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第20話

最終ミックスへ針が落ちる。コントロールルームの空気が止まっている。誰も何も言わず、ただ聴いている。新しい時代のリズム・アンド・ブルースを。 手足が支配され勝手に踊らされるような低音の轟くビート。削ぎ落とされた上で研ぎ澄まされたタイトなリズム。軽薄さは排除しつつポップとの境界線を攻めたメロディ。そこに乗る、他の誰でもない、自分の声。"売れる"ラインのギリギリまで尖らせた濃密でダンサブルなサウンドと、これまでには無かった深い熱がそこにあった。 椅子に深く座り腕を組んでいるブルーグレーの瞳と目が合う。ジェイはいつものように多くは語らない。ただ一度、大きく頷く。 「これだよ」 道は長かった。痛いことも汚いこともあった。だけどその一言で全てが決まり、報われた気がした。 「(...出来た)」 初めて心からそう感じた。解散から5年以上が経っていた。 『Doctrine』は静かに、だが確実に期待の温度を持つ市場に迎えられた。シングルからの余熱が残る大衆と、クラブシーンでの評判が相まり、そこから一気に火が着いた。重くて踊れるサウンドが夜から昼へ広まっていく。次々と各メディアからオファーと取材が入り、ラジオへのリクエストが殺到する。ビデオクリップがケーブルチャンネルでヘビーローテーションされたのも後押しになった。写真を撮られ、ステージに立ち、歌う。もう誰も僕を『元ヘイズ・ブラザーズ、アイドル上がりの三男』なんて称さず、代わりに『新時代のR&Bシンガー、ソロモン・ヘイズ』と呼んだ。 気付けば、頂点だった。 ホテルのバンケット・ホールは華やかさに包まれ、喜びに湧いていた。仕事絡みのパーティは好きになれなかったはずが、この夜は違っている。全米チャートのナンバーワン獲得を皆が祝福してくれている。 「ソロモン!やったな」 「素晴らしいわ。おめでとう」 「これで本当に返り咲きだね。次も楽しみにしてる」 口々に声が飛び交い、次々に飲み物が差し出される。誰もが現在か、さもなくば未来の話をしている。返す言葉は社交辞令じゃなく、笑顔は貼り付けたものじゃない。嬉しさから来る心からの感謝だった。 スポンサーとの新しい契約、次のプロジェクト、ツアーの開催。そんなものが話されているらしい人の輪で一段と大きくなった歓声を、少し離れた場所からぼんやり眺めていた。すると、既に赤い顔をしているベニーが酒を片手にどこからかやって来た。 「俺との乾杯をこんな後回しにしやがって。デビューのときから面倒見てやったのは誰だと思ってる?だいたい本来ならおまえから...」 「はいはい。きみは酔うと口うるささが倍になるんだ」 「言ったな。兄貴共に言いつけてやる」 「どうやって告げ口するつもりだよ。仕事と子供に追われてるマークと、国中飛び回ってるカルに」 笑いながら今夜何度目かも知れないグラスの音を立てさせた。ベニーは軽口をやめて僕を改めて見据える。 「...おめでとう、ソル」 「ありがとう。1人じゃ出来なかった。きみや、周りの助けがなければ」 彼は微笑み、グラスを煽った。 孤独はあった。けれど折れそうになると、誰かがいてくれた。成功そのものじゃなく、そのことがこの上なく幸福だった。ふと周りを見渡す。今最もこの気持ちを伝えたい人物が見当たらない。 「シャイな大先生をお探しなら、向こうだ」 ベニーが外を顎で指し示し、僕の背中を叩いた。 中庭は静かだった。広間の歓声と音楽が遠く、都会の夜の中に柔らかく溶けている。ひんやりとした空気が火照った体に心地良い。淡く灯るライトの下で、ジェイは整えられた芝生に立っていた。 「いいのか。今夜は主役だろう」 「あなたもそうだ」 笑い合う。