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第11話

移動の車内と楽屋は、ほぼ休息のためのようなものだ。食事のタイミングを逃したため差し入れてもらったベーグルを片手に今日のスクリプトを読んでいたが、次第に瞼が重くなってくる。ソファに深く腰を沈めた僕を見てマークが聞く。 「ラインは覚えたのか」 「完璧。今日こそ家でゆっくり寝たいしね」 「ならいい。...もっと睡眠時間が取れるスケジュールにならないか、また交渉してみる」 そんな兄さんの着くテーブルには、付箋と書き込みだらけの資料がいっぱいだが、これも見慣れた光景だ。 「頼むよ兄貴。オレだって昨日の一人仕事、クラブイベントのホストだぜ。おもしれーけどさ、ほぼ完徹」 カルも鏡の前で髪に櫛を入れながらあくびをする。マークはそれを受け止めるように無言でまた手元の紙に目を落とした。 最近は本当に忙しい。ディスコ・ブームの波が本格的に世間に行き渡ったと見えて、それに伴い僕たちのセールスと動員も増えた。喜ばしいことには間違いない。ただ、仕事に追われ溺れてしまうわけにはいかない、というのが僕たちの一致した意見だった。やりたいことをやれず消費されて終わる、周りのタレントやミュージシャンがそうなっていくのを間近で見てきた。だからこそ今が重要なんだ。疲れてしまう日もあるけれど、そんなときはあの部屋で待ってくれている彼に会えばまた翌日も変わらず歌うことができた。 マネージャーが入ってきた。この人はいつも忙しない。 「マーク、脚本家が来た。打ち合わせを始めよう。それと、カルは次の衣装のフィッティングを」 「わかった。今行く」 「はいよ」 兄たちが立ち上がる。目をこすり、僕も後に続こうとした。 「おまえはいい。今のうちに少しでも喉を休めていろ」 出際で振り返ったマークにそう言われ、僕はひとり残された。ドアの閉まる音がやけに大きく響く。なんだか気持ちがざわついて、嫌な予感がした。 思った通り、数分後にドアがノックされた。返事もしないうちに入ってきたのはこのTVステーションの重役。いつもこうして一人になったときを見計らったようにやって来る。柔らかすぎる物腰と、ねっとりと絡みつくような視線。どうもこの男のことは好きになれなかったが、それを態度に出すわけにはいかない。 「おはようございます」 「やぁ、ソロモン。今日も良い仕上がりだ。華があるよ」 「ありがとう」 男はにこやかに近付いてきた。愛想を浮かべながらそれとなく体をずらすが、さらに詰められる。 「近頃色っぽくなってきたじゃないか。ステージでの目つきも変わってきてる。若さかな、羨ましい限りだ」 「そう見えますか」 金のリングをはめた太い指が肩に触れてくる。体が一瞬強張ったが、笑顔は崩さない。この業界ではみんな多少はしている経験だ、自分もこういう場面は初めてじゃない。今までもやんわり断ったり兄が守ってくれたりして切り抜けてきた。...平気さ、この程度。 「見えるとも。恋人でもできたかい。いつかゴシップにも出てたが...実はそっちなんじゃないのか?」 「はは...。ミスター、あなたまであんな噂を本気にするなんて...」 気付けば真横にはもう壁があった。逃げ場がない。男の指がゆっくりと滑り、身体を上からなぞっていく。肩、首元、背中...腰。そこは、あの手がいつも宥めるように撫でてくれる場所。 「ッ......!」 思いがけず声が漏れる。体がビクンと跳ね腰が引けた。それを彼が見逃すわけがなかった。その表情がだんだんと歪んだ笑みに変わっていく。目の奥が怪しく光っている。 「...ほら、やっぱり...」 背筋が凍る。頭が真っ白になる。