4 / 16

第4話 判定日

 昭和五十一年、春。山桜桃(ゆすら)は十四になった。  休みのたびに麻布へ通う決まりは、八つの春から一度も途切れていない。通いなれた門をくぐると、桜はその年も満開だった。  八つの頃、あれほど高く見えた築山(つきやま)は、いまでは三歩で登り切れる。低くなったのは山のほうではない。袖丈の合わなくなった腕を持て余しながら、山桜桃は先に登って、賀久(がく)へ手を伸ばした。引き上げるとき、目線がわずかに下にある。いつからか、背は山桜桃のほうが高い。  その頃、賀久の部屋にはテレビにつなぐ遊び道具があった。前の年に出たばかりの、画面の白い点をつまみで打ち合うテニスまがいである。単純な遊びだが、二人でやると存外熱が入った。負けが込むと、賀久は無言で次の番を始める。山桜桃は大いに負けず嫌いだが、賀久も同様だった。  縁側に戻ったのは、目が疲れた頃である。その日は洋菓子が皿に出ていた。皿が半分になった頃、賀久が懐から封筒を出す。見覚えのない、薄い水色の封筒である。宛名は『剣崎(けんざき)山桜桃さま江』と繊細な文字で綴られており、差出人は近くの女学校の生徒のようだった。 「おまえに懸想(けそう)している同級生がいるから渡してやれと、従姉妹経由でせがまれた」  言いながら、目の前で細かく破いていく。破片が膝の脇に、白い花弁のように積もった。こういうことは初めてではない。中等科に上がった頃から、山桜桃宛ての手紙は山桜桃に届く前に消える。中身が気になるとは一度も思わなかった。知ったところで、意味がないからだ。 「どうせ俺は賀久と結婚するのに、なぜだろうな」  あきれて言うと、破く手が止まった。  賀久はこちらを見ながらしばらく黙って、それから残りを破り終える。おやつに出されたマドレーヌとやらは大変に美味しく、また食べたいと暢気(のんき)に思っていた。  帰り際、門までの桜の下で、賀久が頬に口づけて来る。八つの頃から続く、別れの決まりごとだ。おまえとおれは許嫁なんだ、というのが賀久の言い分で、許嫁とはそういうものなのだろう。手を繋ぐのも、頬への口づけも、深く考えたことはない。  十四の春は、そうやって暮れた。    ◇  身体は柔らかい苗がしっかりした若木へ育つように変わっていった。背は一年で伸び、声は低く落ち、肩は制服の仕立て直しが追いつかない速さで広がっていく。女児のようだと言われた線は、もうどこにも残っていない。採寸に来る仕立屋が袖丈を測り直すたび、家の中の空気が少しずつ静かになった。  もうこの世にはいない母によく似た華奢な姿は、かつては偉丈夫とうたわれた父方の祖父そっくりになっていく。  バース性の本判定の日は、十五の春に来た。  連れて行かれたのは、八つの春と同じ、家が古くから抱えている医者の病院である。まず間違いないと太鼓判を押したのも、ここの院長だった。待合の長椅子は、あの春と変わらない。  注射針はもう痛くもなんともない。  判定書は十日ほどで、番町(ばんちょう)の家に届いた。時雨(しぐれ)が封を切り、一読して、静かに畳む。表情からは山桜桃に対する失望が見て取れた。 「そうか」  それだけだった。アルファ、と読み上げる声すらない。八つの春に祝いの膳を出した家は、十五の春にはいつもの夕食の皿を並べて、いつもより静かに食事を済ませた。  泉堂(せんどう)からの書状は、それから十日と経たずに来た。型どおりの詫びと、型どおりの時候の挨拶で包まれた、婚約解消の申し入れである。時雨は異を唱えなかった。オメガでない次男に、財閥の許嫁の席はない。この国では自然の摂理に近いことだった。  話は単純である。アルファが要るのは、家督を継ぐ長子だけだ。三十になる長兄はとうにアルファと判定され、しかるべき家から妻を迎えて、霞が関に上がっている。所帯は官舎で、番町に戻るのは盆と正月くらいのものだ。家督の線は揺るがない。次男のアルファは、まずまず貴重というだけの持ち札だった。武門の家からオメガを出し、唸るほどの金と人脈を持つ財閥と縁を結ぶ。時雨の代からの悲願を、判定書の一枚が覆したのだ。  兄からは一本の電話があったのみだ。おまえの出来の話ではない、とだけ言って切れる。八つの春に祝いの電報をくれた兄も、慰めすら型どおりであった。  同じ春、雛菊(ひなぎく)が八つになった。  病院へ連れて行かれ、痛い針を刺され、十日後に判定書が届く。オメガの可能性が高い。その春二通目の判定書で、はじめて祝いの膳が出た。  翌日から、雛菊は廊下を走っても叱られなくなった。かわりに、庭の木に登ろうとすると飛んできて止められる。見覚えのある扱いだった。触れば壊れるものの扱いだと、十五の山桜桃はもう知っている。  妹はなにも知らずに、買い与えられたばかりの人形を見せに来る。俺の身体が裏切ったぶんの期待が、八つの肩に移っただけだ。母を亡くして心さみしい、かわいい妹。山桜桃によく懐いている。  自分より優しく繊細な妹が、冷たい政治の道具にされる未来を思うと心がうっすらと暗くなる。父や兄をがっかりさせたこと以上に、妹へ申し訳ない。  そして月に一度届いていた賀久からの手紙は、その月からぱったりと来なくなった。    ◇  賀久と口をきかないまま、半月が過ぎた。  休みが二度あって、二度とも麻布へは呼ばれない。八つの春から、一度もなかったことである。放課後、人の引いた渡り廊下で呼び止められたのは、そんな頃だった。夕方の光が長く差して、埃がゆっくり回っているのが見える。 「アルファと診断されたのは、本当なのか」  挨拶もなにもない。昔からそういう男である。 「ああ、おまえとの婚約は破棄されたと父から聞いた」  静かに事実を並べただけのつもりである。  いきなり、肩を掴まれた。  制服の上から、爪が食い込むほど強く。振り払える力だが、驚きのほうが先に立った。賀久が声を荒らげるのを、生まれて初めて聞く。 「なぜだ、たかだか紙一枚のことで、なぜ納得できるんだ。俺たちは結婚できないんだぞ?」  晴れた日の空だと思っていた青い目が、雨でも降りそうなほど揺れている。  紙一枚で人生が動くのがこの国だ、とは口にしない。家同士の決めごとに本気で腹を立てられる潔癖さを、山桜桃はこのときは友情の証のように受け取っていた。だからこそ、自分なりに誠実であろうと答える。 「仕方がない。婚約は解消されるが、おまえは俺の親友だ」  肩の手から、力が抜けた。  指が一本ずつ離れていく。爪の食い込んだ場所が、制服の下でじんと熱い。 「……親友」  低い復唱だった。腹の底から、絞り出すような。それきり賀久は黙って、こちらを見た。落胆でもない、憤りでもない。読み方の分からない静止が、青い目の奥にあった。  背を向けかけて、思い出したような声がひとつ落ちる。 「なら、書き換えればいい」  なにを、とは訊きそこねた。渡り廊下はもう薄暗く、賀久の背中が角を曲がって消えていく。負け惜しみだと思った。十五の子供の、それきり忘れていい負け惜しみだと。  忘れずにいたのは、山桜桃のほうではなかった。  あの日の目を、三日前に見た。テーブルの薬壜の向こう、桜の色をした静けさの中で。

ともだちにシェアしよう!