月明かりが彼の白髪を照らし、痩けた頬に影を作っていた。 「...ジェイ。あなたのおかげだ」 飾りも計算もない、まっすぐな気持ちだった。彼は少し目を細め、それから首を振る。 「きみの力だよ。私は引き出しただけさ」 過剰に受け取らず、過剰に返さない。彼らしいいつもの調子だ。 一歩近付き、そのまま腕を回す。ハグ。感謝と祝福を込めた自然な距離。ジェイも応じるように僕の背中に手をやる。安心できる重みが僕を包む。 「よくやった」 低く静かな声が耳元で落ちる。幸せだった。微かな虫の音と、遠くの喧騒を、彼の腕の中で目を閉じて聞いていた。 夜風が頬を掠める。僕は動かなかった。普通ならばここで終わるはずだ。軽く背中を叩いてどちらからともなく距離を取る、そういう種類の抱擁。それでも僕は離れずにいた。 「...ソル」 ジェイの呼びかけは穏やかだったが、確かめるような響きがあった。僕は彼の肩口に額を埋めたまま呟く。 「...飲みすぎたんだ」 これは嘘じゃない。でも、それだけでもない。彼のジャケットの布を指先で軽くつまむ。 「...ルームキー、どこかに行っちゃって」 「...」 それは誘いだった。誰にでも分かるくらいの、否定されなければそのまま進める程度の。 ...理由はいくつかある。高揚、酒、そして、それ以外の言葉にしないもの。ジェイはしばらく何も言わない。それでも離れることはしなかった。抱きしめたままの距離で、互いの呼吸が近い。僕は顔を上げた。目が合う。 「...っふふ...」 「はは」 「ふふっ、くくく、...ははは」 「はは、ははは」 なぜか笑いが溢れてきた。何がこんなにおかしいんだろう、馬鹿みたいに止まらない。 僕たちは競争でもするかのように、駆け足でエレベーターに乗り込んだ。 暗闇のジェイの部屋に笑い声だけが響いていた。ふざけあい合いながら服を脱ぎ捨てる僕たちの影を、ベッドサイドのランプだけが小さく照らしている。 「くすぐったいって!」 「ほら、逃げるなよ」 「お返しだ、こうしてやる」 「やめろ!ははは」 「ねえ。これ、邪魔」 「やりやがったな」 ボタンを外そうとして指が滑る。ジェイが意地悪く脇腹をくすぐってくる。僕がたまらず身を捩り、彼のベルトを引き抜く。雑で、ムードなんてどこにもなくて、でもそれが妙に楽しい。年甲斐もなくまるで子供のようにじゃれ合いながら互いに触れていた。 時々静かになって、シャワールームから水が滴り落ちる音と、息遣いだけが聞こえる。露わになった肌同士を擦る。管の浮き出た手が優しいタッチで、僕の首筋から背骨、腰のラインをなぞっていく。僕も彼の胸に指を這わせ、温かい感触を確かめるように撫でる。そしてまた、どちらからともなく笑い出す。理由なんて無い。ただ、嬉しいから。 「...ふふ」 「くくく」 少し息を詰めて、ゆっくり腰を落としていく。彼の温度を直に感じる。ジェイは僕の髪を優しくかき混ぜ、額に軽くキスを落とした。 成功の喜びが胸の奥で溶け広がっていた。ナンバーワンになったこと、新しい音が認められたこと、ジェイと作り上げたものがちゃんと世の中に届いたこと。その嬉しさが、触れ合う指先やくちびるにまで溢れ出しているみたいだった。 時間がゆっくりと流れる。さっきまでの高揚が静かに沈んでいく。消えるわけじゃない、安心に変わって底にちゃんと残っていく。少し渇いた感触の彼の肌に身を寄せた。呼吸が整うごとに体も重くなっていく。 「寝るなよ」 ジェイの深い声が優しくからかう。 「...ちょっとだけ」 答えるものの、もう半分意識が落ちている。僕はそのとき微笑んでいただろうか。そのまま眠りに誘われていった。

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