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第26話

シャワーから出ても落ち着かなかった。言っても人の家だ、しかも窓の外には俺にとって馴染みのない煌びやかなネオンが下方に広がっているときてる。俺はここへ来たときと同じソファに座りながら、借りたタオルで手持ち無沙汰に髪を拭いていた。 なんとなく周りを見渡す。男の一人暮らしなんてみんな似たようなものだろうが、それにしても...。このシャツの生地から見るにかなりいいものだろうに、床に放っておいてシワにならないか。重要そうな契約関係の書類がセールスのダイレクトメールなんかと混じっていて平気なのか。そんなことが目に付き、本人の性格を表しているようで苦笑する。忙しさの中で脱ぎ散らかされた生活の跡、そんな印象の場所だった。あまりじろじろ見るのも悪い、そう思ってはいるが。 俺は手始めに目の前の空いたグラスを手に取った。 グラスを洗い、ついでに手近な食器を磨く。床に散らばっていた服を拾い上げる。雑誌を重ね直す。音楽関係のものや個人的な持ち物なんかは避け、あるべき形に戻していく。急に目の前に彼が現れた今日のことを思い返す...現実味が薄くどこか地に足の付いていなかった一日の気分も、こうすることによって重力を取り戻せる感覚になった。 「働きすぎ」 振り返ると、湿ったカールヘアをかき上げながら笑うソルがいた。バスタオルを首から下げているだけで上半身は素肌だ。少し目のやり場に困っていると、シャツを持ったまま立っている俺のすぐ前まで来たソルが顎を上げる。何か言うより早く、彼が触れた。短い、けれど離れる前にもう一度重なる。柔らかく食まれて呼吸が浅くなった。 手を軽く掴まれる。そのまま一歩踏み出され自然に後ろへ下がると背に壁が触れた。逃げ道を塞ぐほどの強引さは無いが、ただ、近い。体温と視線でじわじわ距離を詰められる。 またキスが落ちる。今度は少し長い。濡れた髪先が頬に触れ、さっき使ったものと同じソープの香りが近すぎる場所で漂う。侵入してきた舌先に応じると、ソルの喉が小さく鳴った。 体が離れる、けれど完全には遠ざからず、視線が絡んだままにまた数歩。気付けば廊下に出ていて、玄関の正反対、一番奥にドアが見えた。 途中でまた引き寄せられる。額が触れ、鼻先を掠め、次の瞬間にはまたくちびるが重なる。ソルの髪から滴が落ち俺の首筋を伝ったのが契機のように、彼の指が俺の服の裾に滑り込む。浴室の温度が残る掌が肌に触れた瞬間、思わず息を飲んだ。それを感じ取ったのか、彼は口端を緩めた。 キスは深くなって舌が絡み合い、同時に腰に手が回され方向を導かれる。急かされている感覚は無い、なのに逃げる理由も見つからなかった。寝室の灯りがゆっくりと近付いていく。 ベッドでのソルに迷いはなかった。彼は俺のシャツのボタンを慣れた手付きで一つずつ外していく。視線は俺の顔から逸らさず、指先は確かだ。服が肩から滑り落ち、続いてアンダーウェアも脱がされる。空いた片手で自らの肌に手を這わせながら、彼は俺の中心にそっと触れてきた。 ...驚いた。あの頃のソルは、俺の肩に顔を埋め震えていただけだったのに。今は的確に俺の鎖骨をなぞり、腹筋のラインを辿り、熱を帯び始めたそこを昂らせにかかる。同時に自分の胸先や太腿を撫で、それから後ろに手を回す。まるで「見せてあげる」と言っているかのように。言葉を失っている俺に気付いたのか、ソルは小さく笑った。 「...僕にも色々あったからね」 軽い言葉だったが、底にあるものはきっと軽くない。きっと俺の目には見えない夜が何度も彼の中にはあったんだろう。ソルは動きを止めないまま静かに続ける。 「...逃げてもいいよ。まだ間に合う。きみはもう使用人じゃない」 その言葉は穏やかで、どこか儚かった。ブレーキをかけてばかりだった過去が蘇る。欲望より理性を、独占より相手の人生を選び、だから壊れなかった代わりに何も手に入らなかった。今考えればあれは優しさというより逃げだった、罪を犯すのが怖かっただけだ。...ここまで来て向き合わないなんて。 華奢なだけでなく男性らしい線が分かるようになったその体を引き寄せた。答えの代わりに抱きしめる、昔ならば壊れてしまうことを恐れた強さで。 「きみが好きだ」 ちゃんと声に出す。伝える。もうすれ違いたくないから。これは俺の人生の中で最も遅く、同時に最も正直な告白だった。 「...やっと、言ってくれたね」 長い間待たせた。長い間待った。そしてもう俺は自分の意思で選び取っている。 ソルは細めた目で俺を見て、静かに、それでいて確かに、囁いた。 「.....来て」 俺はもう何も言わなかった。彼をゆっくりとシーツの上に押し倒し、初めてその体温を、肌を、息遣いを、全部自分のものにしようとした。 俺の腰に回された手のひらが角度を教え、ソルは小さく息を吐きながら俺を徐々に受け入れていった。腰を沈めるごとにあたたかさと濡れた感触に切なく包まれる。 「ん......」 遠く聞こえる車の音以外には、互いの呼吸だけがある寝室。そこにソルの穏やかな声だけが時折漏れ、それに導かれるように進んで行った。距離がゼロまで近付いていく。 彼と繋がっている、その光景が夢の中のように見えて、ようやく奥まで到達してもしばらく動く気になれなかった。