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第9話
スタジオの空気はもはや生温かった。スタッフ達の煙草が灰皿をいっぱいにし、何杯目かもわからないコーヒーの匂いが漂っている。最近の僕はここに籠もっていることが増えた。今度はグループではなく、ソロアルバムのために。
作業は停滞していた。いや、僕がただ与えられた曲を指示されたように歌うロボットになってしまいさえすればみんなはとっくに帰れているんだろう。ヘッドホンを耳に当て、まだ歌を乗せていないその曲をまた再生する。ピアノの優しいイントロ、控えめなストリングス、甘く切ない旋律。
「(...つまらない)」
口にはしないがそれが本音だ。悪い曲じゃない、むしろ丁寧に作られた美しいバラード。ラジオ向きだし、何か愛を囁くようなリリックに乗せて歌えばファンの女の子たちはきっとまた泣いてくれる。...でも、違う。僕が本当に求めているもの。もっと身体の底から突き上げてくるビート、聞いた人を問答無用で踊らせるリズム、本能を揺さぶる熱を持った音。
「...この間の、僕の作ったデモはどうなったの」
「上にも提案したよ。ただ...やっぱり採用とまでは行かないな。まだ早いって」
「...そうか」
ソロアルバムと言いながらも、結局周囲が求めているのはパブリックイメージ通りのソロモン・ヘイズなんだろう。旬の人気アイドルグループ、ディスコ時代の若きプリンス___好き勝手な肩書きを並べて、それに合った曲を求める。...ビジネスだ、ある程度は仕方ない。それでも兄さんたちは少しずつ前に進んでいる。夜の街に出向いてクラブシーンの生きた情報を得てくるカルヴィン、それを元に組み上げて形にするマーカス。そのおかげでBHは少しずつではあるが自分たちで方向性の舵を切れるようになってきていた。僕がやることは、最高のパフォーマンスをすること。セールスを維持して、兄たちのやっていることは間違っていないんだと周囲に証明するために。
その兄は、今はいない。ミキサーやエンジニアと一緒になって音作りに立ち会うマークも、煮詰まった場では良いものは出来ないと愛嬌を振りまいて空気を軽くするカルも。
「ソル。もう1テイク行けるか」
「ああ」
僕は立ち上がって、またブースに入った。
家に帰るとまっすぐガレージに向かった。いつものように使い込まれたキーボードの前に腰を降ろす。指が鍵盤を這い、昼間歌った曲とはまるで違う音がトタンに吸い込まれていく。低音を効かせたグルーヴ、四つ打ちのビート、僕の声で乗せたいシャウト気味のフック...頭の中でそれらを想像しながらコードを重ねていく。アイデアは溢れてくる。けれど、まだ形にはなりきらない。
そのときシャッターが開いた。ネクタイを緩ませているマークと、派手なジャケットを肩に引っ掛けたカルが入ってきた。
「おう、ソル。またやってんの」
「まあね。兄さんたちはパーティ帰り?」
「仕事みたいなものだ」
「半分付き合い、半分偵察ってとこだな。現場のDJとのパイプは作っといて損はねえ」
「付き合いであんなに飲む奴があるか。偵察で女を口説く必要性は?」
「うるせえなー」
言い合う2人を眺めて頬が緩む。いつもの光景。それだけでなんだか安心できた。
ふと、マークがこっちに向かってくる。
「今の曲、おまえのか」
「そうだよ。まだ途中までだけど」
「もう一度聴かせてみろ」
促されて鍵盤を叩く。さっきと同じ音色を、2人が黙って聴いている。半端なままの未完成のフレーズ。弾き終えて数秒、キーボードの余韻が消えるまでガレージは静かだった。
「いいじゃん」
カルがパチンと指を鳴らし、明るく言った。
「そうかな」
「バラードばっか歌わされるって言ってたけどさ。もっとこういう、腰に来る感じの方がお前っぽいよ」
わざとらしくステップを踏んで見せる姿を見て、思わず笑った。彼はいつだって僕の気持ちをちゃんと汲んでくれる。
「悪くない。俺ならGOを出す」
長身を屈めて譜面に目を落としていたマークが口を開いた。その一言に少しだけ背筋が伸びる。
「ただ、」
やっぱり続きがある。
「今は市場に求められるものをちゃんと出して、世間に信用されるべき時期だ。おまえの名前だけでレコードが売れるようになれば、次はおまえの好きにできる」
「...」
「焦るな。まずは土台を固めろ」
彼の声は厳しかったが、目は穏やかだった。僕は鍵盤の上に手を置いたまま聞いていた。正しいことだとわかっている。わかっているからこそ、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
ダイニングでは母さんが後片付けをしていた。いつもならその役割は彼のはずだ。どこかで別の仕事をしているのか、その割には物音はしないし気配もない。
「フレッドは?」
母さんが顔を上げる。
「今日は急遽実家の方に帰ったの。でもすぐに戻るって言ってたわ」
たまにあることだった。もちろん不思議じゃない。ひとり親で育ったと言っていたし、彼には彼の事情や生活があるんだろう。頭では理解していたが、少しだけ胸が空く。今日はなんだか会いたい気持ちだったから。この家に帰ればどこかに彼がいてくれる、それが当たり前になっていたのかもしれない。
