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第27話
洗濯機の回る音で意識が浮かび上がった。規則的な機械のリズムがドアの外で鳴っている。窓から薄いカーテン越しに太陽が差していて、その角度から僕は珍しく午前のうちに目覚めたことを知った。
自分の寝室、だけどいつもと何かが違う。隣を見る。もういない。でもシーツには温かさが残っている。
目を擦りながらシャワールームに向かう。コーヒーの香りが漂い、どこからか足音がする。廊下にはゴミがまとめられていて、洗面所にはタオルが補充されている。
湯が体を滑っていく。昼の陽を浴びて水滴が光って見えた。シャンプーに手を伸ばすと、いつもの適当な場所でなくきちんと窓際にミリ単位で調節したかのように揃ってボトル達が置かれていた。
肌に彼の温度が残っている気がした。触れられた場所全部がまだ彼を覚えているみたいだ。洗い流すのを少し躊躇ってしまうくらい。
彼は緊張していたかもしれない。男とは初めてらしかった。肩に力が入っていて、それが可愛くてたまらずについ勢い付いてしまった。昔は彼の背中をそっと追うばかりだったことを思い出す。周りに知れたら終わりだったし、線を越えれば壊れる気がしていた。でも今は違う、欲しいものを欲しいと言っていい。彼に触れたい、抱いてほしい、僕を選んでほしい...全部。そして彼も僕を拒まなかった。壊れものを扱うみたいじゃなく、ちゃんと求める男の抱き方だった。
「(...夢じゃ、ない)」
排水溝に回りながら吸われていく水を眺めてなんとなく思う。誰かと過ごした時間。夜。孤独。愛されたこと。愛したこと。欲望の扱い方。身体の触れ方。そんなものをたくさん覚えた。それでもフレッドは僕を好きだと言った。頭の中で何度も反芻する...遅すぎるくらい遅い言葉だ。でも僕はずっとそれを聞きたかった。多分、自分で思っていた以上に。
「ソル」
バスルームの外から声がした。
「...おはよう」
「おはよう」
交わした挨拶は少しぎこちなかったかもしれない。僕はシャワーのコックを閉めた。
「...今日、仕事は?」
「昼過ぎに打ち合わせがあるだけ」
「そうか」
「うん」
「少し出てくる。すぐ戻る」
「ああ。鍵はそのままでいいよ」
「わかった」
壁越しの短いやりとり。それでもその低い声が、ここが現実だということを知らせた。顔を洗ったことでようやく目も覚めてきた。
彼がマーケットの紙袋を抱えて戻ってきてからいくばくも経たないうちに、テーブルには食事が用意された。パン、卵、サラダ。簡単だけど整えられている。そしてその皿とコーヒーの湯気の向こうにはフレッドがいた。
「何も無かっただろ、冷蔵庫」
「よく体が持ってるな」
「仕事だからね」
「何日か分は買ってきたから適当に食べてくれ」
「助かるよ」
ここにいるのが当たり前かのように、彼はキッチンにいる姿がよく馴染んでいた。あの家でもよく母さんの料理を手伝ってたっけ。
部屋を見る。片付いている。そういえばここってこんなに広かったか、なんて自分の家なのにそう思った。書類とカセットテープにだけ手を付けずに置いてあるのが妙に律儀で可笑しい。
「...勝手に悪い」
「いいよ。ありがとう」
滅多に使わない物置を片付けてみたり、ファンレターを几帳面に仕分けてみたり。手を動かしているのが好きな気質だといつか言っていたが今も変わっていない。僕が朝起きたらもう動いていて、音がして、匂いがして、そこに生活がある。
マグカップに手を伸ばす。普通のインスタントのはずだけど、そのコーヒーの味はなんだか懐かしく感じた。
「これから帰るの?」
自分の鞄___と言っても例の原稿くらいしか入っていないようだけど___を整理し始めた彼にそう聞いた。
「ああ。明日は月曜だし、仕事もあるから」
現実的な理由。当然のことだ、分かっている。...でも。
「来週も来てよ」
言葉は考えるよりも早く出た。引き止めたいわけじゃない、彼には彼の守るものがある。でもこれっきりになるのは嫌だ、それだけは確かだった。
フレッドは少しだけ考えて、それから短く答えた。
「...都合付けばな。お互いに」
「うん。それでいい」
はっきりとした約束じゃない。でも断りでもない。今はそれで充分だった。
ドアが閉まり、エレベーターが下り始める。11、10、9。四角い箱の中で僕たちは隣り合っていた。
「あのさ」
階数のランプのオレンジ色から目を逸らさないまま彼が口を開いた。
「なんで、俺なんだ」
7。僕がどうして彼を選んだのか、そのきっかけを問われているんだと理解するまでに数秒かかった。フレッドは少し照れたように短髪の頭を掻きながら付け加える。
「...あぁ、変な質問だな。...でも、ずっと分からなくて」
なんで、と聞かれても困ってしまう。人に惹かれる心に理由がいるとは、何か愛の歌のリリックを作るときにだって考えたことがなかった。でも理屈っぽい彼は全ての感情を説明したいんだろう。あの部屋で書いていた物語もずいぶん理路整然とした文体だったことを思い出す。4。
「...歌ってなくても、息が吸えたからかな」
十代の頃は誰もが僕のことを"才能"や"商品"として見ていたのに、フレッドは僕を普通の友人として扱った。タレントの顔を作っていなくても許された。それがどれだけ救いだっただろう。理解してくれる、ずっと話していたい、安心する...本来ならば親友や憧れという関係性に押し込めたはずだったその感情。でも仕事とレッスン続きでほとんど学校に行かず周囲は業界人かファンくらい、そんな当時の僕は人との関係性を覚える過程が無く、それを恋だと思ってしまった。若さ故の勘違い、きっかけはそんなものだったのかもしれない。2。
「後悔してる?」
「いや」
「ふふ。僕も」
1。チャイムの音。エレベーターのドアが開く。僕たちは街に踏み出して歩き出す、別方向へ。
「またね」
「また」
インクの匂いのする男は軽く手を挙げ、通りを渡っていった。それを見送ってから僕はサングラスをかけた。
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