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第3話 再会

 扉の向こうは、春の光で満ちていた。  返答の席と親書が名指した、泉堂(せんどう)本邸の応接間である。南向きの硝子窓いっぱいに庭の桜が咲いて、花明かりが舶来の調度を淡く照らしていた。光の中で長椅子に座った男がひとり、肘掛けに頬杖をついてこちらを見ている。 「まだ育ち盛りか? スーツが悲鳴を上げている」  十年ぶりの第一声がそれだった。時候の挨拶も家門の口上もない。教室で隣り合っていた頃と同じ調子で、昨日の続きのように言う。  泉堂賀久(がく)。十八で記憶が止まっていた顔が、二十八になって目の前にある。薄茶の髪はそのまま、線の細さもそのままで、陶器人形めいた少年の面影に、人を値踏みする静けさが一枚乗っていた。変わったところを探すほうが早い。声に深みが増していて、背丈もずっと伸びたようだ。  仕立ての良いスーツを当然のように着こなし、既製品など生まれてから一度も袖を通したことがないだろう、持てる者の雰囲気。  青い目も、昔と同じ温度でこちらを見ている。  勧められるより先に、向かいの椅子を選んで座った。窓を背にせず、扉が視界に入る席である。陸軍時代からの癖だった。  この三日を、寝て過ごしたわけではない。時雨(しぐれ)が口にした先代の入院先は、軍時代の伝手で当たってある。  まず業者の名義で見舞いの果物籠を病院へ届けさせたが、特別病棟は受け取りを断った。届け物は一切お断り、お家のご意向で。受付の返答は型どおりだ。  次に元部下をひとり、見舞い客に仕立てて病棟の階まで上げた。廊下の奥に私服の警備が二人、病室の名札は外されたまま。三晩張らせた病室の窓に、灯りは一度もつかなかった。  極めつきは書類である。財界誌の動静欄から先代の名前が消えて一年になるのに、株主向けの文書には今も署名が出続けている。入院しているはずの男の署名だけが、方々で生きているのだ。  そして通されてきたこの廊下では、額を外した跡が不自然に四角く日に灼け残っていた。なにか奇妙だ。それだけを胸に書き留めて、顔には出さずにいる。  女中がコーヒーを置いて下がり、扉の閉まる音が消えるのを待って、賀久は前置きを全部飛ばした。立ち上がって飾り棚へ歩き、戻った手が、カップの脇に小さな硝子をことりと据える。  ソファーテーブルの上に小さな薬壜がひとつ。 「我が許嫁どのに、俺からの贈り物だ」  琥珀色の液体が、花明かりを受けてとろりと揺れる。 「アルファをオメガに書き換える薬だ。効果は、およそ半年」 「そんな薬は存在しない」 「あるから、ここに置いている」  機序を問えば、企業秘密だ、と頬杖のまま受け流された。山桜桃(ゆすら)の覚えているとおりの男なら、賀久は冗談を口にしない。  探るべきことは山ほどあった。順番に、一番手前の疑問から出す。 「おまえの目的がわからない。いったいなにが不満なんだ。雛菊(ひなぎく)はよい妹だし、俺から見ても美しい子だ」 「雛菊嬢に不満はないし、俺には勿体ないお方だと考えている」 「それならなぜ」  言い終わるより早く、テーブルが鳴った。  賀久が脚を蹴ったのだ。コーヒーカップが跳ね、受け皿の上で半回転する。倒れかけた薬壜にだけ、賀久の手が音もなく伸びて、指の腹で立て直した。テーブルを蹴った脚と同じ身体のものとは思えない、絹でも扱う手つきである。 「勘違いをするな。この場はおまえがぐだぐだと言い訳を並べ立てる場所じゃない。俺の妻になるなら、飲めばいい。飲まぬならそれでよし。俺は違うオメガの令嬢なり令息と結婚するまでだ」  声は蹴る前の温度のままだった。乱れたのはテーブルの上だけで、青い目は凪いでいる。言い終えると、賀久はまた頬杖に戻った。何事もなかった顔である。  妻、か。  アルファの山桜桃を妻と呼んだ。訂正が喉まで出て、テーブルの薬壜を見つめて飲み込む。訂正できない理由が、目の前に置いてあった。  扉まで六歩。窓は嵌め殺し。数えて、数えるだけ無駄だと結論する。逃げ道を測ったのではない。この席に、断るという出口が最初から作られていないと確かめただけだ。  我が許嫁どの、という呼び方も頭の隅で転がした。十三年前に破談となった間柄を、現在形で言う男である。圧をかける修辞だろうと、それ以上は考えない。 「式はいらない。籍だけ入れる」  訊いてもいないことを、決まった話として賀久は続けた。八つの頃から変わらない癖である。 「婚姻届はこちらで用意をしよう。オメガへと性転換した名簿への届けも、うちでやる。バース性が変わる前例は少ないがあるからな、役所連中にひと言ふた言あれば通るだろう」 「俺はこれからもオメガとして生きることが、婚姻の条件なのか」  たまらずに口を挟んだ。半年の間だけなら我慢もできるが、永遠にオメガのままでいろと言うのか。 「おまえはオメガとして育ったじゃないか、慣れているだろう? 取り交わしは十日のうちに済ませる。住まいは麻布に移れ。検診は月に一度、うちの系列だ」  拒絶をする余地が、最初からない。オメガであれと望まれて、十五まではどうにか期待に応えていたつもりだった。家中を失望させたアルファの判定も「変える薬があれば飲みたい」と思わなかったと言えば嘘になる。  それでも山桜桃なりに歯を食いしばり、アルファに求められる立場と仕事をしてきたつもりだが、山桜桃の意思が通ったことは人生に一度もない。  いったん静かに目を閉じ、深く息を吸った。感情が乱れることなど、情報将校の名折れである。剣崎(けんざき)の家に生まれた時点で、兄も妹も、父ですら役割をまっとうする天命なのだ。覚悟を決めなければ。  兄の見立てが合っていれば、この婚姻自体が白紙に戻る。頭を冷やせ、任務が優先だ。  薬壜の中にある不気味な琥珀色を眺めて、安全なのかと問う気もなかった。この男は欲しい答えしか寄越さない。  なぜ今さらの探りは、頬杖ひとつ崩させなかった。細かいことを気にする男だな、で終いである。訊く筋の疑問が尽きたのを見透かしたように、賀久の指が薬壜を一寸(いっすん)だけこちらへ押した。 「どうする?」  三日のあいだに腹は決まっていた。もう山桜桃はこの運命を受け入れるしかない。 「剣崎家としては申し出を喜んで受ける」  言葉で答えて、手を伸ばす。封を切り、一気に(あお)った。桜の色をした静けさの中で、青い目だけがそれを見ていた。  喉が液体の冷たさを覚えているだけで、拍子抜けするほどなにも起こらない。書き換えというからには劇的な変化を覚悟していたが、身体は素知らぬ顔で椅子に座っている。  空の壜をテーブルへ戻す。硝子の鳴る音が、静けさの底でやけに高い。 「飲んだのか。——ああ、飲むだろうな、おまえは」  問いの形をしているのに、答え合わせの声だった。

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