それ以上は待たなかった。 「___失礼します」 僕はそう口走って男の手を振り払い、ドアを押し開けた。 楽屋を飛び出した勢いのまま足が止まらず、ひと気の無い非常階段の踊り場でようやく息をついた。壁にもたれてしゃがみ込む。少し震えている。嫌だったはずなのに体は別の反応をした。嫌悪と、優しく触れてくる記憶。それがいっしょくたに混ざって上手く整理できない。 「違う...」 額を腕に押し付けながら、自分に言い聞かせるように呟く。あれは彼じゃない。なのにどうして。 深呼吸をして段取りを思い出す。もうすぐ本番だ。スタッフが探しに来る前に顔を上げなければ。 送りの車から降り、庭先で彼の姿を見た。フレッドがポストから郵便物を取り出している。その手が慣れたように封筒をまとめているだけで胸が痛んだ。 「おかえり。今日は早かったな」 いつも通りの低くて落ち着いた声を聞いた途端、自分の中の何かがぐらりと揺れる。その目に映る自分が今どんな表情をしているかなんて、考えたくもなかった。 「フレッド。きみの部屋に行こう」 彼の眉が少し動いた。 「...どうした?」 「お願い、触って。今すぐ」 口が乾いてうまく文章にならない。玄関先、母さんは家の中、兄さんたちはガレージ。誰に見られるかも知れない場所でこんなことを求めるなんて、どんなにおかしいかわかっている。それでも引っ込めることはできない。まだ残っているあの感覚を全部消して、塗り替えてほしい。きみで上書きしてほしい。そうでなくては駄目になってしまいそうなんだ。 フレッドは周囲を素早く確認してから僕をまっすぐ立たせるかのように腕を掴み、表情をはっきりと変えた。 「ソル、落ち着いて。顔色が悪いよ。...これから俺の言うことを聞けるかい。自分の部屋に行って、ベッドに入る。そして朝まで眠る」 「フレッド、頼むから」 「きみは疲れている。こんなハードスケジュールじゃ無理もないよ。大丈夫、みんなには俺から話しておくから」 その声は優しかったが、僕の懇願をはっきりと拒否した。彼に肩を軽く支えられ家の中へ促される。玄関のドアが開き明かりに包まれた。彼に抱きついてしまいたい衝動を、僕は必死に押し込んだ。 どのくらい眠ったんだろう。部屋は真っ暗だ。手探りで枕元の時計を見ると、針が午前3時を指していた。体が重くて頭の奥が痛んでいる。...どうしたんだっけ。ぼんやり靄のかかる記憶をゆっくり取り戻そうとする。TV局、楽屋、重役、玄関...。触れられたあの指の温度をじわじわと思い出す。そのときだった。 「...うっ......!」 胃がひっくり返るような感覚。強い吐き気が喉の底から一気に込み上げてきた。慌てて口を押さえ、転がるようにベッドから飛び降りた。 明かりも点けない洗面所。蛇口から流れる水の音が、僕のえずく声を僅かにかき消している。白い陶器にいやな色の唾液が垂れ落ち、排水口に吸い込まれていく。 「...ぅっぐ...!う゛......げほっ...」 また押し上げてくるものがやってきて体を折る。洗面台の縁に強く掴まりながら身を屈め、激しく吐く。何度も、何度も。喉が焼ける。これじゃ歌えない。そう思うと更に胃が締め付けられるようだった。 いつのまにか、びっしょりとかいた冷や汗でシャツの張り付いた背中に置かれるものがあった。一瞬身構えるが、すぐにわかる。僕はこの温かさをよく知っている。 「ぐ、うぅ゛...!げ、ぇ」 波が来る。吐く。彼は僕の背を撫で続ける。黙ったままただそこにいる。一定のリズムが生ぬるくて荒い呼吸を少しずつ落ち着かせてくれる。 やがて、胃が空っぽになり吐くものが無くなった。熱を帯びた浅い息が洗面台に漂う。顔を上げる気にはなれなかった。