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第23話

母が死んだ。 なんとなくはわかっていた。ベッドから起き上がらない日が増えたこと、痩せていく腕に繋がれた点滴のチューブ、病室での浅い呼吸。長い時間をかけて少しずつ弱っていくのを見てきた。急なことではなかったからか、胸を引き裂かれるような衝撃も、狼狽えてどうにもならないような動揺も無い。最後の何年かはちゃんと側にいてやれたから、それで良かったと思う。 「平気かい、フレッド。何か手伝えることがあれば」 「ええ、ありがとう。大丈夫です」 近所に住むミセスの心配の言葉に軽く頷く。強がりなどではなく本当にそう思っていた。覚悟はできていた分落ち着いていたし、しなくてはならない手続きや連絡も、どこか淡々とこなせていた。 その日は霧雨で薄暗かった。細かい雨粒が黒い傘を叩き、灰色の空の下で墓石を濡らしている。牧師の声も、参列者たちの慰めも、まるで薄い膜を一枚隔てた向こう側のようにぼんやりとしていた。 棺が土の下へ消えていくのを見送ると、何か一区切りついたような感覚があった。母さんは苦しみの無い場所へ行って静かに眠っている、そう思った。 その男と目が合ったのは、最後の挨拶を済ませ人々がそれぞれの車へ向かう頃だ。最後にまともに顔を見たのはいつだったか、それほどまでに遠い記憶。少し離れた場所に立つ人影のその顔立ちは、皺が刻まれてはいるが心なしかところどころ俺と似ている。 「...どうも」 「あいつのこと、知らせてくれてありがとう」 父親だった。 カップにコーヒーを注ぎ、向かい合って座る。喪服のその背格好は、当然だが幼かった頃に見ていたものと比べると小さく見えた。 「ここも静かになるな」 「そうだね」 「お前、一人になるのか」 「ああ。結婚してないから」 簡素で短いやり取りだ、けれど不思議と居心地の悪さは無かった。今さら父と子らしい関係になどはならずとも、少しくらい行き来するのも悪くないのかもしれない。身内と呼べる相手はもう彼しかいないんだから。そんなことをなんとなく考える。 「...これからは好きなことをやったらどうだ」 父がコーヒーを啜り、息を吐いて言った。思わず苦笑が漏れる。 「そんな歳でもないさ。もう30近い」 「遅いことはない。ずっとあいつのために働いてきたんだろう」 その言葉に俺は少し黙った。母の病院代、生活費、仕事のシフト。必要だったからやっていただけで、別に不幸だと思ったことはない。それでも、自分ではない誰かのために働くということを、これまでの人生でずっとやってきたような気がした。 「...まぁ、そうかもな」 「これからは自分の人生を考えるのもいい」 彼の口調は不器用ながらも穏やかで、少しだけ可笑しかった。ああ、この人なりに親らしいことを言おうとしてるんだな、と。 けれど、父は続けた。 「あいつは頑固だったからな。お前に迷惑をかけても、意地張ってここを離れなかったんだろう」 その言葉を飲み込むまでに時間がかかった。俺の眉がわずかに寄る。 「...母さんは家が好きだった。俺と一緒にいることを望んでた」 「好き嫌いの話じゃない。もっと早く施設なり大きい病院なり入るべきだった。お前だって工場なんかで朝から晩まで働き続ける必要もなかったんだ」 空気が変わる。 「べつに惨めな仕事じゃない」 「そういう意味じゃない」 「じゃあどういう意味だよ」 小さな舌打ちが聞こえた。 「お前にはもっとやれることがあったって話だ。若い時分から地元も出ずにあんな場所で時間を潰して...」 「時間を潰して?」 自分でも驚くほど低い声が出た。父は気付かないまま続ける。 「俺はただ、お前にはもっとまともな___」 「じゃあ家族を残して出てったあんたはまともなのかよ」 そこでとうとう遮った。 「母さんを看病して、働いて、生きてきた。それのどこが悪い。州の法律で定められた養育費を払っただけで何もしなかった奴がわかったような顔をするな」 声の大きくなった俺を見て、父の表情が険しくなった。 「...そうやって理屈っぽくて意固地なところ、あいつそっくりだな」 「は?」 「お前たちは昔からそうだ。狭い世界に閉じこもって___」 「帰れ」 言った瞬間、部屋が静まった。父は目を見開く。 「アルフレッド」 「帰れよ」 自分でも止められなかった。 「勝手にいなくなって、今更母さんを語るな。俺の仕事を馬鹿にするな」 「馬鹿にはしてない!」 「してるのと同じだろ!」 怒鳴り声が壁にぶつかる。父も何か言い返そうとしたが、俺は玄関を指差した。 「帰ってくれ。ここはホールの家だ。もうあんたの家じゃない」 長い沈黙のあと、父はゆっくり立ち上がった。