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【R18】第5話 最初の夜

 望んでもない境遇を憐れむ暇もなく、書類の手続きが山桜桃(ゆすら)の上を踊り続けた。  返答の席から十日で結納に代わる取り交わしが済み、月が変わる前に婚姻届が区役所へ出た。結婚して伴侶を得たという実感すらなく、気づけば麻布の邸に部屋が用意され、番町(ばんちょう)から運んだ荷物は鞄が三つ。引っ越しと呼べる規模ではない。  兄の秘書職が解かれていたと知ったのは、婚姻届の三日後である。  仕事は続けるつもりでいた。書類の上の婚姻で、勤めまで捨てる話は一度も出ていない。軍を出てからの三年、兄の隣が山桜桃の持ち場だった。泉堂(せんどう)側の秘書室と雪彦(ゆきひこ)の事務所のあいだで、本人を挟まずに片づいている。辞表すら書いていない。 「聞いていないぞ」と山桜桃が抗議しても、「言っていないからな」と賀久(がく)は頬杖のまま、悪びれもしない。 「妻には家にいてほしいタイプでね」  冗談の顔ではなかった。抗議の続きを考えながら、頭のべつの場所が損得を数えている。勤めを失えば、兄との自然な接点も失う。定時連絡の前に、そもそもの動線が断たれた。偶然にしては、切り口がきれいすぎる。  剣崎(けんざき)家を利用したいのなら、山桜桃は大いに役立つはずだ。代議士の兄、一線を引いたとは言え陸軍とのパイプが太い父、その他国家機関に散らばる親戚たち。  籠の鳥よろしく囲う目的がわからない。山桜桃はただ戸惑い、かつて母もそうであったのかと、細面の柔らかい笑顔を思い出していた。    ◇  オメガ判定の検診は、婚姻の翌週に行われた。  泉堂系列の病院である。個室の診察室で血を採られ、三十分後には結果が出た。八つの春に十日かかった検査が、いまは三十分で済む。それだけの医療を、この財閥は抱えている。 「オメガと判定されました」  医師の声に淀みはなかった。名簿の上の性が、その場で書き換わる。剣崎山桜桃、二十八歳、オメガ。紙の上の性転換である。書き換えの機序を疑う素振りは、院内の誰にもない。系列の病院とはそういう意味だった。  発情期の説明を初老の医師は世間話の調子でした。周期はおおむね月に一度。前兆は発熱と嗅覚の変化。そして処方の段になって、医師は処方箋を書かなかった。 「抑制剤もございますが、不要でしょう。発作の折は、旦那様とお過ごしになるのが一等よいですな」  薬の代わりに、夫が処方されてしまう。  検診は月に一度。カルテの写しがどこへ回るのかは、訊くまでもない。    ◇  潜り込んで最初にやることは、どこであろうと変わらない。動線の把握、監視の特定、通信手段の目録である。  泉堂邸の電話は交換台を経由する。受話器を上げれば家令が「お繋ぎします」と出る仕組みで、盗み聞き以前の問題だった。  郵便は検められている。番町の兄宛てに時候の挨拶を一通、試しに出した。数日後に届いた返事の封筒は、蓋の糊に一度剥がして貼り直した照りがあった。雑な仕事ではないことが、組織立っている証拠である。  外出には家令が付く。竹川(たけかわ)と名乗る初老の男で、物腰は完璧に慇懃(いんぎん)、目は一度も笑わない。散歩に出れば三歩後ろを歩き、店に入れば入口に立つ。護衛の配置ではなかった。護衛なら視線は外へ向く。竹川の視線は、常に山桜桃へ向いている。  兄との取り決めは、週に一度の定時連絡だった。外の公衆電話から伯父の事務所の番号へ、呼び出し音三回で切り、五分置いてかけ直す。単純で、単純ゆえに破られにくい手順である。  その単純な手順が、三週続けて実行できずにいた。  公衆電話の前を通ることはできるが、竹川の目の前では難しい。  動けないこと自体は、想定の内である。だから最初のひと月は、従順に過ごすと決めた。囚人らしく振る舞うのも技術のうちだ。毎朝同じ時刻に起き、同じ道筋で庭を歩き、同じ時刻で寝る。竹川の頭の中に、無害な妻の型を作らせるためである。型は覚えさせるほど破りやすい。  想定の外にあったのは、夫の不在のほうだった。  賀久は朝は山桜桃が起きる前に出て、夜は日付の際に戻る。