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第22話

レコーディングは深夜まで続いた。ブースの中でラストフレーズを歌いきる。最後の一音が吸音材の壁にゆっくり沈んでいき、スタジオに余韻と静けさが漂う。僕はヘッドフォンを外して息を吐き、ガラス越しに彼を見た。ジェイはコンソールの前でしばらく腕を組み黙っていたが、やがてトークバックのスイッチが入った。 「完璧だ」 ジェイの声が完成を告げた。 『Doctrine』『Body Electric』と続いたジェイとの作品は、僕のキャリアにとって大きな転換だった。これらのアルバムが僕を一線へ押し上げてくれたのはまず間違いない。もちろん、まだやれる。次も、その次も、彼とならばきっとヒットするだろう。だけど音楽家なら周知の通り、時代は容赦なく変わっていく。自分自身も変わる必要がある。 彼に導かれて答えを受け取りながらの制作はあまりにも充実していて、だからこそ終わらせなくてはならないと思った。元々彼は引退を決めていた身だ、いつまでも支えてもらうわけにはいかない。 この『Velvet Touch』が完成したら一区切り付ける、それは僕側からの提案で決まっていたことだ。彼は一言、「きみはもう私でなくてもやっていける」そう言っただけだった。 出来上がったサンプル盤を聴き終える。隣にいたディレクターが最初に手のひらを合わせ、周囲へと広がり、この場は拍手で包まれた。軽やかな音、達成感が見て取れるチームの表情。スタッフが次々とジェイに駆け寄り感謝を告げる。それらを受け取る彼はいつもと変わらない様子で、時折穏やかに目を細めるだけだ。 「ありがとうございました」 行って、頭を下げた。これはただの挨拶じゃなく、彼が与えてくれたもの全てに対して。自分の音を信頼すること、他人を信じ直すこと、支配でない関係性を教えてくれたこと、それから、それから...。窪んだ頬が少し微笑み、痩せた手が僕の手を包み込む。 「最後の仕事をソルとやれて良かった」 口髭の中で彼は小さく呟き、僕たちは握手をし合う。変わらない距離と変わらない互いの手の色の差、それが救いだった。惜しもうとすればキリがない。 James Y. Butlerが静かに身を引いたことは、少しの期間業界で話題になり、そして消えていった。 スタッフがほとんど撤収したスタジオは静かだった。自分が書き、彼ではない人が指揮を取った楽曲を歌い終える。良い出来だと思うけれど、もっと違うアプローチも試すべきか...。ブースのガラスの向こうを見る、ついいつもの癖で。その場所はもう空っぽだ。 ここは彼と通じ合える場所だった。彼がいなくなれば創作の呼吸も変わるということで、僕の中の音楽そのものの風景も変わる。その事実が人影のないその椅子にやけにくっきりとして見えた。他でもない自分がした選択だ、すぐに慣れるはずだ。なのに実際にそうなってしまうと不思議に虚しかった。 「少し、出てくる」 エンジニアにそう言い残し、僕は外の風に当たりに向かった。 ビルの裏口には誰もいなかった。冬のはじめの空気が火照った体を冷ましていく。深呼吸すると冷たさが肺まで届き少し落ち着いたが、喉の奥のつかえた何かは消えない。 上を見上げる。都会らしい騒がしさが遠く聞こえる空は、雪でも降りそうに重く見えた。見つめていると目の奥がじわりと熱くなった。瞬きをする、それで止まると思った。だけどネオンの光がぼんやりと輪郭を失っていき、もう一度滲んでくる。涙が落ちた。 自分でも少し驚いた。何がそんなに苦しいんだろう。音楽も成功も居場所も、もう僕の手の中にある。ジェイはそれを与えてくれた人だ。感謝している。尊敬している。だから、ちゃんと離れなければと思った。...なのに。 「......っ」 目元を押さえる。次の涙が指の隙間を濡らした。寂しい、その感情だけがひどく鮮明だった。短い指示、褒められる声、夜更けの静かなキス、同じ音を聴きながら手を動かす時間___それが終わった。 どうしてこんなに胸が痛むのか、ようやく分かった。好きだったんだ、彼のことが。最初からじゃない、いつのまにか愛になっていた。答えが出てしまうとあまりにも簡単なことだった。 「(でも、これでいいんだ)」 自分で決めて、終わりも自分で選んだ。だからこれでいい。そのはずだ。 顔を拭い、息を整える。さっきよりも楽に吸えた。完全じゃないけれど、また歌えるくらいには。 雪の気配のある空が、一つの季節の終わりを告げる。僕は扉を押し開いて、一人スタジオに戻っていった。

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