ソルの目が逸らされることはない。昔より大人びた顔だ、けれどこうして近くで見つめると夜に俺の部屋を訪ねてきていた頃の面影がそのまま残っていた。 腰が熱い。女と比べてどうだとかそんなことを考える余裕は無いものの、このまま行けば理性の糸が焼き切れてしまうかもしれないとこの時点で予感するほどの感覚にはなった。気付くとソルの手が俺の背を撫でている。まるで俺があのとき、彼の疲れや不安を安心な眠りに変えてやれるよう願いながらしていたように。 「フレッド...」 呼ばれる。それだけで胸の奥が掴まれた気がした。その声はきっと合図だった。 混じっていた慎重さや遠慮はソルに解かれていった。しっかりとした男の強さで抱き寄せられて位置が固定され、彼のリズムが徐々に深まっていく。離れたくないんだと、その力だけで分かった。ストロークする度に開く距離すらももどかしく、隙間を潰すようにすることで必然的に動きも激しさを増した。 「はっ、は、はあ」 耳元で艶めいた息を聞き、それに呼応され俺も身を押し付けた。すると彼の内が更に絡みつきながら狭まる。息が止まるほどの締めつけに歯を食いしばって耐えた。僅かなことさえ興奮へと直結し、高まり合っていく。 「っ、ん...ふ、...ん......」 くちびるが重なる。今までのどんなキスよりも近かった。存在を確かめ合うかのように触れ、息を分け合い、名残惜しく離れてはまた近付く。あの頃に超えなかった線だ、今はどこにも止まる理由なんてない。長い時間をかけて遠回りしてきたこと、離れていたこと、忘れようとしていたこと。色んなものがどうでもよくなっていく。 「フレッド......っ、フレッド...」 「...ソル...」 突きに押し出されるように、キスの間から名前が溢れる。何度も、何度も。その度に自分はここにいていいのだと思った。俺たちは互いを呼び合いながら溶けて一つになっていく。 体勢すら変えず真正面から強く抱きしめ合い続けていた。ベッドのスプリングが派手な音を上げ、痛いほどの快感が脊椎を駆け上がる。俺はソルの額に自分の額を押しつけ、荒い息を重ねながら腰を動かしていた。その首元に残るコロンは昔には無かったものだったが、奥底に混じる汗の香りは知っているものだ。それを追いかけるようにまた突き上げる。 「...フレッド...、っ好き、好きだよ...っ」 うわ言のようにソルが言う。...胸が苦しい。頭がどうにかなる。それは、恐れや背徳感からのものじゃない。今この時が幸福すぎるからだ。 「ソル...っ、ソル、」 「すき、好きだ、...すき」 指を一本一本絡ませる。欲しかったものは、最初からずっとこれだったのかもしれない。 「...もっと......」 その言葉がトリガーとなり、行為はもう容赦のないものにまで変わっていた。ソルのしなやかな胴が跳ね、繋いでいない方の手が俺の背中に爪を立てる。俺は彼の膝を押し上げ、より深く繋がりながら荒く息を吐いた。腰を打ちつける度に内側が纏わりついて、頭の芯まで本能に支配された。もう抑えられない。俺はソルのくちびるを貪るようにキスしながら、最後の数回を強く、深く突き上げた。 「は、はぁ、ッ......!」 震え、抱きしめる腕に力が込もる。意識が白んでいくのに身を任せた。繋がったまま熱い欲が放たれていき、脈打つ度に快楽が体の内を巡っていく。摩擦が収まるまでの長い間、俺は腕の中のソルの温度と鼓動をただ感じていた。彼は今ここにいる、そのことが皮膚から直接実感できた。 ソルは俺を受け止めたまま静かに最後へ向かっていく。軽く指で作った輪の動きが徐々に早まっていく手付き、それをぼんやりと見ていた。やがて濡れた口元から息が漏れ始め、ゆっくりと体を弓なりに反らせてソルは果てた。彼の手の中に白が散り、触れている俺の腹にも少し掛かる。きゅうと中が締まって未だ中にいる俺のものに最後の穏やかな刺激を与えた。 「......はぁ...はー...」 長い夜だった。汗で滑る肌が密着し、互いの心臓の音が重なり合う。身を離すとスキンの半透明越しに見える精がこの時間を露骨なほどに象徴している。それからはしばらく抱き合ったまま、息が整うのをただ待っていた。 言葉にできないほどの充足感が胸を満たしていた。時間をかけてようやく辿り着いた距離。昔と同じものも変わったものも、知っていた感覚も覚えてしまった動きも、どちらもちゃんとここにあって触れ方が全てを伝え合っていた。無いのはただ一つ、躊躇いだけだ。今の俺たちは対等なままだから。 ソルの頬に貼りついている乱れた毛先を退けそっと口づけを落とすと、彼は目を閉じたまま微笑んだ。28の男相手に30の俺が使う表現ではないかもしれないが、それはやはり天使という言葉が似合ってしまうものだった。 ...あぁ。俺はずっと苛まれていた。抗おうとしてそうできない自分に罪を感じていた。だけど考えてみれば、このソロモン・ヘイズにあんな目で見られ声を聞かされ笑いかけられ、それで平気なままでいられる奴なんてこの世界のどこにいるだろうか。 「(...いや。無理だな)」 柔らかな髪をかき分けながら、俺は笑った。

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