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第10話

ビルディングの駐車場。俺は運転席で本を読みながら、時折ウインドウ越しに外を眺めていた。かっちりとスーツを着込み忙しなく駆けていく奴、映画の登場人物よろしく気取った奴、いかにも業界人だというように肩で風を切って歩く奴...芸能事務所らしく様々な人が出入りしている。そのうちに3人の姿が近付いてくるのが視界に入ると、俺は本を閉じキイを回してエンジンをかけた。 「だから、あの曲こそ次のショーで演るべきだって言ってるだろ」 助手席のドアを勢いよく開けながら、カルヴィンが声を荒げる。 「へえ、あの詰め切ったセットリストの一体どこでだ。聞いてみたいもんだな」 マーカスがどかりと後部座席に座ると車そのものが揺れるようだ。その隣に心底面倒臭そうな表情でソロモンが腰を降ろしたのをミラー越しに確認してから、俺はアクセルを踏み込んだ。 送迎は嫌いじゃない。通行人でも観察していれば待つことはそこまで苦と思わない。しかし、こんな密室で口喧嘩を繰り広げられるのはまっぴらごめんだ。兄弟仲は勝手にすればいいが、雰囲気が悪いと俺が仕事をしづらくなる。 「初期のメドレーの前にでも突っ込めよ」 「脈絡が無さすぎる。流れに乗ってない」 「んなもん客が湧けばどうでもいいだろ。机で電卓叩いてるだけでステージのこと知った気になりやがって」 「慎め!今は新曲が優先だろう。...ソル、おまえはどうだ」 「...la,la,la...」 「チッ。シカトかよ」 売り言葉に買い言葉。やれやれ、とそんな気持ちでハンドルを握り直す。都会から郊外に出ていく景色の中で、車内にはソルのハミングだけが微かに漂い続けた。 「...フレッドは、どう思った、今の曲」 沈黙を破ったのはソルだった。兄たちの怪訝そうな視線が刺してくる。音楽に疎い上に演出や構成に関して何一つ知らない、その俺に意見を求めるのか...。仕方なくため息をついて口を開く。 「...雨の日のポップコーンワゴン」 「...なんだそれは」 「しっとりしてて甘い、大人しいけど足が止まる。ただそう思ったから言っただけ」 マークの低い声の問いに返すと、今度はカルが隣から聞く。 「...じゃあ、オレらのデビュー曲は」 「Midnight Boogie?あれは...ジンジャーエール。小さな嵐。キャッチーだけど目新しい」 またも車内が静まり、ウインカーの音が響く。ソルがぽつりと言った。 「ポップコーンとジンジャーエールのコンビって、いいよね」 「...まあな」 「マーク。僕もあの曲演りたい」 「...考えてはみよう」 車は見知った通りに出た。もうすぐ家。 「...フレッドさぁ、お腹空いてる?」 「少し」 「ふっ...くく...」 「兄貴がウケてら」 母親の前では仕事絡みの喧嘩はしない、そんな暗黙のルールでもあるのか、いつも彼らが最悪なムードを家にまで持ち込まないのは幸いだった。 「お前の例えって文学的でワケわかんねえ。オレらと一緒にいるんだったらもっと音楽のことわかっててくれよ」 車を降り、カルが笑ってそう言った。 夜。家族の使い終えたタオルを集めていると、奥さまに声をかけられた。 「フレッド、あなた誕生日が近いわよね」 「はい。よく覚えていらして」 「考えたんだけどね。何日か暇をあげるから、今年は家に帰って過ごしたらどうかしら。お母さまの体調も心配でしょう」 「ああ...。でも何かあればその都度帰らせて貰っていますし、電話では最近は落ち着いていると」 「親はね、子供の特別な日くらい覚えているし、一緒にいたいものなのよ」 微笑み、タオルをひったくって鼻歌まじりに洗濯機へ向かっていった奥さまの背中を、俺は眺めていた。 あまりにも馴染んだ、落ち着く匂い。アパートメントのこの一室は、特別久しぶりというほどでもない。 バースデーボーイは引っ込んでいなさいとキッチンに立とうとする彼女を制止するには、孝行してこいと主人から言われているだとか、奥さまの言葉を大げさに装飾して伝える必要があった。俺と同じで動いていることが好きなんだ。その背中は以前よりいくらか痩せたようではあるけれど。 「無理してないか?」 「薬が変わってからはずいぶん調子が良くなってね。それよりあんたこそ平気?仕事を抜けるようなことして...」 「はは。許可貰ってるに決まってるだろ。それに、休暇は向こうからの提案だ」 「いい人たちに囲まれてるんだね」 そうだ。俺には申し分ないほどの環境に置かせてもらってる。...ただ一つ、堂々と人に言えないようなことを抱えているのが後ろめたいくらいで。 そのとある日、母さんがパートタイムの仕事に出かけ、俺も家事を済ませてしまうと、特にやることはなかった。...本屋でも行くか。そう思い立ち、軽く上着を羽織って外に出た。 地元に帰るたび少しずつ街が変わっていくのを実感する。昔通っていたブックストアーも、外観こそ同じなものの棚の位置などは記憶とは微妙に違っていて、店員も知らない奴だった。マガジンラックの前で足が止まる。もっと音楽のことわかっててくれよ___カルの言葉をふと思い出した。俺はいつものような小説じゃなく、音楽誌を持って会計へ向かった。 