13 / 48
第13話
電話を切ったあとも、しばらく受話器を握ったまま動けなかった。医者の声は淡々としていて、だからこそ余計に現実味があった。
「(...限界、か)」
母さんは伏せっていることが多くなった。薬で安定していたはずの状態がここにきて崩れたらしい。帰るたびに、このくらい平気だと笑うあの顔を当てにしすぎたかもしれない。思えば俺の小さい頃から働きづめだったひとだ、こうなるのは想定できていたはずのことだった。
最悪の場合、地元に戻る選択もしなければいけないとは思っていた。そしてさっきの電話は、その考えを固めるのには十分な内容だった。
廊下に立っている俺の後ろに、いつしか奥さまがいた。心配そうな表情を浮かべている。
「...奥さま、お話が」
「...わかったわ。マーカスにもいてもらいましょう。彼を私の部屋に呼んで」
彼女は俯きがちに階段を上っていった。
奥さまの寝室は、兄弟のもののそれよりも広い。元は夫との二人用の場所だったからだ。棚には聖書の隣に古い写真が大切そうに飾られ、その中に十数年前の彼女、幼い兄弟、そして俺が会ったことの無い男性がギターを手に微笑んでいる。___おまえは父さんに似てる、いつかマーカスにそう言われたことがあるが、写真の中の彼は無愛想な俺よりもずっとにこやかな顔をしていて、その言葉が単なる見た目のことなのではないとなんとなく知った。
「そうしなさい、絶対に。仕事なんかどうにでもなるけど、家族は替えが利かないのよ」
迷いの無いきっぱりとした声に救われる。決断にようやく重みが乗ったような気がした。
「4年半か、おまえが来てから。よくやってくれたよ。感謝してる。心から」
マークは黙って話を聞き終えると、俺の肩を叩いてそう言った。薬指に婚約指輪が光っている。
「ありがとうございます」
初めてここに来たあの日も、こうして2人の前で頭を下げたことを思い出す。___若い男手を探している家がある、君みたいに落ち着いていて、芸能人なんか興味の無いような奴をね。そう黒人教会から紹介されたアルバイトは、ハイスクールの夏の休暇だけの予定だった。それが、4年半。あまりにも平凡だった俺の人生にしては、随分いろんなことがあった。ありすぎた。
「カルとソルが悲しむな。特にソルは」
マークが出した名前を聞いた途端、視線が落ちた。胸の奥がずしりと重くなる。意思の強そうな眉、長い睫毛とブラウンの瞳、あの巻き毛、囁くような声。...俺は忘れられるだろうか。いや、忘れるんだ。
「寂しくなるわ、フレッドはもう息子同然だもの。それにしても運命の悪戯ね。...あなた達ももうすぐでしょう」
「ああ。最後のショーだ」
そう、The Boogie Hayesは解散が決まっていた。当然周囲からは猛反対されたらしい。けれど彼らはそれを選んだ。マークは裏方、カルは振付師、ソルはシンガーとしてそれぞれやっていく。最後を飾るため、今3人は日々準備に勤しんでいるのだった。
「カルヴィンには明日会ったとき俺から伝えておこう。ソロモンは...」
「いいよ。この後帰ってきたら言っておく」
BHが無くなる。俺もここを離れる。...いろんなものが、終わっていく。
「お母さん、そんなに悪いの」
「...そばにいた方がいいと、医者には言われた」
真新しいキーボードの鍵盤に触れる指が止まり、ガレージが静寂に包まれた。ソルは椅子を回し、体をこっちに向けた。大きな目がじっと俺を見つめる。数度の瞬きの後、彼は戸惑うでもなく、責めるでもなく、笑った。
「そっか。それがいいよ」
思わず息が抜ける。どこかで構えていたものがふっと緩んだ。寂しがられるかもしれないなどは思い上がりだが、少なくとも何かもっと言われるとは思っていた。しかし、彼はちゃんと"正しい答え"を選んだ。その正しさは、あの記憶の中の、カメラに向けたプロフェッショナルの歌手としてのものと重なった。
