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第8話
数日前から俺は大掃除に取り組んでいた。家具の上の埃をはたき、床を磨き上げ、換気扇まで洗う。スプリング・クリーニングの時期でもないのにここまでやるのは、BHのドキュメンタリー企画としてこの家に撮影クルーがやって来ることになったからだ。
「頼むから大人しくしといてくれよ、母さん」
「わかってるわよ。ティーンエイジャーの頃は女優に憧れてたんだもの、慎ましやかなミセスをやってみせるわ」
「出番はきっとワンシーンだけだぜ」
一切映らない俺ですら奥さまのように落ち着いていられない。シンクの曇りなんか誰も見ないぞ、そうマークに肩を叩かれるまで、俺は掃除に躍起になってたみたいだ。
その日のヘイズ家はいつもと別世界だった。カメラが運び込まれ、ケーブルが床を這い、見知らぬスタッフ達が忙しなく動いている。ソファの位置が変わり、テーブルの代わりに照明が置かれ、リビングはあっという間にスタジオへと変貌した。まるでこの家が商品にでもなったかのようだ。
俺がやることといえば、スタッフに飲み物を運んだり、重い機材の積み下ろしを手伝ったり。それ以外の時間はなるべく邪魔にならぬよう隅の方で存在感を消していた。よそ行き用の化粧を施した奥さまは美しく、女優を志していたのも、兄弟たちのルックスがその人気に拍車をかけている事実も納得だ。妙に居場所が定まらず廊下に留まってそんなことを考えていた。
「三人とも、スタンバイ」
リビングにやってきた兄弟たちを見て思わず息を飲む。悠然と歩くマーカス、微笑みを浮かべるカルヴィン、二人に守られるようセンターに立つソロモン。いつもと同じはずなのに、雰囲気はまるで違う。俺が仕えているヘイズ家の三兄弟は、The Boogie Hayesとなって現れた。
やがて照明の白い光が部屋を満たし、スタートの声がかかる。その瞬間だった。
「今回のニューヨーク公演は、僕たちにとって大きな意味のあるものだった。素晴らしい経験でした」
背筋を伸ばし、顎を僅かに引く。その場にいる全員の視線を真正面から浴び、柔らかであるが一切隙の無い表情をカメラに向けている。声は低く落ち着いていて、淀みなく滑らかに言葉が紡がれていく。...若き天才。スターのソロモン・ヘイズが、そこにいた。
「新曲はきっと皆さんを満足させられる出来になったと信じてるよ。僕たちの強みはやはりコーラスワークだ、兄さんとだからこそ表現できた部分もあると思う」
インタビュアーの質問に答えるたび、言葉の一つ一つがプロのシンガーとして磨き上げられた宝石のように響く。...これは本当に、あのソルなのか?恥ずかしがり屋で、時に無邪気で、夜には俺の名を囁く...俺が知っているどの彼とも違う。カメラの向こうに向けられた言葉を聞きながら、胸の奥にうまく言葉にできない違和感が広がっていく。
「父との思い出が残るこの家がとても好きなんだ。母の愛と兄の存在、僕の歌の原動力は家族だから」
完璧な答え。完璧な表情。全てが計算され尽くされている。カメラが回っている限り、世界は彼のものであるかのようだ。...そういえば今日は一度も彼と目すら合っていなかった。
「オーケイ。良かったよ」
空気がふっと緩んだ。人々が動き出し、水や資料が手渡される。さっきまでの張り詰めた空気が嘘みたいに解けていく。その流れの中で、若いスタッフの一人が俺の方をちらりと見た。
「彼も兄弟かい?」
何気ない声だった。軽い興味。場を和ませる程度の一言。
「ああ、俺は...」
言いかけたとき、ソルが言葉を被せた。
「ただの使用人」
___事実。間を置かず、短くはっきりとした返答。事務的で、温度も感情も無い。
...あぁ、そうか。
「あ、そうなんだ。失礼」
スタッフはすぐに笑って流した。特に気にした様子もない。会話はそのまま別の話題に移っていく、何事もなかったみたいに。
それはショックというより納得に近かった。俺はこの家の人間じゃない、ただの雇われだ。アルフレッドという名を略して呼ばれるようになっても、同じテーブルで食事をしていても、それは変わらない。…一体何を期待してたんだ。
リビングに再びライトが焚かれる。その光の中で、彼は完璧に笑っていた。その姿を見ながら、俺はただそこに立っているしかなかった。
長い1日が終わり、家は元の静けさを取り戻している。廊下の軋む音に気付いたとき、もう夜はすっかり更けていた。小さなノック。
「…入っていいかな」
「ああ」
聞き慣れた声に答えると、ソルは照れたように、それでも嬉しげに部屋に入ってくる。後ろ手で鍵を閉める仕草ももう見慣れたものだ。自然と距離が近くなる。言葉は多くなかった。もうお互い分かっていたから。
背中から抱き寄せ、首筋に口を寄せる。手を前に周して彼の寝巻きを緩め、そっと素肌に触れていく。ソルの呼吸が少しずつ乱れていくのがわかる。
「...フレッド…」
名前を呼ばれる。安心しきったように身を預けてくる彼を腕の中に収めながら、俺の心はどこかここになかった。
彼の熱を指でゆっくりと擦り、徐々に昂らせていく。いつもと同じはずの夜。でも脳裏には昼間のことが焼き付いて離れなかった。完璧なスターと、一介のハウスマン。触れているはずなのにどこか遠い。この距離すら仮のものなんじゃないかと錯覚する。
