25 / 48

第25話

静かな上層階だった。絨毯が足音を吸い込み、壁に埋め込まれた間接照明が俺たちの影を伸ばす。途方もない家賃を払う必要のある最新式のマンションを想定し身構えていたが、見晴らしが良い割には未だカードキーが導入されておらず、大都市のど真ん中より少し外れた場所にあるマンションだった。ソルは外したサングラスを片手に慣れた様子で廊下を行き、部屋の鍵を開ける。中に入ると、オーディオ関連か何かなのか少しの電子機器の熱、それから紙と僅かにコロンの匂いを感じた。 「適当に座って」 ソファに投げられていたいくつかの服を取り払って場所を開け、ソルはそこへ俺を促した。 「貰い物のワインしかないけど、いい?」 「ああ」 LDKのキッチンでゴソゴソやり始めた彼に返事をしつつ辺りを見渡す。積み上げられたカセットテープ、放り出された音楽誌、メモと書類と郵便物が一緒くたになってできた山...そんなものが目についた。生活感が無いわけじゃなく、むしろ散らかっていると言える。しかし、"人が暮らしている温度"が妙に希薄だった。 「...忙しいみたいだな。まぁ、当たり前か」 ソルは少しはにかみながら二人分のグラスにワインを注ぐ。指に嵌っていたシルバーのリング数個とネックレスを外しテーブルの端へ置きながら、ソファの俺の隣に腰掛けた。距離は近すぎず遠すぎず、なんとなくぎこちない。 「僕のことはいいよ。それより、きみの話を聞かせて」 昔よりもいくらか深くなった声で、彼はそう言った。...仕事とアパートと病院を往復するだけの日々だった。誰かに語るほどのものじゃない、ましてや華やかなスターに対してなんて。そう思ったが、ソルは急かさず待っていた。高そうなコンポのスイッチは入れず、ただ静かに。 少し考えてから、俺はぽつりぽつりと話し始めた。 「...あの家、出てからは...ずっと印刷所で働いてる。小さいところだけど、まぁ食っていくには充分だ」 特別なことはない、積み重ねがあるだけだ。 「毎日インク塗れだ。でかいマシン回して、紙運んで。でも性に合ってるよ」 ソルは口元に小さな微笑みを浮かべたまま聞いていた。途中で遮ったり茶々を入れたりすることも無い。 「...母親も、病院通いは続いてたけど、何年かはまだ元気だった。だんだん入退院繰り返すようになって。それで...去年亡くなった」 影を作るほど長いその睫毛が微かに伏せられたが、彼は言葉を受け止めただけで軽々しい慰めなどは口にしなかった。 「結婚もしてないし今じゃ一人だ。普通にやってるよ、特別困ることも無い」 そうせずとも伝わると思い、母親のことはそれ以上広げなかった。俺は少し空気を変えるように息をついた。 「で、...小説、昔から書くの好きだったから」 「ああ」 ソルがすぐに頷く。...覚えてるらしい。 「たまに地元の新聞とかコミュニティ誌に出してたんだ。暇潰しみたいなもんで。評判もまずまずでさ」 彼は少しこちらに向き直り、話の続きを待っている。 「ふと、これが作品としてどこまで通用するのか知りたくなって。出版社に送ったり持ち込みしたりし始めた。そしたら、その中の一つから手紙来て」 肩をすくめる。 「...興味あるって。何本か読ませろって話になって」 ソルの目が少し見開かれた。 「それで、今日。打ち合わせでこっち来てた」 俺は顔を上げ、彼の姿をもう一度眺めた。あの頃からスター然としていたが、今は更に洗練されている。 「まさかこんな形で会うとは思わなかったけどな」 その言葉に少し笑いが混じった。 「...そう」 ソルは小さくそれだけ言う。しかしその一言に色んなものが詰め込まれている気がした。長い間のことをずいぶん端折って話したが、時間も距離も出来事も、彼にとって知り得なかったもの全部が含まれていたんだろう。 「良かった。