59 / 64

13 【6】

 考えたこともなかった。  完成した絵は美術商が取りに来てくれるからただ渡していた。それがいくらなのか、どこへ行くのか、たずねたこともない。  蔵乃から振り込まれる金額を見て、そういうものなのだと思っていた。  英一は、どこかのタイミングで違和感を感じて調べたらしい。ギリギリまで言わなかったのは、今みたいに俺がショックを受けるのを避けるためか。 「そんな」 (じゃあ、俺がもっとしっかりしていれば、永遠に苦労させることも……) 「また自分を責めようとしてるね。やり直せないことを考えても仕方がないと言ったのはキミだ。でも、取り返したいならまだ間に合う。時間も手間もかかるけど、キミが望むなら」 「……やめておきます。一億をはした金だと言う人が隣にいるのに、金のことで争うなんて滑稽すぎます。それに、親の泥沼なんて永遠も見たくないでしょうし」  少し無理に笑って、不安でどきどきする胸を落ち着かせる。  さきほど幸日に誓ってきたばかりだ。前を向いて、これからのことのために生きたい。  そもそも、英一が罰を与えるより恩を売るほうに舵を切ったのに、俺が相反することを選んだら台無しにしてしまう。 「そう言うと思ったけど、怒りもしないとはね。照近さんは甘いよ」 「というより……気持ちの整理がついていないだけです」 「なるほどね」  どれほど蔵乃に大切にされていなかったのか知るたび、自分の認識と現実のズレに戸惑う。  古い家に嫁いだオメガという共通点が、俺と蔵乃の間にある情だと思っていた。  彼女も若くして射場家に嫁ぎ、充分に苦労をした。同じオメガなら察するに余りある。なかなか子供を授かれず、ようやく産んだアルファが病弱ともなれば、相当肩身の狭い思いをしただろう。  幸日には兄がいる。射場家が蔵乃へ期待することを止め、養子をとったからだ。それが腹違いの子だという事実を、蔵乃はどんな気持ちで聞いていたのか。  しかも、可愛がってやった嫁が唯一の息子も孫も連れ去った。恩を仇で返されたように感じても仕方がない。  それでも悪気があってやっているわけではないことは伝わっていると思っていた。  俺の思い上がりだった。  人がこんなにもわかりあえないなんて。  でも、それでも。 「……射場さんは、ああいう人でしたけど、同じオメガとして、姑として、俺を守ってくれたこともあったんです。大きな家だと、いろんな親族がいますから。あの人も苦労したんだな、と感じることもたくさんありました。だからできれば……せっかく英一さんが良い場所を用意してくれたんですから、世間の悪意に巻かれず穏やかに過ごしてほしいです」 「キミって人は本当に……」 「え、あ、すみません。英一さんの名誉を傷つけた人を俺がかばうのは、嫌ですよね、そりゃ」 「違う違う。ああまで嫌味な人をまだかばえる慈悲深さにあきれてるんだよ。そういうところが好きなんだけどね」 「すみません……」 「すぐ謝る。せめて感謝にしてよ」 「あ、ありがとうございます」  ウィンカーの音がして、やがて車が道を曲がる。スムーズな運転をこなしながら英一はぽつりとこぼした。 「私はそこまで優しくはなれないよ。ごめんね」 「どういう意味ですか?」 「紹介したところ、ホテル型老人ホームで自由に暮らせるから、小さな村のようなコミュニティになってるんだよね」 「村……」 「暇を持て余した老人たちが結束して暮らしている。歓迎されるかは入ってみないとわからないよ」  言わんとすることは伝わってきた。そこへ入居した蔵乃は、どれほど他人に敬意を払えるか試されるだろう。どんな極楽でも村八分にされては地獄になる。  あの人のことだから、高級ホテル暮らしというステータスを手放そうとはしないはずだ。極楽と地獄のどちらにしがみつくことになるか、彼女次第だ。 「そこまでの責任を、英一さんや俺が持つ必要はないですよ」 「お、シビアな意見。ちょっとだけ私が伝染(うつ)ったね」 「大人になったんです」  赤信号で止まると、英一は暖房の出力を弱めた。 「それよりも、私が嬉しかったことを聞いてくれるかい?」 「なんですか?」 「『自分で選んだ人と一緒に生きる』って、宣言」 「あ」  いっぱいいっぱいな中で切った啖呵を思い出し、じわじわ恥ずかしくなってきた。 「つまり私のことだよね。うぬぼれていい?」  わかりやすく機嫌の良い声になっている。唇はにんまりと弧を描き、俺の返事を待っている。 「ここまできて他に誰がいるんですか」  素直に認めるのが恥ずかしくて、ぷいと窓のほうを向いた。 「ふふふ」  そのうちに景色が紫環崎の様相に変わってくる。俺は「やっと帰ってきた」と思った。    ■ ■ ■  ガレージに車を停めて南雲井邸に入ると、電気が点いていた。家を出るとき確かに消したはずだ。  誰かいる。

ともだちにシェアしよう!