「いつ、行くの?」
「来週の終わりくらいになると思う」
ソルは微笑みを残しながら頷き、視線を鍵盤に戻した。再びコードが紡がれ始める。彼の後ろ姿は、もう髪が肩までかかりそうだった。
学生の頃にアルバイトをしていた印刷所に連絡を入れてみると、事情を話しただけで「戻ってこい」と答えが返ってきた。ありがたい話だ。紙だらけの空間、インクの匂い、マシンの音。あの頃と同じように、そんなものに囲まれながら働く生活がまた始まる。...悪くない。自分にも合っている。
奥さまからの援助の申し出は丁重に断った。そこまで甘えられる立場じゃない。そもそもタレント一家のハウスマンなんて職業、実入りが良いから決めた仕事だ。多くはないが母さんをしばらく支えられるだけの蓄えは出来ている。
急な話ではあったが、準備は順調に進んだ。元々持ち物が少ないから、自室の片付けを済ませるのにもそう時間はかからなそうだった。実家に持っていくような特別なものなんて特に無い。小説もどきを書いていたノートを手に取る。ソルがベッドに座って興味深そうに読んでいる横顔を思い出す。...一瞬迷って、段ボールの一番底に入れる。捨てることはない、だが、多分読み返すこともない。
その朝、街に引っ越したカルヴィンまでもが家に帰ってきて、玄関で俺を見送ってくれた。誰に対しても平等なその懐っこさで肩を組まれる。
「活版所だっけ?クビになったらいつでも戻ってこいよ。また部屋の掃除手伝わせてやる」
「いつの時代だ、印刷所だよ。...そうならないように努力する。ありがとう」
奥さまは泣いている。俺がハンカチで涙を拭うと、ハグをされた。慣れ親しんだ柔軟剤の匂いと温かさに包まれる。
「お母さまを大事にね。気を付けて」
「はい。お世話になりました」
マーカスが大きな手のひらを差し出す。俺たちは握手をした。力強かった。
「無理はするなよ。おまえならどこでもやれる」
「きみこそ。きみの新しい家族に祝福を」
最後にソロモンが俺の前に立った。静かに近付き両腕を広げる。細くも体幹を感じさせるその体を、今日まで何度こんなふうに抱き寄せただろう。
「...元気で」
そう囁かれる。そして俺の左の頰に、続いて右の頰に、短く口付けた。それは親しみを込めた友人としてのキス。誰が見ても、互いの幸運を祈った別れの挨拶。___幸福な友人同士ならば、ハグとキスくらい許される。昔の自分の言葉がふと蘇る。...ああ、そうだ。俺は確かにそう言ったことがあった。でも今この胸の奥に渦巻いている感情は、友人なんて名前を付けて片付けられるものなんだろうか。その答えをはっきり出せないまま、俺はここを出ていくけれど。
「さよなら、ともだち」
それ以上は何も言えなかった。
電車はゆっくりと街を離れていく。窓の外の景色が後ろへ流れていくのをぼんやり眺めていた。やがてビルの群れが途切れ、低い建物と空の割合が増えていく。膝の上に置いた手はどこか手持ち無沙汰で、さっきまでの温もりをまだ覚えている気がした。
...これでいい。そう思う。あの家を出た。距離を置いた。間違った関係からも、ちゃんと離れた。後ろめたいものはもう背負わなくていい。窓に映る自分の顔がどこかすっきりしているようにも見える。...ソルは、最初から俺なんかといるべきじゃなかった。こそこそと隠れるような関係を続けるよりも、もっと堂々と並んで歩ける相手と、普通の恋をするべきだ。その方がいいに決まっている。
電車は速度を上げていく。あの家が、もう戻ることのない場所かのように小さく遠ざかっていく。時間が経てば薄れていくんだろう。物事っていうのはみんなそういうものだ。そうじゃないと、困る。
電車が止まることはない。ただ前に進んでいく。俺も同じ。そして、彼もまた。
そう思い込むようにして、俺は目を閉じた。
ともだちにシェアしよう!

