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第18話

時計を見る。マシンを停止させた。回転音が止み、工場の中の騒がしさが落ちる。耳に残る低い唸りが抜けていく。手袋を外して軽く腕を振り、指先の強張りを解く。 紙とインクの匂いで充満する作業場を後にし、俺は休憩室へ向かった。 パイプ椅子に座り、水の入ったボトルを口に運びつつ、ラジオの音に混じる周りの会話をなんとなく聞いていた。プレートメーカーの奴から連絡が来ない、都会じゃデジタル化で職人が減り始めてる、そんな内容。いつもと同じだ。今日もまた、変わらない日々のうちの1日に過ぎない。 「ホールさん」 呼ばれて顔を上げると、最近やってきた新入りの男が立っていた。少し歳上...30代前半くらいだろうか、正確な年齢は知らないが、ここで俺をファミリーネームで呼ぶのは彼だけだった。 「ああ、どうしました」 「準備作業が進まなくて。後で見てくれると助かるんだけど」 「わかりました。メイク・レディはなかなか難しいから。俺も初めは地獄のように時間がかかった」 彼は笑い、黒く薄汚れた手でタオルを取り出して額の汗を拭いつつ、隣へ座った。まだ作業着が体に馴染んでいないように見える。 「あなたはここに来てどれくらいなんだい」 聞かれ、頭の中でそれを数える。 「3年目。もうすぐ4年かな」 彼はこの答えに少し驚いた様子だった。 「へえ。大きなマシンを任されてるから、てっきりベテランかと思ったよ」 「構造はそう変わらないので。学生の頃にもやったことがあるから、ただ慣れてるだけさ」 彼は感心したかのように頷き、缶コーヒーを一口飲んだ。 「じゃあ以前は別の仕事を?」 一拍間が開く。 「あー...まぁ、そうだな」 その記憶を引っ張り出すことはずっと無かった。意図的に思い出さないようにしていたのかもしれない。その理由を探ることにすら小さな棘のような引っかかりを感じる。 言葉の端が濁ったのを知ってか知らずか、彼は深く追求するでもなく、なるほどね、と相槌を打った。休憩室の隅から誰かが笑い声を上げ、誰かが紙コップを放り捨てる音がする。俺はボトルの中身を飲み干して立ち上がった。 「...アルフレッドです。アルでもいいけど、ここの人たちはみんなフレッドと」 「オーケー。それじゃあ頼むよ、フレッド」 現場に戻り、再びスイッチを入れる。地を這うような重い音が轟きだし、紙が規則正しく送り出されていく。一定のリズム、狂いのない動き。派手なことは何もない。でも、自分らしいと思った。 ほんの一瞬だけ、どこか遠くで別の音が鳴った気がした。拍子もテンポも違う、あの場所の。俺は眉を僅かに寄せたが、すぐに視線をマシンへ戻した。インクの匂いが強くなる。それで十分だった。 馴染みの酒場は騒がしかった。BGMは酔った客の陽気な話し声に掻き消されている。奥の席に腰を落ち着けた俺たちは、ビールを片手にとりとめのない話をしていた。 「ギル、お前のサラリーでよくあんな立派なベースが買えたもんだな」 向かいに座るデニスがからかうと、彼は得意げに胸を張る。 「ボーナス全部はたいたんだぜ。有名なミュージシャンも使ってるモデルさ。例えば...」 そこで横からバリーが割って入った。 「だめだめ。フレッドの前で音楽のこと語るだけ無駄だって。なんにも知らねえんだから」 笑いが起こる。俺は酒で口を濡らし、肩をすくめた。 「それでよく歌手の使用人なんかやってたな」 「楽譜は読めなくても掃除はできたぞ」 軽口に答えると、また場が笑いに包まれた。 テーブルの上には空きかけの皿と、半分ほど減った酒が並んでいた。誰かが新しい一杯を注文し、店員が手際よくグラスを置いていく。デニスが面白おかしく語っているのは、彼の同僚がヘマをした話だ。 「今夜は遅くなっても平気なのかい」 ふと、隣から聞かれた。 「ああ、親なら今は病院だから」 「入退院繰り返してるんだって?大変だな」 バリーの声色は社交辞令ではなく、心からそう思っているものだった。 消毒液の匂いがする白い部屋で、ベッドに横たわる母さんの姿が蘇る。...大変ではない、そう言えば嘘になる。母親の経過は順調とは言い切れないものだった。しかしこんなようなことは誰の人生にもある。子供の世話に苦労する奴もいれば、仕事が見つからない奴だっている。俺の場合の"人生におけるちょっとした困難"は、偶然にも家族の病だった。それだけだ。 「まぁ、大丈夫さ」 短く答えてグラスを口に運ぶ。苦味が喉を流れていった。 「それよりクリフが結婚したって本当か?」 話題を切り替えると、待ってましたと言わんばかりに皆が身を乗り出した。 「そうなんだよ。聞いてくれ、あいつ...」 そこからはいつもの調子だった。誰が誰とくっついただの、どこぞの女をものにしたいだの、そんな話が次々と飛び交う。俺は相槌を打ちながら、グラスの中身をゆっくり減らしていった。付き合いのある彼女のことを話そうとも思ったが、あいつとはもうひと月連絡を取り合っていないことを思い出し、やめた。 話に花が咲く。酒場の空気は温く、安心できるものだった。 決まった仕事があって、馬鹿な話をし合える顔なじみがいて、少しの趣味もある。きっとこの先も、俺の生活はこんなふうに続いていくんだろう。 視線を上げると、壁際に置かれた古いテレビがぼんやりと光っていた。音はほとんど聞こえないが、誰かが歌っているらしい映像が流れている。俺は一瞬だけ目を向けて、すぐに視線を外した。 「でさ、その結婚式が最悪で...」 「はは、あいつらしいな」 会話に戻る。笑いに混ざる。酒を飲み干す頃には、その一瞬の引っかかりも、もうどこにも残っていなかった。

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