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第21話
スタジオの空気は完全に別物となっていた。この音が届き、数字に繋がることを、誰も疑っていない。ミキシングコンソールから指示を出すジェイの声が聞こえる。
「もう一段押せる」
「ああ」
僕は頷く。言われる前からなんとなく気付いていたことが、彼の言葉により確信に変わった。歌い方を微妙に変え感情の置きどころを調整する。手を動かして音を重ね、削り、整える。そうすることで曲が磨き上げられていく。以前のように探りながら進む感覚は無くなっていた。
譜面から顔を上げると、ジェイと目が合った。一瞬、それだけで十分だ。次にやるべきことが僕には分かっている。
日々は目が回るほど忙しかった。あちこちで自分の声が流れ、どこへ行っても人がいる。スケジュールは埋まり、休む暇はほとんどない。昔もそうだった、慣れている。あの頃と違うことといえば、音も仕事も自分自身も、全てがちゃんと繋がっていることだ。だから不思議と苦しさも感じず、むしろ胸は常に熱く高鳴っていた。
それでも疲れてしまうときに頼るもの。昔と今とで変わったような、同じなような。
ようやく一日が終わり、何も考えなくていい時間がやってくる。喧騒は遠く外の世界にある廊下で、スタッフの一人とすれ違った。洗いたての僕の髪と手をかけた部屋のナンバーを交互に見た彼は、驚きとばつの悪さの入り混じった表情で小さく顔を背ける。僕は少し笑い、人差し指を口に当てて言った。
「内緒だよ」
「疲れてる」
プラチナのリングを抜き取った後、僕の背に手を当てながらジェイがそう呟いた。
「まあね。レコーディング、あなたが何度もやり直させるから」
子供みたいな言い分のジョークを軽く返した。この部屋では、無理に強がることも仕事の顔を作ることも、何もせずとも許されるようで、つい。
微かに笑みを浮かべた彼の顔に頬を寄せる。口元の柔らかな髭の感触を確かめるように指先でなぞった。僕の求めているものは言葉にせずとも伝わる。
「ずいぶん甘えただな」
呆れたように言いながらも、ジェイはキスをくれた。それだけで自然と身体の力が抜けて強張りが解けていく。尊敬できる師で、安心をくれる父親で、一緒にいてくれる恋人...そんな錯覚を覚えるのが僕にとっての彼という存在。
彼との関係は幸福だが、同時に昼には決して持ち込めない夜の匂いもする。「もうずっと会話すらない、冷え切っている」___そう彼は自嘲したものの、後ろめたい気持ちが無いわけじゃない。昔の僕は正しさだとか清い愛みたいなものをあまりにも信じ込みすぎていたから。それでも彼を求めるあたり、僕もずいぶん変わってしまったものだと思う。
ゆっくりと動きながらその胸に額を軽く押し付ける。するとジェイが腰をそっと抱き寄せてくる。じんわりとした温かさはあるが心拍数は一定だ。深くなれば一度止まり、また少しずつ触れる。急がず、奪わない。とろけてしまうような時間が続き、僕はうっとりと夢の中に誘われていくように目を細めた。
僕たちの触れ合いに荒々しさはなく、いつでもベッドは穏やかだった。近付いているだけで満たされていた。その感覚が、遠い記憶の中の何かとあまりにも似ていたからだろうか。
シーツの擦れる音が微かに立つのみの静かな部屋。彼を収めているだけで甘い疼きが身体に広がっていく。温度と呼吸を確かめ合う、それそのものが心地良い。あたたかい、安心する、何も考えなくていい。頭の中がぼんやりと溶けていく中で、口が勝手に動いた。
「...フレッド......」
___一瞬。時間が固まる。ジェイの動きがぴたりと止まる。その沈黙でようやく気付く。...今、僕は何を言った?
灰色の瞳がまっすぐ見つめてくる。僕の中にいるまま、ただ静かに。一気に現実に引き戻された。血の気が引いていくのが自分でわかる。
「...ごめん、」
反射のようにそう言った。口がひどく渇き、心臓が鳴り始める。ジェイは何も言わず、ただ少し距離を取った。僕の背に触れていた指が離れていく。
「...違うんだ、僕は、今は...」
慌てて言葉を探し重ねるがうまく繋がらない。何が"違う"のかも、何を否定したいのかもよくわからない。喉が詰まる。言い訳も説明も浮かばず、罪悪感だけが胸を締めつける。
ジェイはゆっくりと息を吐き、項垂れてしまった僕の頰に、薬指にリングの跡が薄く残る手を添えた。
「いいんだよ、ソル。覚えてていい」
否定も責めもない穏やかな声が、逆に逃げ場を無くす。
「...ごめん」
これ以上の言葉が見つからず、そう繰り返すしかなかった。ジェイは無言のまま僕を優しく抱きしめたが、動きが再開されることはもう無かった。
彼の腕の中で僕はくちびるを噛んだ。長いこと押し込み続けていたものがおぼろげに浮かび上がる。忘れることができたと思い込んでいた、消えたはずの名前。それがこんなふうに蘇ってくるなんて思ってもみなかった。自分の音も、対等に与え合う喜びも、欲しかったものはもう手に入れたはずだ。なのにあの部屋の温もりが記憶の奥底にこびりついている。
「......ごめん...」
三度目の言葉は掠れていて、ほとんど息だった。強く目を閉じる。ジェイの手はあのひととは違い白いものだという事実から逃げるように。
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