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第5話
ここ数日、ヘイズ家には緊張感が漂っている。理由は明確、BH初めての大規模なワンマンツアーが迫っているせいだ。
仕事をこなしながらツアーの準備をするとなると相当に忙しくなるらしい。ショーの無い日でも3人が家に戻ることは少なく、帰ってきたとしても夜遅かった。今日も同様だ。あのダンス番長のカルですらシャワーを浴び終えたら電池が切れてしまったかのようにリビングの椅子で居眠りをし始めた。
「カルヴィン」
「...ん...」
「風邪をひくよ、今喉を潰すとまずいんだろ。ベッドで寝た方がいい」
「...あぁ、そうするよ」
声をかけると彼は目を覚まし微笑んだが、その表情には疲れが伺える。
「あの二人はまだやっているのかしら」
「ガレージにいるんだろ?どうせ聞かないんだし放っておけばいいさ。母さんとフレッドももう休んだら」
気だるげにショートカールの髪を掻きつつ部屋を出ていく彼を、奥さまが心配そうに見送った。
「あの子たちのやり方に私は口出ししないけど...。親として無理はしてほしくないものね」
The Boogie Hayesがまだ彼らの父親主導のファミリーグループ・The Hayes Brothersだった十数年前から、ここは小さなレッスンスタジオだったという。本来そのためのものであるはずの車など端に寄せられ、代わりに鎮座する使い込まれた木製の簡易ステージの上には、年季は入っているものの磨かれたスタンドマイクが3本。壁には古いソウルミュージシャンのポスターと共にダンス練習用の一面鏡が貼ってある。スピーカーとライト、それに昔バックを務めて貰っていたアマチュアバンドのためだったという中古ドラムセットとキーボードも揃っていた。ラックにはコンテストの記念品がずらりと並んでいるが、じっくり眺めたことはない。このガレージは兄弟たちの聖域だからだ。
「I don't know ev'rything But there's something I do know...」
「ストップ、息の入り方が甘い。もう一度だ」
「I don't know ev'rything But...」
「違う。もっとリズムを意識しろ。もう一度」
「...I don't know ev'rything But there's something...」
「ソロモン!...いいか、観客はお前の歌を聴きに来るんだ。今の完成度でベストパフォーマンスだと言えるのか?もう本番まで間がないんだぞ」
「はい、兄さん」
埃っぽい空間に響く、低く重いマーカスの声。それに応えようとソロモンの歌はその都度微妙に変わっていく。少しだけ開いていたシャッターの隙間から漏れるそれらを聞いて、やはり俺は自室に戻ることにしその場から離れた。
長いこと天井を見上げていた。なんだか寝付きが悪くすぐに目が覚めてしまう。さっきのソルの歌声が耳に残っているせいだ。
彼が最後にここに忍んで来たのは10日ほど前だったか。俺が片手間に書いている小説もどきをあんまり真剣に読むものだから参ってしまった。
「凄いね。面白いよ、これ。僕には逆立ちしたって書けないや」
「よしてくれよ、ただの趣味さ。歌のプロフェッショナルのきみの方がずっと凄い」
「...僕に才能があったとしても、それは神さまが偶然に与えてくれただけのものだから。でも、歌も文も、心の内から出てくるものとすれば似ている気がするな」
その夜俺たちはキスをし、少し服を乱し合って、朝になる前に彼は出て行った。この章を書き上げたらすぐに読ませてよ、そう言い残して。もうあの場面は書き終えているけれど、それが彼の目に触れるのはいつになるか。ツアーが完全に終わってしまうまで彼はここには来ないような気がした。
ガレージでの歌がまた蘇る。神から偶然与えてもらったもの?それだけなわけがない。レコードで聴ける自由に飛び回る鳥のような表現も決して一朝一夕で身に付いたものではないんだ、そのことは同じ家で過ごして痛いほどわかった。あの兄弟たちはこれからもっと大きな成功を手にするだろう。しかしそんな彼らが___ソルが、俺なんかを見ていていいんだろうか。この部屋に彼がやって来るのを待ってしまっている自分は、彼に比べて随分ちっぽけだというのに。
...考えごとの袋小路だ。少し頭を冷やそう。俺は起き上がり、水を飲みにキッチンへ向かった。
リビングの明かりが付いている。いけない、消し忘れたか...そう思って覗くと、そこにはマーカスがいた。紙が山のように積まれたテーブルで、垂らしたカールヘアの頭を抱えている。
「...起きてたのか?」
そう俺が声を発して初めて気付いたみたいだ。こちらを見る目は赤く、近頃ろくに睡眠を取っていないのがひと目でわかった。
「...あぁ、フレッド。今寝るところだ、平気さ。おまえこそ...」
「いや、水を飲みにきただけだよ」
「...そうか」