夕食で顔を合わせたのは、ひと月で一度きり。土日も書斎か本社である。寝室も別々だ。とてつもなく広い邸宅で、ほぼ別居しているようなものである。  強引に娶った男が、娶った途端に不在になった。広い邸宅に、監視だけが充満している。  新婚とはそういうものかと訊く相手もいない。    ◇  山桜桃がみずからの変化に気づいたのは、五月の夜半だった。  最初は発熱だと判断して熱を量ると、三十八度五分。軍隊で覚えた対処はすべて頭に入っている。水分を取り、身体を冷却し、安静にする。体温計を挟み直して、三十九度二分。ウィルスに感染したような高熱だ。  ふらふらと水差しを手に取ると、山桜桃はせり上がる吐き気に手をおさえた。  邸宅中の匂いが、一斉に立ち上がる。古い建物特有のほこりくささ、庭の新緑のむせかえる香り。そしてどこかに残っていた、賀久のに匂い。その最後のひとつだけ、火に油の働きをした。  抗えないものは体内にいる。制御できる手段がわからない。  浴室で水を浴びたが、三十分もたてば元に戻った。呼吸法は五分もたない。腹の奥に熾火(おきび)のような疼きが這い回り、四肢の力が抜けていく。痛みなら耐えられるが、これに耐える訓練などしていない。  床に膝をついたまま、時計の針が二周するのを数えた。数えることができる理性が残っているぶん、卒倒してしまいたい気持ちになる。  車の音がしたのは、午前一時を回った頃である。  乱れのない足音が階段を上がる気配を聞き、部屋の前で止まった。扉は開かない。 「俺にどうしてほしい?」  扉一枚を挟んで、声はいつもの温度だった。  高熱でぼやける頭の中で問いの残酷さを理解する。開けてはくれない、連れてもいかない。身体中がアルファを欲して燃えている人間に、望みを自分の口で言わせるのだ。  沈黙のあいだ、扉の向こうの気配は動かなかった。いくらでも待つ気らしい。山桜桃は悔しさに唇を噛みながら、それでも必死で扉の前まで這った。 「……鎮めて、くれ」  絞り出した声は掠れていて、自分のものと思えない。  足音が離れていく。廊下の奥、賀久の寝室のほうへ。ついて来いとは言わない。立ち上がって扉を開けると廊下には誰もおらず、賀久から発せられるフェロモンが道しるべになっていた。  一歩ごとに賀久のフェロモンが濃くなって、疼きが輪郭を持っていく。歩いているのは自分の足である。誰にも引きずられていない。それがこの夜のいちばん残酷な事実だった。  わずかに空いている扉に手をやって、やっとの思いで閉める。  賀久は寝台の縁に腰を下ろして、立ったままの山桜桃を見上げた。青い目が、暗がりで薬壜の色をしている。  もう限界で、膝が落ちた。それを合図として受け取った手が、伸びてくる。  寝台にどさりと押し倒された。屈強で並大抵では動かない男が、たやすく。乱暴に抱かれる覚悟をしていたのに、口づけはまるで請うように優しかった。かつて頬へ触れた唇も、少しこわごわとしていたことを思い出す。  触れた途端、腹の熾火が音を立てた。頭は否と言っているのに、身体だけが是と答え続けている。  寝間着が肩から落とされた。盛り上がった胸筋が空気に触れる。賀久の指がなぞった鎖骨の線が、なぞられたそばから熱を持つ。オメガの身体はアルファが触れる場所を覚えていく、と医師は教えてくれなかった。知らないことばかり、次々に起こる。 「力を抜けよ」  声がいつもより低い。それに気づく自分の耳が、もう賀久のことばかり気にしている。  寝台に沈められてから、あとは順番に奪われた。指が背骨を数え、腰の窪みで止まり、もっと下へ降りる。秘めた箇所を強引に開かれる。そこが濡れているのが自分でも分かった。オメガの生理現象である。分かっていることと、受け入れることの間には、空と海ほどの距離があった。  あさましい。みっともない。どんな苦しい訓練でも耐えられたのに。頭の中の声は正しいことしか言わない。正しさが賀久の指で塗り替えられていく。 「……っ、ああ!」  声を殺すと、賀久の指が意地悪く同じ場所を押した。殺した声ごと押し出される。ぐちゅぐちゅと音をたてて、抜き差しされる指たちにしか意識が向かない。 「……いやだ、がく! んっう……」 「怪我をさせたくない、我慢しろ」  枕元の引き出しが開く気配、薄い封を切る音。