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第15話
「手は回しておこう」___その言葉の通り、それからの現場は奇妙に整っていった。
グループ時代に仕事をしたことのあるバンドがスタジオミュージシャンとして加わった。以前なら没にされていた自作曲が保留に回った。理由は知っている、後ろ盾ができたんだ。あの男の名前は思っていた以上に通じるらしい。押せばやれないこともない、そんな空気が生まれていた。
「メロディは悪くない。提案だけはしてみよう。...まぁ、通れば、の話だけどね」
「ソロモン・ヘイズか、元BHの。しかし、黒人だろう。プライムタイムは厳しいぞ」
...もちろん、全てが劇的に変わったわけじゃないけれど。
その連絡が来る。同じ時間、同じ階。指定の通りに向かう。中に入ると照明は薄暗く、男は既にグラスを手に夜景を見ている。
「飲むか?」
好きでも嫌いでもない味の色水で口を少し濡らす。こんな程度じゃ酔いという言い訳にすらならないのに。
言葉は多くなく、決まった動き。必要なことだけをやる、次に何が起こるか知っているから。それが、まだ少し楽だった。
最初ほどの戸惑いは無い、でもどこかに引っかかるものは残っている。男が入ってくる。前より拒まなくなっている。どこで力を入れてどこで抜くべきか、行為が重なるたびに自然と覚えた。それは慣れというより諦めに近く、ただ合わせられるようになっただけとも思う。薄く快感を拾うことがある一方で、痛みを堪える瞬間がまだあるのか、無意識に力の入っている手が汗ばんでいた。
「声を聞かせろよ」
揺さぶりの中でそう求められる。
「...喉、使うので」
なるべく角の立たない言い方にしたつもりだった。理由は通っているはずだ。男の眉が潜められ、動きが止まった。沈黙が重く落ちる。...まずい。そう察知し、脚を絡めて距離を詰めると、ウッド系の香水が鼻をついた。声を落として言う。
「...でも、気持ちいい、です。とても」
自分で口にしておきながら他人事のような響きだった。男の表情が緩む。動きが再び始まる。...これでいい。
いつも通りだと思っていたが、この夜は少し違った。男の律動が激しくなり最後に向かう途中、初めて身体が大きく震えた。奥から熱いものが押し寄せる。くちびるを噛んで声を抑える。意識が一瞬白く飛び、飛沫が自分の腹に溢れた。そのまましばらく動けなかった。
「いい顔してる」
男は僕を覗きこんで満足そうに呟き、キスをした。髭の感触。ぼんやりと舌だけを動かす。
...今のはなんだったんだろう。ただ起きてしまったという感覚だけが残った。慣れなのか、偶然か、染まってきているのか...理由はよくわからない。さっき男のために口走った言葉が現実になりつつあるのか?いや、そんなはず...。...そんなはずはない、となぜか言い切れない。何かが削れていくような気分だった。
終えた後、男が煙草を燻らせながら言った。
「キスが上手いんだな」
同じ言葉を聞いた覚えがある。18くらいのときだったか、同じ年頃の女優だった。彼女と恋をするのかもしれないとも感じたが、結局そうはならなかった。まだ彼があの家にいた。なんてことない、彼に教わったやり方をそのまま相手にもしたまでだ。
記憶を振り払うように起き上がる。シャワーを浴びて、身を整える。
「帰るのか」
「ショーが近いんです」
簡素というほどでもないが、大きな箱とも言えなかった。かつて立っていたアリーナやホールと比べれば、決して。演出は限られそうだし、音の反響も粗く聞こえる。
それでも会場は埋まる。舞台袖に立つとよくわかる、名前を呼ぶ声と期待に潜める息、開演前からざわめきたっている客席。ソロになってからも毎回こうして歓迎されるのがありがたかった。
神に祈る。子供の頃からの習慣だから。深呼吸をしてステージに踏み出した。
音。体でリズムを拾う。息を吸って声を乗せる。空間に広がる。帰ってくる。ちゃんと。
ライトが当たり、眩しさに視界が飛ぶ。その向こうに観客が浮かび上がる。あの頃よりもステージと客席が近く、奥の席までよく見える。前の方でエキサイトしてくれている女の子数人は何度か見たことのある顔だ。中央あたりの若い男性と目が合い、彼の表情がぱっと明るくなる。後方にいる女性が時折目元を拭っている。分厚いコーラスも、計算されたフォーメーションも無い。でも、だからこそ全てがそのまま届く。
...ああ。僕はやっぱり、歌うことが好きだ。これをやめる理由なんてどこにもない。歌っていたい、ずっと。何があっても、絶対に。
中盤のバラードを歌い上げると、最後の音が消えるより先に拍手が上がった。自然と笑みが溢れる。仕事だからと決まって作るものじゃなく、正真正銘の自分の感情だった。
「...ありがとう」
額の汗を拭って息を整える。照明が柔らかくなり、だんだんと空間に静けさがやってくる。マイクをスタンドに戻し、客席を眺めた。
「よく、見えてるよ。みんな」
歓声。
「一緒に歌ってくれる人、耳を澄ませて聴いてくれる人。さっきから穴が空くほど見つめてくる人もいるし...特に、きみと、きみ」
どっと笑いが起こる。
「...嬉しいよ、心から。皆さんの人生と同じように、僕にも色々あったけど...。こうして今ここで歌えていることに感謝しています」
大袈裟じゃない、事実だ。視線を落とし、すぐに上げる。
「僕はシンガーであり続けます。だからもう少し、付き合ってくれると嬉しい」
間を置かず、次の曲のイントロが流れ始めた。
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