自室に行き、ベッドに入る。サイドテーブルに置いてある聖書は、以前なら眠る前に必ず開いていた。ページをめくり、言葉をなぞり、祈る時間があった。けれど最近はそれが明らかに減っている。神のことより考えることが増えすぎたせいだろうか。毎日の仕事、明日のショー、次のレコーディング。それに、あの筋張った手と落ち着いた声。...フレッド。
彼のいない夜がこんなにも切なくなってしまった。心臓の音が少しだけ早い。自然と手が下へと向かう。瞼を閉じる。あの、常に少し眠たそうな目と、笑うときだけ柔らかくなる口元が浮かぶ。
寝返りを打って顔を枕に埋め、僕は耽っていった。
もしも、いつかそのときが来たら。本当にそうなれる日が来るのだとしたら。それはどんなに優しく甘いものだろう。
彼はいつもそうだ。いつだってゆっくりと触れて、小さな刺激でも僕を気にかける。押し付けず、確かめるように。だからきっとそのときも怖くない。不安が無いわけじゃない。でもそれ以上に彼を信じている。苦しくても耐えられる、彼が僕を求めてくれているのなら。
その手で背を撫でてくれる、安心する言葉を囁いてくれる、身体がきみで満たされていく、最後まで抱きしめてくれる___フレッドならばきっと。そんな夢想が体を熱くさせる。
「...っ......はぁ...」
手の中で温いものが散り、力が抜けた。静かな部屋に自分の息だけが漂っている。しばらくそのまま、余韻でぼんやりとした頭で考えた。気付けばフレッドとの関係に今以上を求め始めている自分がいる。もっと近付きたい。普通の、世間で俗に言う『恋人』みたいに。当たり前に抱き合って、当たり前に触れ合いたい。
思考より先に体が動いていたことに、自分でも驚いていた。濡れた手が後ろに回る。ぬるついた指先がそっとそこに押し当たる。歯を食い縛って、少しだけ中に進む。
「ッ......」
痛み。指一本の先端だけなのにも関わらず体が強張る。それでも彼に全てを委ねているような想像が頭を過ぎり、進めようとした。
「......痛...」
震えた声が漏れる。手が思うように動かない。ゆっくり抜いてはまた押し込み少しずつ慣らそうとするけれど、気持ちばかりが焦って上手くいかない。思いだけが先走って身体がついてこない。...どうしたいのか、自分でもよくわからなかった。ただ満たされない何かがそこにあって、それがじくじくと奇妙に疼いている。痛み、罪悪感、渇望___全部が混ざり合って頭をぐちゃぐちゃにする。
それでも指をもう一本重ねようとした瞬間、痛みが強くなって、僕は小さく声を上げて手を引いた。ベッドに突っ伏す。胸が激しく上下し、息がまだ荒い。
月明かりがカーテン越しに薄く差し込み、部屋の中に淡い影を落としていた。心の中でも祈りの言葉はもう出てこない。代わりにあるのは焦がれた気持ちと、触れて確かめたい衝動、それでもまだ踏み出せない臆病さ。全部ひっくるめて、きっとこれが...恋、というやつなんだろう。
数ヶ月が経ち、LPが発売になった。初動の売り上げは順調らしい。もちろん全て思い通りになったわけじゃないけれど、今自分ができる範囲では精一杯やったつもりだ。The Boogie Hayesの三男としてじゃなく、ただのソロモン・ヘイズとして認められるための一歩を踏み出せた気がした。
息つく間もなく仕事が押し寄せる。プロモーションでスケジュールが真っ黒に埋まった。次から次へと衣装を替え、笑顔を貼り付け、質問に答える。
「今回のLPは、きみ自身も多く曲作りに参加したと聞いてる。例えばこのリード曲、すごくリアリティのあるラブソングだ。どんな思いを歌詞に込めたんだい?」
「そうだな。先の見えない恋愛のもどかしさ...そういうものを想像してメロディに乗せたんだ」
嘘ではない。近付きたいのに近付けない、触れたいのに触れきれない。少なくとも今の僕にはその感覚がよくわかっていた。
仕事を終えて家に帰る頃にはくたくただった。それでも足は自然とその部屋へ向かう。見慣れた扉の前で立ち止まりノックをする。フレッドに迎え入れられ、並んで座る。いつもと同じ。...でも、今夜は僕からもう少しだけ。
彼の肩をそっと押してベッドに倒し込み、そのまま覆い被さる。スプリングがぎしりと音を立てた。顔を覗き込むと、その目が僅かに見開かれた。彼の広い胸に手をやりシャツのボタンを外していく。余裕のあるふりをして顔を作るけれど、心臓はばくばくと鳴り始めて、片手でのその作業は上手くいかずまどろっこしかった。
「...ソル。無理しないで」
「してないよ」
そう答えながらも、この言葉が説得力を持っていないことなんて自分でもわかっている。優しく見上げてくるその瞳にはもう見透かされていた。彼は小さく笑って僕の肩を撫でた。
「俺は、きみとこうして過ごしてるだけで気分が良いから」
その一言が胸に静かに落ちていく。僕は黙って、崩れるようにその胸元に顔を寄せた。腕の中に包まれる。たぶん今夜もこれ以上のことは無いんだろう。服を隔てて感じる彼のあたたかさがもどかしい。...ずるいよ。優しいだけじゃもう足りないのに。だけど、僕の忙しい毎日や彼の留守がある日々の中ではこんなふうにハグを交わしているだけで充分に幸福だった。
目を閉じる。ラジオからクワイエット・ストームが薄く流れている。深夜番組のスロージャムと、ただ静かで柔らかな時間がそこにあった。
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