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第19話
その電話が鳴ったのは夜だった。と言っても深夜じゃない。良い時間になればどこかクラブへ視察にでも行くつもりでいた。
僕はキーボードを弄っていた手を止め、受話器へ向かった。
「Hello?」
『ソル、俺だ』
聞き慣れた深い低音域。一瞬、時間が巻き戻る。マークだ。クリスマスに実家に行って会った以来だった。
「...やあ。どうしたの」
赤ん坊の泣き声と、それを宥める母さんの声が電話越しに聞こえる。
『紹介したい奴がいる』
「紹介?」
『音楽プロデューサーだ。ベテランだが、今も前に進んでるタイプ』
昔から変わることのない、ややぶっきらぼうな口調が淡々と続ける。
「...ふうん。でも、いいの?そっちのレーベルに手を貸してもらった方が兄さんのためだと思うけど」
立ちながら足を組み、軽く笑った。
『向こうがおまえをご所望だ』
受話器のコードを弄っていた指が止まる。
「...名前は」
『ジェイ。James Y. Butler』
知らないはずがない。大物だ。
業界人にとってロックンロール・エラ以降のヒットメーカーといえばまず名前の挙がる人物、それが彼だった。
南部出身で福音派の生まれ、ゴスペルはもちろんジャズやブルースなどに囲まれながら、オルガニストの父親の教育を受けた。プレイヤーの道を諦め北部に出てからはアレンジャー補佐やボーカルディレクションをしながら叩き上げで成り上がり、20年前からのソウル黄金期で頭角を現した。それからの活躍ぶりはヒットチャートが示す通りで、言わば近代ブラックミュージックの変革を全て現場で見てきた男だった。一度病に倒れ仕事をセーブし始めてからもコンスタントにスマッシュヒットを飛ばしているというのは並では真似できないことだ。
寡黙ながらも異様に耳が良い名伯楽、黒人音楽の核を知っている数少ないホワイト。僕がこれまで見聞きした彼自身の情報はこれが全てだった。
扉を開けて目に入ったのは見慣れない最新のマシンではなく、使い込まれた機材だった。無骨、それがこの空間の第一印象だ。
ミキシングコンソールに向かっていた男がゆっくりと振り向く。顔写真を見たのは10年近く前の音楽誌だったか、当たり前だがその記憶よりも皺が刻まれ頭にも白いものが増えていた。名が通っている割に公のメディアにはあまり現れないとあって、実際にこの目で見ることも初めてだった。
頭を下げ挨拶をすると手を差し出され、僕たちは握手をした。白人の彼の手のひらに僕の黒が重なる。
「Boogie Hayesの解散は、惜しかった」
その一言目には、正直なところ落胆したのが本音だった。この人も僕の過去を見ているに過ぎないのかと。
「きみ達が出てきたとき、やられた、と思った。誰もがやろうとしていたことを、誰よりも先にきみ達がやった」
探り、掴みどころを見つけるように言葉に耳を澄ませる。事前に送っていたいくつかのデモテープを彼が軽く掲げた。
「聴かせてもらった。ソロになってからのアルバムも全て。きみはもう一度、周囲がやろうとしていてまだやっていない、そんなものを作ろうとしてる。でも、まだ出来上がっていない。なぜだ?やりたいんだろう?」
「...出来るでしょうか、僕に」
「出来る」
きっぱりと言い切った。筋の浮き出た手が譜面を指差す。
「このライン。甘い。ここで進ませるんじゃなく一段落とす。その分後半で跳ねさせる」
「...」
「そしてこっちだ。逃げてるな。もっと削ぎ落とせ。アレンジと、きみの声の幅でどうとでもなる。...分かるか?」
評価は厳しい、だけど否定される感覚はない。言葉を咀嚼していくと、頭の中で鳴る音が変わった。見えていなかったものが急に繋がる。この数秒で、あまりにもあっけなく。
「...分かる」
ぽつりと言葉が漏れた。
「分からせるのが仕事だ」
そう言って、彼はその日初めて少しだけ微笑んだ。
「私も引き際を考える歳だ。だがその前に、もう一度何かやり遂げたい。そう思ってきみに声をかけさせてもらった。どうだ、かつてのPrinceソロモン・ヘイズ。Kingになりたくはないか。それとも60過ぎの老いぼれと手を組むのは嫌かい」
この世界は運だけじゃ回らない。けれど、タイミングというものは確実にある。
気付けば時間が過ぎていく。スタジオに缶詰めになることもまるで気にならなかった。音が部屋の中を満たしている、そしてジェイの短い指示だけがたまに響く。
「今のは違う」
「もう一度」
「いい。そのまま行け」
言葉は少ない、でも全てが的確だ。何を残して何を削るべきか、その判断が驚くほど早い。迷いが無くなり、選び取る理由が明らかになる。確実に音が変わっていった。
創る。歌う。作品が世に出る。グループ以来これまでになかった速度でヒットチャートを駆け上がる。オファーが入る。「次も是非このコンビで」。予算が大きく引き上がる。創り、歌う。彼と一緒に。
僕は、生きてる。
何度も録り直したトラックに、何度も録り直したボーカルを重ね合わせて聴いていた。
「ラスト、もう少しだけ押せる」
「...ああ」
自然と会話が続き、呼吸が合う。やるべきことが手に取るようにわかる。
「見えてきたな」
ジェイの言葉に僕も頷いた。どこに向かっていてどこまで行けるのか、ぼんやりとじゃなくはっきりと、それがちゃんと見えている。3人でプロを目指してとにかくがむしゃらに、オーディションとコンテストに励んでいたアマチュアの頃。あのときのような熱が戻ってくる。
「...これ、いける」
口に出ていた。ジェイが僕の肩に手を置いて、言った。
「最初からそう言ってる」
触れる温度があたたかかった。
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