28 / 48
第28話
フレッドは毎週土曜日の昼近くにやってきた。洗濯物を片付け、掃除をし、料理を作る。僕が帰ってくると大抵紙に向かって何か書いている。抱き合って、眠る。そして日曜日の午後には本来の家へ戻っていく。
僕の仕事が立て込むと、帰れずじまいで会えないときもある。それでも整えられた部屋と冷蔵庫に入っている簡単な食事を見れば、彼が来ていたことがわかる。電車を乗り継いで1時間半かけ、そのためだけに。
「来週も来て」、その言葉はもういらなくなっていた。週末にやってきて、週初めにいなくなる。僕は何も言わないし、フレッドも特に宣言しない。約束なんてどこにもないのに決まってちゃんとここに来る。
玄関を開けると彼がいる。ネックレスとリングを外しながら、机に向かっているその頬にキスをする。その温度と、洗濯機の駆動音に混じるコーヒーの香り。それらを感じると家に帰ってきたという実感が湧いた。
その週。ふとローテーブルの上に置かれていた原稿用紙を手に取ってみた。角ばった文字が紙いっぱいに広がっている。
___午前2時を過ぎると、その男のアパートの配管は泣いているみたいな音を立てた。彼はコーヒーを三度温め直したが、一口も飲まなかった。怒鳴る代わりに丁寧に手を洗った影が落ちている。定期券はいつもの場所にあった___
無駄なものがどこにもない、乾ききったドライな文章。でも細部の動きや空気の変化だけがやけに生々しい___きっと"人"を日頃よく見ているのだと思う。それになんとなくブルースやスロウジャムに似たリズムがある。あの部屋で読ませてもらったノートも同じだった。
「勝手に読むなよ」
洗い物を終えたフレッドが手を拭いながら眉をひそめている。原稿を取り返そうと伸びた腕を軽くかわす。
「いいじゃないか。どうせ出版したら大勢の人に見られるんだし」
彼の動きが止まる。図星だ。
また目を落とし、紙の束をめくっていく。そこに出てくる登場人物。若いスター。人気があって、誰もが知っていて、でもどこか孤独を抱えている。
___ダイアモンドと呼ばれる女は、シガレットを吸ったことがなかった。不眠症で、古いソウルミュージックとペパーミントフレーバーのキャンディを好んだ___
「(...これって)」
指先が止まる。思う。フレッドは顔を伏せ、原稿をページ通りにまとめ直していた。
会えなかった時間と知らない出来事、全部が完全に消えるわけじゃない。だけどこうして違う形で繋がっている。フレッドが僕のことを考えずに過ごしていたときも、あの頃の僕はちゃんと彼の中の一部になっていた。
「これも本の中に入るの」
「編集者の評価次第だな。反応が良ければ」
「きっと入るよ。だって、僕が出てる」
「...」
「ふふふ」
立ち上がって彼の手をそっと引き、寝室へ導いた。
生活が続いていく。僕は曲を作りながら歌い、彼は働きながら文を書いた。
「...見込みは、悪くないらしい」
足元まである窓から夜の光が入ってくるリビングで、編集部帰りのフレッドが遠くのタワーを見ながら呟いた。どこか他人事のような言い方だ。
「編集からも、次の長編とかコラムの仕事とか...話は来てる」
「いいじゃないか」
僕は音楽誌から目を上げて言った。しかし彼はペンを指先で転がしながら難しい顔をしている。
「...どうだろうな。今の仕事、続けるべきかどうかって話でさ」
言葉の端に迷いが滲んでいた。
「作家が夢だったんだろ」
「趣味みたいなものだったし...一本で食っていけるとは思えない」
やりたいならやればいいのに、と僕なんかは思ってしまう。でも彼らしい現実的な悩みだ。それも、よくわかる。
そのとき、電話が鳴った。立ちあがろうとしたときには、フレッドの手がカウンターの上の子機に伸びていた。
「はい、ヘイズ___」
彼が言ってから一瞬止まる。あ、という顔。...電話は取らなくていいと言ってあった。あの家で電話番をしていたときの癖で反射的にやってしまったんだろう、でももう遅い。僕の口が思わず緩んだ。
「...ええ。はい」
相手に頷いた後、受話器を軽く押さえながら彼がそれを差し出す。
「...マネージャー」
「代わる」
受け取る。彼は照れたように表情を固くして元の椅子に座った。
「Hello?」
『私よ。明日の件なんだけど、入りは10時になったわ。それとスポンサーも顔を出すってゴネ始めて。承知しておいて』
「わかった、ありがとう」
いつもの調子の彼女に相槌を打つ。切ろうとしたとき、引き止められた。
『ハウスマンでも雇ったの?』
「え?」
『今、誰かいたでしょう』
冗談めかして探る口調。彼の方へ視線をやる。少し居心地悪そうに背筋を伸ばしてペン先を眺めている。
「...ああ。古い友人が来てるんだ」
軽く言う。
『そうなの。来客は苦手だって言ってたから珍しいと思って』
「はは。いくら僕が付き合いべたでも、たまには訪ねて来る人くらいいるよ」
『うふふ、そうね。じゃあ、明日は10時よ。寝過ごさないで』
「オーケー」
電話を切ると部屋に静けさが戻った。黙っているフレッドの後ろ姿を見ながら、心の中に引っかかるものがあった。...ハウスマン。その響き、あの頃の立場。
「...」
子機を持ったまま考える。今の生活、迷っている仕事、ここにいる時間...全部が線で繋がる。フレッドが、ハウスマン。もう一度、僕のところで。
「...いいかもしれないな」
「何が?」
ぽつりと言った僕に反応した彼を見て笑う。答えはもう見えている。
最初は少しの変化だった。洋服、ノート、文庫本。気付けば増えていく。調理器具が揃えられ、見慣れないマグカップが僕のものの隣に置かれ、物置きになっていた空き部屋が片付けられた。ただの広い箱のようだったこの家にフレッドの存在が混じっていく。そしてとある土曜日、いつものようにやってきて僕の帰りを待っていてくれた彼が言った。
「仕事、辞めてきた。来週役所行ってくる」
あまりにも普通にさらっと言うものだから、僕は驚いてしまった。
「...ほんとに良かったの?」
「なんだ今更。こっちが聞きたいよ」
遅れて出た僕の言葉に彼が肩をすくめた。その表情と仕草が昔と同じで。
ゆっくり近付く。見上げる。確かめるように聞いた。
「...ずっとそばにいてくれるんだね」
「そのつもりでこうしたんだろ」
言い返される。その通りだ、こっちが提案したんだから。
「...もうどこにもいかないよね」
子供みたいな問いだ、でも抑えなかった。フレッドは目を細め、それから静かに答える。
「俺は一生、きみに仕える運命なんだろうな」
抱きついた。彼も僕の背にその大きな手を回してくれた。運命、理屈屋で現実的なフレッドが、そんな夢みたいなことを言ってくれたことが嬉しかった。
深夜。仕事から戻る。カタ、カタ、タイプライターの規則正しい音が止み、新しく書斎となったその部屋の扉が開く。
「おかえり」
当たり前みたいな挨拶。この光景を噛み締めるように立ち止まり、そして答える。
「ただいま」
何も特別じゃない。でも、もう手放す理由がどこにもない。そんな日常だった。
ともだちにシェアしよう!