嘘は言ってない。そっとしておいても良かった。でもその苛立った表情が、いつもの威厳を欠いているような余裕のないものなのが気にかかり思わず声をかけてしまったんだ。...今寝るところだなんて、とてもそんなふうには見えない。
俺は黙ってキッチンに引っ込み、鍋にミルクを温め始めた。シュガーを取り出そうと戸棚を開けたところでその瓶が目に入る。...やっぱりこっちにしよう。マグカップに注がれた乳が湯気を立て、大匙で入れた黄金色と混ざりながらくるくる回る。砂糖よりハチミツの方が、彼の喉にもいいだろう。
カップを持ってリビングに戻ると、マークはまだ同じ姿勢で座っていた。
「ホットミルク。飲む?」
彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷静な口調で言った。
「...悪いな。気を遣わせちまったか」
「いいさ。使用人は早寝しようが夜更かししようが給料は変わらないし」
「はは...ごもっともだ。まぁ座れよ」
少し肩の力が抜けたらしい彼に促され、向かいの椅子に座る。テーブルに散らばっているのは、スケジュール表、会場リスト、セットリストの修正案、照明プラン...そんなものばかりだ。俺の視線に気付き、彼は苦笑いを浮かべる。
「参ったもんだ。音響は会場ごとに違うっていうし、スケジュールの調整も...バンドとの合わせをもっとやるべきなんだ」
「...きみの仕事は、パフォーマンスじゃないのか?」
「そうだが...例えば照明のタイミングひとつで舞台の印象は大きく変わる。どんなに細かいことでもステージを台無しにする可能性がある以上、なるべく全てを把握しておきたいんだ。...やっと掴みかけた成功だ、リーダーとして弟たちの面目を潰すわけにいかない」
筋肉質なその体には、目に見えない色んなものが背負われている気がした。
カップから口を離した彼が顔をしかめる。
「甘すぎるぞ、これ」
でも俺はわかってる、それが強がりだってこと。
「そう?きみは甘党だって聞いてたから」
「...誰に聞いた?」
「ソロモン。でも2年近くここにいればそのくらいわかるよ。いつもトーストにあんなに厚くジャムを塗るじゃないか」
マークは少しはにかんで降参のポーズを取る。そしてぽつりぽつりと語り出した。
「...将来は、プロデューサーになりたいと思ってる。だからそのためにも色々やってきたつもりだったが...駄目だな。あいつにまたキツく当たっちまったよ。ソルが誰より努力家だってこと、知ってるのに」
今は朗らかに見えるここの奥さまが、昔はなんでも自分で抱え込むタイプだったという話を聞きかじったことがある。なるほど、そのDNAは彼に引き継がれているのかと思うと合点がいく。
「長男とリーダーと父親代わり、昔からその3つをやろうと俺なりにもがいてきたんだ。でも結局1つとしてまともに出来てないのかもな。毎日レッスン漬けにさせて弟たちの十代を奪っちまった。悔やんだよ。なのにまた今も同じことをしてる...」
大きな手がカップを包み込むように持って、底をじっと見つめている。マーカスがこんなにナイーブな面を覗かせたのは初めてだった。6フィートと3インチはあるはずの長身が、今は小さく見える。
「きみは立派にビッグ・ブラザーをやってると思うよ、マーク。青春時代が潰れたのは2人だけじゃない、きみもだろう。その犠牲があったから今BHはこんなに輝いてるじゃないか」
これは心からの本音だった。兄貴はヴァージンなのさ、なんてジョークをカルが嘯いていたが、今の話を聞くと彼がガールフレンドを持つ暇もグループのため費やしたのが容易に想像できた。あれはあながち大嘘というわけでもないのかもしれない。
「そのプロデューサーってのは将来の目標なんだろう?今すぐ完璧にできるわけがないよ。これから少しずつ経験を積んでいけばきっと...」
その濃い眉がひそめられたのを感じ言葉を切る。...部外者が意見するのはやはり良くなかったか。俺は少し緊張しつつ、一気にミルクを飲み干す喉仏を眺めていた。
「...おまえの言葉は父さんに似てるな。ソルが懐く理由がわかった気がする」
息を飲む。...ソルと俺とのことを気付いて...?いや、まさか。彼は続ける。
「おまえが来てからあいつは明るくなったよ。自信が無いって言い続けてたソロアルバムのプロジェクトも最近は積極的になった。いつの間にあんな曲を作れるようになったんだか...フレッドの影響もあるかもな」
「そんな、俺は何も...」
「...もうこんな時間か、少し休むよ。おまえ相手だとつい余計なことまで喋っちまう。...ありがとう、これからもうちを頼む」
彼はようやく小さく笑い、リビングを出た。疲れ切った笑顔だけど、そこにはいつもの頼もしさが少しだけ戻っていた。
...俺は、この家の___ソルの支えに、少しはなれてるのかもしれない。残された空のマグカップを眺めながら、俺はここに来る前の胸のざわつきが少しおさまっていることに気付いた。
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