとびっくりしてしまうが……。  英一がハンドルを握った。そろそろ出発するらしい。  動き始めた窓の景色を眺めながら、俺は蔵乃の部屋でのことを思い出しながら言った。 「あと、幸日さんの、不当……なんとか、あれはなんて意味なんですか?」 「『照近さんを騙して独り占めした遺産を請求するぞ』って意味だよ」 「えっ」  車が曲がり、駐車場から通りに出る。緩やかなアクセルの音を聞く。 「画家としての収入は射場さんが一人で管理していたんでしょう? 疑わないのはキミの美徳でもあるが、射場幸日の絵がいくらで売られているか一度くらいは調べるべきだったね。遺産相続の話になる前に『使い切った』だなんて、疑わしいよ」

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