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第17話
そのオフィスは古かった。壁は茶ばんで、ところどころコンクリートにひびがいっている。会議室と応接室は兼ねているらしく、いくつかのゴールドディスクが大事そうに掛けられたその部屋に通された。
「まず一曲聴かせてくれるかい」
目の前に座る白人の社員がそう言った。
「...資料は一応持ってきた」
端に座る年配の男が首を振る。
「それは後でいい。耳の方が早いだろう?」
再生ボタンを押す。音に合わせて軽く歌う。作ってはおいたが、この間のアルバムに入れきらなかったものだ。やがて最後までテープが回り、ラジカセが止まった。テーブルに着く数人が顔を見合わせる。一人が譜面を眺め言った。
「良いな。でも、もっと詰められそうだ。例えばこの進行」
指差された音符。
「やりたいことは伝わる。だからラストまで流れに責任を持つこと。そうすれば出せるようになる」
甘くない。だけど、誠実だと思った。
「どうだろう、例えば何か、次に向けたアイデアは?」
「...コンセプチュアルなものは、ずっとやりたいと考えてたんだ」
「へえ。聞こうか」
...これまでのように否定されるかもしれない。そんな不安を抱きつつ口を開いた。
「聖書。バイブルの章に則ったアルバム。スローナンバーにはリードにオルガン使ってそれらしくしてもいいけど、あくまで全体のベースはポップにする。踊れるようなR&Bと、ファンクも入れる。狙いはクラブ、今の。ディスコなんかやらない」
以前なら途中で遮られていた意見だ。ずっと頭の中にあったものが初めて空気に触れていく。彼らは時折頷きながら、僕の目を見て聞いていた。
「...モチーフはありきたりだ。でも、中身は面白い。やる価値はある」
「ありがとう」
「大手スターの君が満足できるものを、うちが準備できるかはわからないけどね」
「構いません。BHの曲は移籍したら使えないようにされてる。ゼロからのスタートだと思ってる」
「...OKだ、新人ソロモン・ヘイズ」
とにかく忙しかった。体が、じゃない。頭の中が。むしろ以前より仕事は減った。メディアの出演枠の取り合いで負ける、ショーのために押さえられる会場は限られている。昔のようにオーバーワークで倒れるなんてことはまず無い。けれどその分、制作に没頭できた。収録回数に制限は無い。アレンジも最終判断は自分だ。パイプさえ作ればスタッフも自由だった。
急かされず、見下されない。その代わり、実力はごまかせない、失敗すれば自分の責任。その現実味が新鮮で、自らの手で音を作り上げている実感を持てることが嬉しかった。
ベニーが言った。
「ここは売れる曲を作る場所じゃない。売れるかもしれない曲を"信じて出す"場所だ」
音が消える。マイクの前で息を吐き、ヘッドフォンを外す。
「...どうだった」
ガラス越しにプロデューサーが答える。
「良かったよ。ただ...」
その先は自分でわかる。
「完璧じゃない、そうだね」
「まあな」
「もう一度だ」
「わかった。ただし、ソロモン。休憩の後にな」
僕は少し笑い、ブースを出た。
スタジオは居心地が良い。レコーディングの合間、僕は多少形の崩れたソファに座ってその記事を眺めていた。
___ソロモン・ヘイズが新天地で静かに放った最新作。ソングライティングにおいての粗削りな部分は完全には払拭しきれていないものの、楽曲における展開への意識は格段に上昇している。内容はやや内省的すぎるが、曲の必然性と終着点を理解したうえで歌われるボーカルが説得力を帯び始めている___
「熱心なこった。所詮素人が書いてるレビューなんか当てにしすぎるなよ」
プロデューサーが雑誌を覗き込んできてからかった。
「そうかもしれない。でもレコードを買うのは、その素人の人たちだから。...なんて、昔の兄の受け売りだけど」
照れ臭くなって頭をかく。彼が反応し、身を乗り出した。
「マーカス・ヘイズか。最近聞くようになったよ、あいつには気を付けろってね。何年かすればライバル会社には脅威になるだろうな。若いせいか猪突猛進すぎるらしいが」
久しぶりに第三者から聞くその名前。マークも努力している、そして評価され始めている。兄さんのことだからきっと実直に真っ当なやり方で。素直に嬉しい。同時に、負けたくない、そう思う。
僕は雑誌を閉じてテーブルに放り、立ち上がった。
「始めよう」
レコードプレーヤーの針を上げてキーボードの電源を落とすと、マンションの一室は静まりかえった。ベッドに体を沈ませる。最近は充実はしているが、考えることが多いせいか変に頭が冴えてゆっくり眠れていない。目を閉じて思考を脳から追い出し、眠気がやってくるのを待っていた。
そのとき、ふとした違和感に気付く。身体の奥の、鈍くじんわりとした何か。一瞬だけ息が詰まった。今のが一体なんなのか、その正体を僕はわかってしまっている。もうあんな誘いの電話が来ることはない。頭は音楽でいっぱいで、それについて思い出す暇もない。でも、体が覚えている。勝手に反応してしまう。あのホテルでのあの時間の繰り返し、そんな過去の事実だけが残っている。
「...は」
嘲笑ともため息ともつかない乾いた声が漏れた。忘れたつもりだった。もう関係も必要もなく、終わったことだ。なのに、ここにある。切り離したはずのものが僕の中に沈殿してるみたいに。
現実に戻る。ティッシュペーパーを引き出す。少し気怠い。時計を見て、まだ夜が長いことを認識した。
こうすることで、眠気はちゃんとやってきてしまう。満足なのか安心なのか、その理由には気付きたくない。
少しずつでも前に進んでいる。僕の曲がラジオで流れる、TVで名前を呼ばれる。歩みは遅いがチャートも上昇しつつある。だけど。
「...惜しいね。もう一歩だ」
誰かが言って、僕も黙って頷いた。その"もう一歩"がやけに遠い。グループ時代の数字にどうしても並ばない。過去の自分が大きな壁だった。...いや、あれは僕だけで作ったものじゃなく、3人のものだ。今度は1人の力で追いつきたい。
「君らしい音にはなってきてる。焦るなよ」
隣から聞こえる励ましが、あの頃の2人の言葉と似ていた。
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