意味を考える思考は、もう残っていなかった。  賀久のそれが入ってきたとき、視界の端が白く飛んだ。  圧と熱。そして骨の髄まで強引にこじ開けられるような違和と、言いようのない安堵。最後のひとつが、最大の屈辱だった。ひと月、体内で燻り続けていた熾火が、アルファという薪を得て猛り狂う。身体はとうに賀久の側についている。裏切り者は自分の皮膚の内側に住んでいた。 「……あ、っ、あぁ、ん」  揺らされるたび、聞いたことのない声が喉の奥から零れる。軍人の矜持(きょうじ)はとうに崩れていた。賀久は決して急がない。丁寧で執拗に山桜桃の神経が最も過敏に反応する場所を、内側の襞の一枚まで探り当てては潰していく。  背中を爪でなぞられ、皮膚が波打つ。賀久の手が山桜桃の腰を掴み、さらに深く、容赦なく根元まで押し入る。腰が勝手に跳ね、賀久の硬質な熱を内側から締め付けた。 「……いい声だ。山桜桃」  耳元で吐息混じりに名前を呼ばれる。その声の響きそのものが、尾てい骨に電流のような痺れを走らせた。賀久の唇が首筋に吸い付き、甘噛みをする。皮膚の下の血が沸騰するように熱い。賀久に触れられているすべての場所が火照って疼き、もっと強い刺激を強烈に求めて悲鳴を上げている。  思考の海が泥のように濁っていく。指先がシーツを掻きむしり、しわくちゃに絡まる。賀久の身体が重なり、湿った吐息と雄の匂いが山桜桃のすべてを塗りつぶしていく。頭の中では「やめろ、屈するな」と警鐘が鳴り響いているのに、それを遮断するように敏感な一点を賀久は執拗に攻め立て続けた。 「っ、賀久、そこ、は……」  懇願すら快楽に変えられてしまう。賀久は薄く笑い、山桜桃の理性を削り取るかのように、さらに深く、深く入り込む。脳髄までが麻痺し、山桜桃の視界にはただ、暗闇の中で薬壜のように青く光る賀久の瞳だけが残った。その瞳に見つめられているだけで、内側が甘く蕩けていく。  思考が、音を立てて崩れ落ちた。ただこの熱い楔の先にある快楽と、自分を支配する賀久の存在だけが、世界のすべてになった。    ◇  熱が引きはじめたのは、夜明けに近い頃である。  汗の乾いていく背中に、天蓋の高い闇が乗っている。寝返りを打つと、賀久は隣で目を開けて横たわっていた。青い目が硝子のように光っている。訊くなら、頭の戻りかけた今しかない。 「おまえは、俺と子を成したいのか」  山桜桃の記憶が正しければ賀久は避妊具をつけていた。アルファをオメガに書き換える薬に、ほかの用途を思いつかない。泉堂家にも跡取りが必要だろう。山桜桃とて薬を飲んでしまった以上、子を孕むのは避けられぬと、うっすら覚悟していたのだ。 「さあな」  伸びてきた手が、顎を掴んだ。青い目が近い。 「おまえだけいればいい。逃げられると、思わないことだ」  まるで答えになっていないが、それ以上の深掘りはできないだろう。山桜桃は上がっていた呼吸がおさまるのを感じながら呟く。 「そのつもりはない。俺は賀久の妻だ」  事実を並べただけである。籍は入り、名簿は書き換わり、逃げる算段は任務に反する。ただそれだけの話なのに、賀久の顔がぐっと歪んだ。  顎を掴んだ指から、力が抜けていく。ぐうの音も出ない、という顔を、山桜桃はこの夜はじめて見た。知り合って二十数年、はじめてである。    ◇  目が覚めると、隣は空だった。  窓の外はもう明るい。枕元に水差しと、畳まれた寝間着が置いてある。階下に降りると、賀久は食堂で新聞を広げていた。出社前の、平日の顔である。昨夜の男と同じ人間だという証拠は、どこにもなかった。  なにか言うべきかと口を開きかけたのへ、賀久は新聞から目も上げずに言った。 「来月の検診、日程は竹川に伝えてある」  それだけだった。皿の上で卵が湯気を立てている。  部屋に戻り、洗面所に立った。冷たい水で顔を洗い、上げた顔を鏡が映す。  体調は戻っている。関節の重さは残るが、支障はない。首筋の痕だけが、問題だった。  鏡の中の首筋に点々と、賀久が残した情事の痕がある。

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