「はぁ、...」
手の中のものが震えた。ソルの甘いため息が、彼の終わりが近いことを訴える。それを聞いたとき、さっきの大様な表情を浮かべた姿と、あの無機質な言葉が蘇った。...俺はどっちを見てるんだ。一体どっちがソロモンなんだ。
一瞬、妙な衝動が過ぎる。確かめたい、どこまでが俺のものなのか、どこまでならこの手で支配できるのか。
「...え」
ソルの体が強張る。僅かな焦りと戸惑いが声に混じっている。あと一歩で届くというところで急にぴたりと止められたらそうなる、わかってる。わかっているのに、俺はそうした。彼が恐る恐る振り向く。乱れた巻き毛の隙間から覗く瞳には、欲と不安が写っていた。
「っ!?...あ、!」
指を動かす。激しく。細い肩が電流を送ったようにびくりと跳ねる。それも数度でやめる。遮るように根元を押さえる。ソルの喉から苦しげな喘ぎが小さく漏れた。
「っ...はぁ、はあ......なん、で...?」
ほんの少しだけ震わせるように動かしては、また止める。ソルの腰が微かに前後に揺れ___本能で勝手にそうなってしまうのか___必死で刺激を追い求めているのがわかる。もう一度強く擦りさえすれば終わるのに、俺は必要な速度と圧を与えなかった。
「フ、レッド...」
ソルが縋るかのように俺を呼んだ。彼は今、全てを委ねている。彼をこれからどうしてしまおうが全ては俺次第なんだ。...我に帰る。自分の欲深さにぞっとした。俺はこの子を、ヘイズ家の大切な三男のソロモンを、アメリカのショービズ界からの注目を一身に浴びているソロモンを、自分だけのものにしようとしている。
「...ごめん。ソル。ごめん」
何をやっているんだ、俺は。手を動かし、今度はちゃんと最後へ導く。背中から抱きしめてうなじに何度もキスをしたって、そんなことは何の償いにもならないのに、そうせずにはいられなかった。...この首元を強く吸い、俺の跡でも残せたならどんなにいいだろう。
「っ、あぁぁ...っ」
達するソルが枕に顔を埋めたのが、部屋の外まで声が漏れないようにするための無意識の行動であることはわかっていた。もしも今この瞬間を人に見られたら、俺は雇われ先の子供に手を出したとしてすぐにでもここを出て行くことになる。でも、そうならないように、彼はそうした。
カーテンの隙間から月明かりが僅かに入ってくる。ソルはベッドに横たわったまま聞いた。
「どうしたの、今日」
責めるでもなく、ただ不思議そうに。
「...俺って、ただの使用人なんだなって気付いたよ」
言い訳、弁解、そのどれも見当たらなくて、ただそのままを口にするしかなかった。少しの沈黙のあと、彼は微笑んだ。
「なんだ、そんなこと。スタッフの前だから強がっちゃっただけだ。もしかしてそれで意地悪してきたの?」
「...」
「ふふふ。きみ、可愛い奴なんだね」
"意地悪"という軽い響きと無邪気な笑い。違う、きみが考えているよりももっと根深いものがあるんだ、もっとひどいことなんだ。そう喉まで出かかった。ソルが腕を伸ばしてハグをねだったので、俺はただ応じた。
「苦しかったかい」
その体を抱きながら聞くと、彼は首を横に振った。柔らかな髪が肌に当たり少しこそばゆい。
「きみの触れ方って、きみが思ってる以上にずっと優しいと思う」
言葉を失った。表情は見えなかったが穏やかな声だった。彼は静かに付け加える。
「...それに、嫌じゃなかったよ、あれ」
その肯定が胸に落ちてくる。
「(...やめてくれ)」
さっき感じた衝動がじわりと形を変える。消えたわけじゃない。それをそのままにしていいものではないことははっきりとわかる。
ソルは何も知らない顔で、すぐそばにいる。ただ無防備に、この俺を信じきったまま。
子供らしくない。大人たちから何度かそう言われたことがある。父親が出て行ったときからだろうか?落ち着いていて理性的である、母親に面倒をかけない、それが良いことだと昔からなんとなく思い込んでいた。母親は一日中働いていたし、兄弟もいないあのアパートメントの一室で、俺はただ淡々と学校・家事・アルバイトをこなすだけだった。落ち着きと理性を失うような場面に遭遇することも無く、20年間過ごしてきた。
それが、ソルの存在によって崩れかけてきている。これまでの自分らしくなく感情的になったり気持ちが揺れたりするとき、その中心にはソルがいる。これがいわゆる『魔が差す』って奴か、今夜のことで初めてそれを味わったことに気付いた。冷静に考えてみろ、たとえきっかけが向こうからだとしたって、純真なたった18歳の男の子と、それもこれからどんなにビッグになるか知れない才能を持ったような子と、こんな関係になっていいはずがないだろう。最初からなにもかも間違っていたんだ。全部、俺が悪いんだ。
『黒い金剛石の天使』だって?...笑わせる。この腕の中で微睡んでいるこいつは、俺の理性を少しずつ蝕んでいく、甘く静かな悪魔だ。微かに寝息を立て始めた彼が、愛おしくて、あまりにも愛おしくて、たまらなかった。
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