鏡を見ずとも、吐瀉物と汗と鼻水に塗れたひどい面をしていることはわかっていた。 体は震え続けている。膝から力が抜けていく。崩れ落ちそうになったところを彼が支えた。強い腕に受け止められる。片方の手でタオルを濡らし、丁寧に僕の肌を拭う。額、目元、口元、濡れた布の感触が皮膚に触れる。ずっと伏せたままだった顔をようやく上げると、朝が近付き白んだ光に縁取られたフレッドがいた。何を言えばいいかわからない。彼もまた何も言わない。ただ、さっきまで荒れ果てていたものが、少しだけ和らいだ気がした。 「おい、王子。サボりか?」 薄く目を開ける。輪郭はぼやけているがそこにいるのはカルヴィンだろう。...いけない、仕事の時間だ。そう思い起きあがろうとするが無駄だった。体力が残っていないらしい。カルが言う。 「今日の取材はキャンセルだ。昼のイベントはオレとマークだけの出演。お前は夜のショーまでに万全にしとくこと。いいな」 「でも...」 「心配すんな。それともオレらだけじゃ不安だってか?ふん、今日はカルヴィン様スペシャルだぜ。お前のファンもカル贔屓にしてやるつもりさ」 いつもの軽い口調が優しかった。目を閉じたまま少し笑って答えると、部屋の外からマークの声が聞こえてくる。廊下の方を横目で見たカルが、やってるな、と苦笑した。 「...そうだ。今日は無しだ。...わかってる。だからさっきも言ったが...」 電話で何やら口論している。徐々にヒートアップして声が荒げられていくのが伝わってくる。 「...だから!ソロモンは限界だ!あいつは仕事をする機械じゃない、家族だ!俺の大事な弟を潰す気か?だったらこっちにも考えがある。覚えておけ!」 怒号と、勢いよく受話器が置かれる音。 「...心配すんな」 カルが僕の頭を撫でてもう一度そう繰り返し、立ち上がる。その袖を掴んで引き止めた。 「母さんは、知ってるの?」 彼は振り返って微笑む。 「疲れてるから大事を取って寝かせとくってだけな。フレッドがうまく言ってくれたから大丈夫だ」 それを聞いて安心し、僕はまた眠りに落ちていった。 あれからしばらく日々が過ぎた。フレッドの部屋は相変わらず整っている。僕はベッドに寝転んでノートに書かれた物語を読み、彼が帳簿を付け終えるのを待っていた。紙の上を滑るペンの音が心地良い。ページを開いた拍子にノートからぱらりと何かが落ちる。『Dear. Fred -S.H』...あのカードだ。栞代わりにしているなんて彼らしい。 「この話、続きは?」 聞くと、フレッドが少し驚いたように顔を上げる。 「もう読んだのか。新しくテレビジョンの仕事が始まったって聞いてたから、読む間なんかないと思ってた」 肩をすくめ、文に目を落としたまま答える。 「あれ、兄さんが契約切った」 「...へえ?」 彼は怪訝そうに反応し、ジョークめかして続けた。 「ずいぶん短命だったんだな、あのくだらないバラエティショー」 僕は笑った。くだらない、か。確かにな。 「わかってくれる?くだらないよ、...本当に。でも、もういいんだ。終わったんだ」 フレッドはどこか要領を得ないのか不思議そうにこっちを見ている。僕はノートをぱたんと閉じた。 「仕事終わった?」 「もう少し...」 「あとでいいよ」 被せるように言って、ベッドの端を叩く。フレッドはわざとらしくため息をついてペンを置き、立ち上がった。 ベッドが沈む。体温が近付く。くちびるが触れて、彼の手が回り背中を撫でる。まるで染みついた癖のようなその仕草ほど安心できるものは無かった。ここにいれば大丈夫、そう思える。僕は瞼を閉じて、今夜も彼に身を預けた。

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