公園のベンチで雑誌を開く。見たことのあるような気もするスターの写真に、よくわからない音楽用語。ページをめくっていき目が留まったのはやはりその記事だった。...こんな華やかな舞台の裏ではこの間のような喧嘩だってあることを、世間は分かってるんだろうか。 ___The Boogie Hayes:キャリア史上最大規模のステージを成功 新世代の現在地 重厚なグルーヴにコーラスが完璧なバランスで重なり合う。その中心で観客の視線を一身に集めていたのはやはりソロモンだ。神童と呼ばれた彼の歌声は今や進化を遂げている。音に宿り始めた深みと艶は、単なる技巧ではなく、経験と内面の成熟によって裏打ちされたものだろう。ソロアルバムで自作曲への意欲も見せた彼は、既存の枠に収まらずリズム志向らしい音楽的野心を感じさせていた。 ステージに爆発的なエネルギーをもたらすのは『BHの火薬庫』カルヴィンだ。しなやかでありつつ激しく挑発的なダンス、全身から滲み出る遊び心とセクシーさ。彼自身が考案した振り付けも評価が高い。BHのライブが"体験"と呼ばれる所以は、間違いなく彼のパフォーマンスにある。 それらを支えているのがマーカスの存在だ。サウンドに揺るぎない重心を与えるボーカルと、体格を生かしたダイナミックなステージング。音楽面や演出まで手を掛けプロデューサーとしての役割をこなすようになったという彼。リーダーとしての統率力も含め、彼こそがBHの背骨であることを遺憾なく見せ付けていた___ 気配を感じ、読みかけの記事から顔を上げる。覚えのある顔がこっちを見ていた。 「...ああ、久しぶり」 「やっぱりフレッドね、卒業以来だわ。驚いた、都会で働いてるって聞いてたから」 学生時代に少しだけ付き合いのあった相手。女性は男よりも変化が早いとはよく聞くが、彼女も例に漏れずあの頃より大人びていた。並んで歩き始める。歩道に二つの影が伸び、あの日の放課後にどこか似ていた。 「大学生活は充実してるわ。やりたいことが沢山あって時間が足りないくらい。あなたも忙しいんでしょう?」 「それなりに。少し...変わった仕事だから」 「ふふ、昔からそうね。バイトで忙しいって、私とろくにデートしてくれなかった」 「悪かったよ」 気付けば彼女の家の前だった。彼女はなんの迷いもなく部屋へ促した。頭のどこかで何かが引っかかる。ここで別れることもできたはずだ。しかし俺はそのとき、なぜかそうしなかった。真っ当で現実的な関係、そんなものと長らく離れていたからだろうか。 薄暗い部屋での指先の感触は、全てが自然なものだった。シトラスの匂いの香水と柔らかな肌。...こうあるべきだ、本来ならば。息が重なり、彼女の内が穏やかな刺激を与えてくる。これが普通だ、健全だ。違和感なんか感じるんじゃない。一体誰と比べて、しっくりこないなんて思っているんだ、アルフレッド。 腕の中の彼女に見つめられ目を逸らす。あんな記事を見たせいだろうか、どうしても思い出される。喉のためにいつも舐めているキャンディの味がどこにもないキスは、満たされるどころか胸が空いた。 もしも誰にも咎められず、立場も関係なくて、何も失う心配がない...そんなあり得ない仮定が通るのだとしたら。俺はあいつをめちゃくちゃにしてしまうかもしれない。息もできないほど深く、潰すように抱きしめて、泣かせるまで追い詰めてしまうかもしれない。奥まで激しく突き上げて、何度も限界を越えさせて。無垢すぎるあいつが、それを優しく甘いものだと思っているのだとしても。 そんな想像だけで熱を持った腰を、俺は彼女に押し付けていた。 数日ぶりにヘイズ家の自室に入ると、夕刻の陽が机の上に置かれているものを照らしていた。『Dear. Fred -S.H』と書かれたカードと小さな花束。ソルだ。思わず頬が緩んだのも束の間、すぐにそれに気付く。かなり時間が経っているのか花はしおれかけ、カードは『Dear. Solomon』と書かれた上から雑に横線を引っ張り名前を直してある。 「誕生日おめでとう」 「おい。これ、きみ宛のプレゼントのリサイクルだろ」 「ばれた?」 「隠す気を感じられないよ」 「ふふふ。ねえ、いくつになった?30?」 「21。老け顔で悪かったな」 廊下から俺の部屋を覗いて笑っているソルに向かって、空気を軽く小突く真似をした。"内面の成熟"なんてどこのライターが書いたんだか。 「ガールフレンドとは会えたの」 ソルが悪戯っぽくそう聞いた。彼がその表情の裏でどんなことを思っているかはわからない。どう答えるべきかは考えたところで正解なんか無いんだろう。 「会ったけど、...きみのことを考えてた」 ソルが目を見開く。沈黙。その間、俺は彼から目を逸さなかった。 「...はは...。...なんだよ、それ」 戸惑った笑いが床に落ちる。困らせているのは承知だった。 「...なんなんだろうな、俺。...そうだ、奥さまはどこに?帰って来たと伝えないと」 「2階。母さんの部屋」 「わかった。じゃあまた、夕食のときに」 殺風景な部屋にしおれた花束の紫色だけが浮かんでいる。

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