24 / 48

第24話

名前を呼ばれた。笑って手を振る。壇上で賞を受け取る。マイクを向けられれば、感謝の言葉も次作への意気込みも自然に出てきた。「夜の太陽」、歓声の中で誰かがそう叫んだ。 カメラのフラッシュは何度浴びてきても一瞬だけ現実感を奪う。拍手の音が豪雨のように聞こえる。スポットライトが体を焼き付ける。同じような夜が続き、同じように歌う。でも一つとして欠けているものはない、全部完璧に回せている。日々も音楽もちゃんと自分のものだから。...悪くない、少なくとも前よりはずっと。やりたいことをやって結果も着いてきている、止まることはないしそんな暇も無い。けれどたまに、その忙しさの嵐の中で妙に胸の奥が静まることもあった。 マンションに戻るのは大抵深夜だ。ナイトクラブに顔を出し、現場の空気と次の流行を知ることも重要な仕事だから。上層階の廊下に僕の影だけが動く。鍵を回し部屋へ入ると、当たり前だが今朝ここを出たときと同じ風景だった。 夜の都会はインスピレーションの一つだ。窓が大きくて街が見渡せる、それだけが最近ここに引っ越した単純な理由だった。「もっと良い部屋を紹介しようか」、そう言われることもある。もっとセキュリティの強い、一流ミュージシャンが住むエリアの___彼ら曰く"ソロモンにふさわしい"場所。でも別に興味はない。どうせ眠るためだけに帰ってくる部屋だ。 部屋の数を持て余しているこの家は、散らかっている割に生活感が薄い。リビングでジャケットを脱いで放り投げる、その椅子には既に服が積み重なっていた。使うことがほとんど無いから驚くほど綺麗なキッチンは冷蔵庫すら開けない、外で済ませるか何も食べないかで事足りる。仕事部屋のキーボードの周りには書きかけの譜面が整理されないまま散らばっていた。一枚を手に取る、続きはすぐに浮かぶ。だけど僕はまたそれを紙の山に戻した。...まぁどうせ、後でやる。やらなくちゃいけないし、やりたいから。それが明日なのか来週なのか、それはわからないけど。 窓の外に眠らない街の光が見える。...ホテル、あるいはショールームのようだ。自分の家のはずなのに、家という感じのする温度がどこにもなかった。 無駄に大きなベッドに倒れ込む。また仕事へ向かうまでの数時間、僕は眠った。 車内ではマネージャーがスケジュールを読み上げていた。 「明日の打ち合わせは午後からに変更しておいたわ。火曜に取材とラジオコメント録り、木曜はダンサーとの通しリハーサル。それと例の追加公演の話、先方かなり本気みたいで___」 僕はそれをBGMのように聞き流しながら、流れ去っていく昼下がりの街を眺めていた。歩道を急ぐ人々もサングラス越しの世界では暗かった。あくびを噛み殺したのをマネージャーが目ざとく見つける。 「ソル、聞いてるの?あなたのねぼすけは10年経っても直らないってベニーに言ってやろうかしら」 「だって昨日レコーディングが済んだのは朝の3時だよ」 「だから今日の撮影は早めに切り上げてもらったでしょう。この後はたっぷり寝ることね、スリーピングビューティ」 「懐かしいな、そのあだ名。きみの上司はまだそんなこと覚えてるの」 赤信号。車はゆっくりと減速し、停止した。外の街の流れも止まる。見慣れた都会の景色、人の波、店の看板...そんなようなものに特に意味もなく視線を置く。ふと引っかかるものがあった。ほんの一瞬、視界の隅に入っただけ。なのになぜか目が離れない。 「(...え)」 心臓が不自然に跳ねた。サングラスを下にずらし、目を凝らす。 通り沿いのカフェのテラス席で、紙の束に目を落としている横顔。俯いた角度、その輪郭、その空気。...まさか。いや、そんなはずはない。きっとよく似た___。もう一度よく見る。...昔から大人びた顔だった。だからか、変わっていない。時間が経っているはずなのにすぐに分かる、年月なんて無かったみたいに。自分の中の何かがぐらりと揺れる。忘れるわけがなかった。 ドアに手が掛かっていた。 「待ってて」 短く言い残し、飛び出す。 「ちょっと、ソル!?」 後ろからマネージャーが制止するのも、クラクションが鳴るのも構わず、僕は一直線に通りを渡った。信号も人の流れもどうでもいい。足が勝手に動く。距離が縮まる。近付くほど確信に変わる。今行かなければまた永遠に会えない気がした。間違いない、あれは___。 席には飲みかけのコーヒーと書類が置かれていた。難しい表情でそれを読む姿があまりにも昔のままで、時間の感覚を忘れるようだった。 「...フレッドだね」 息が少し上がっていた。口に出した途端、現実になる。黒いワークジャケットの肩が動き、ゆっくり顔が上がる。その目がまっすぐこちらを捉えた。見開かれる。数秒。そして彼の唇が、信じられないものを見るかのように僅かに開いた。 「...ソル?」 もう疑いはない。その声を聞き、僕は息を吐いた。長い間できていなかった呼吸がようやくできたようだった。 「...やっぱり」 小さく笑った。信じていたものが目の前にある、それだけで記憶が一気に戻ってくる。さっきまでの街の音も忙しなさも全てが遠い。自分の声が少しだけ揺れているのに気付く。隠す気は、あまりなかった。

ともだちにシェアしよう!