ドアを閉めた音で壁が震え、家の中に静寂が落ちた。 それからしばらく、俺はその場に立ち尽くしていた。やり場の無い怒りが全身を重くしていく。もう誰も座らない椅子が目に入り、母はいないという実感が今になって一気に湧いてきた。 「......」 ソファに腰を落とし顔を覆った。こんなに怒ったのも、ましてや泣くなんてことも、一体何年ぶりだろうか。 刷り直しが繰り返され、主任の怒号が飛んだ今日の現場。残業の疲労と理不尽に怒鳴られたことが重なり、俺の気分は最悪に近かった。半年前の出来事を帰路で思い出してしまったのは、夜の空気があの霧雨の日と似ていたからだろうか。 「...チッ」 嫌なことがあったときに限って良くないことが蘇る。忌々しくてつい漏れた舌打ちが夜の歩道に落ちていった。 歩きながら活字を探している。文字を追っていれば気分が紛れる、昔からそういう性分だった。壁に貼られたポスター、店の看板、なんでもいい。街角のネオンサインを端から端まで読んでいき、不意に現れた安っぽいその光に目が留まってしまった。"PRIVATE ROOM"。 俺は足を止め目を凝らした。...今日はもう何も考えたくない。苛立ちも、疲れも、静まり返ったアパートも。欲情しているというよりは、ただ誰でもいいから人肌に触れて今日を終わらせたい。そんな理由だった。 どこか現実味の薄い行為だった。古い空調の音が低く鳴る部屋で、照明が裸の乳房を淡く照らし、香水の匂いが漂う。ベッドに腰掛け煙草を吸っている女のマニキュアの指先と口紅の赤が同じ色だ。これまでそんな衝動に駆られることも無かったんだろう、女を買うのなんて初めてだった。潔癖なわけでも熱心な信徒というわけでもないが、事が終わると妙に空虚だった。 「お兄さん、優しいね」 女が不意にそう言った。呼吸が止まる。彼女は何気なく言っただけだった、少し笑って煙を吐きながら。...なんだ?前にも同じことを言われたことがある気がする。 「こういうところに来る人って、みんなガツガツしてるんだけどさ」 その声が遠くなっていく。記憶の奥底から何かが蘇ってくる、ずっと開かないままだった箱の鍵をようやく見つけたときかのように。深夜の薄暗い部屋。月明かり。巻き毛。細い肩。ブラウンの瞳。こちらをまっすぐ見上げる顔。___「優しいね」。 胸の奥が嫌なふうに脈打った。いけない、落ちつかなければ。何か読むものはないか...文字、文字だ。部屋を見渡して、ベッド脇に乱雑に置いてあった雑誌をひったくるように手に取る。都会のトレンド、流行のファッション、売れ筋のミュージシャンの特集記事。...『SOLOMON HAYES -その孤独と官能の境界線』。 暗がりに溶け込む黒い肌。前屈みに椅子に座り、無造作なジェリーカールの前髪を長く垂らし胸元の開いたシャツからネックレスを覗かせている男。絵画のような整った顔立ちは無垢さよりも鋭さが際立っている。挑発的な笑みを浮かべサングラスから覗かせる上目遣いの瞳、それだけは確かに俺の知っている色をしていた。 ___Q. 新しい曲のアイデアはどんなときに浮かぶのですか? A.『眠れない夜かな。昔からそうなんだ。静かな時間のほうが本音が浮いてくる気がして』 Q.恋愛観について教えて下さい A.『難しい質問だね。誰かを大切に想うことって、時には相手を傷付けることにもなるから』___ 反射のように雑誌を閉じる。見ていられなかった。脈のリズムは止まらず、むしろ早まっている。そのとき...あぁ、なんてことだろうか。部屋の隅のラジオから声が流れた。 『最新シングルも絶好調のソロモン・ヘイズ。今夜は彼のグループ時代に焦点を当てて、The Boogie Hayesの懐かしいナンバーをお届けしよう』 次の瞬間聴こえてきたイントロ。軽快なビート、聞き覚えのあるコーラス、あの家で兄弟が何度も繰り返していたメロディ。何年も無意識のうちに避けてきた音だ。 愕然とした。ソルが誰もが認めるトップスターとなっていることすら気付かないほど、俺は記憶に蓋をし彼らのことを無かったことにして働いていたのか。 逃げ切れたと思っていた。時間が経てば薄れていくものだと、本気でそう思い込もうとしていた。でも俺はあの頃から一歩も動いていない、あいつはシンガーとしてこんなにも大きな存在に変わっていったというのに。 「どうしたの?」 女が隣で何か言っているが、もう耳には入らなかった。 家に辿り着いても頭の中は真っ白だった。冷えた指で溜まった郵便物を取り出し、ぼんやり見つめる。活字ももう気分を散らせる道具にはならない。ふと一つの手紙に目がいく。馴染みのない送り主。...出版社?

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