きみが元気そうで」 "元気そうで"、そんな簡単な言葉では片付けられない何かが俺たちの空白にはあるはずだった。 「...きみもな。すごいことになってる。TVつければいるし、ラジオつけてもいる、雑誌開いてもいる。BHの頃と同じか、それ以上じゃないか」 ソルが照れたように顔を伏せて笑う。その表情。ステージでは世界を支配するかのように歌っているのに、ひとたび舞台を降りればシャイな...。 再会というやつは、もっと劇的で痛々しいものだと思っていた。俺は彼の人生から消えたつもりでいたから。でも実際は違い、ただ静かな喜びだけがあった。昔よく知っていた相手と、また同じように話している。それだけだ。 部屋の空気がゆっくりと馴染んでいく。さっきまでバラバラだった時間が少しずつ繋がっていくように。グラスに何度か酒が注がれ、気付けばボトルが一つ空きかけていた。マーカスの2人の子供のこと、カルヴィンが振付師として大物アーティストに着いていること、あの頃のヘイズの家のこと。なにしろ長い歳月が経っている、話が尽きることなんて無い。溝はすぐには埋まりきらないだろうが、それでも少しずつ近付いていく。急がずに、無理に埋めようとしないまま。 時折沈黙がある。でも不思議と気まずさは無く、むしろ噛み締めるような落ち着きの間だった。ソルがグラスを軽く揺らし、赤い液体がゆっくりと動く。視線はそこに落としたまま。 「...覚えてる?」 その話を出したのは彼からだった。主語すら無い曖昧な問いだったが、それが何を指しているのか俺には痛いほどはっきりと伝わってしまう。 「...忘れないよ」 いや、正確には"忘れられなかった"だ。何年経っても、何をどうやっても。眠れないと言って訪れる声は今でも蘇る。無かったことにはなっていない。 「きみに、ずいぶんわがままを言ったね」 ソルは小さく笑いつつも目はまだ上げない。軽く言っているようでどこか真剣だった。 「...いや。俺だって...」 返そうとしたもののそこから先が続かない。俺だって...同じだった?欲しかった?離れられなかった?...どの言葉も今更口にするには生々しく、そして遅すぎた。 ソルがゆっくりこちらを見る。逃げないまま目が合った。 「...あの頃、僕はきみを見てた」 静かな声。 「夢中だった」 自嘲じゃない、ただ認めるみたいに微笑んでいる。 「大好きで、たまらなかった」 言い切る。迷いなく。 「本当だよ」 ...俺は。俺は...。 距離が、近い。ワインの吐息が、僅かに重なる。ソルは俺の顔を確かめるかのように首を傾けた。 「フレッド、きみは変わらないね」 やわらかい声でぽつりと言った。 「僕は...少し変わっちゃったかもしれないな」 何も言えなかった。外見だけではない様々な変化が彼にもあったことなんて想像に難くない。 「...気がないんだったら、いいんだ」 一度目が伏せられ、また上がる。ソルは続けた。 「でも、もしきみが...今の僕を、嫌いじゃなければ___」 そこまで言って、言葉が置かれた。それ以上は押さなかった。選ぶのは、俺の方だから。 沈黙。ほんの数秒間が長く感じる。俺はゆっくりと手を伸ばした。ソルの手に触れ、そのまま包む。強くはない。でも確かに掴む。細い手首だ、この手を俺は知っている。ソルはほんの一瞬息を止めた。 どちらからともなく自然に近付いた。触れるくちびる。その瞬間、俺の中の何かがほどけたようだった。急がず、奪わない、短いキス。でも、これまでの時間の分だけの重さがあった。 ソルの指がそっとこちらの手を握り返す。大きな窓から見える都会の光を後ろに、彼は穏やかに目を細めていた。その視線が廊下の方に向けられたのを見、その場所が把握できた。 俺は立ち上がる前にもう一度彼にキスをした。今度は、少しだけ深く。アルコールの残り香に混じり、あのキャンディの味がした。

ともだちにシェアしよう!