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第32話
ミュージシャン。アーティスト。ソングライター。...そう言うと聞こえは良いが、曲作りなんて実際は泥臭い。ドラムループを何時間も流し続けて、ベースを少しずらし、シンセサイザーを微妙に足す。しっくりくるまで同じフレーズを何度も歌う。そんなことの繰り返しだ。アイデアはいつ浮かぶかわからない、だから作業はスタジオだけに留まらない。
僕の仕事部屋はフレッドのそれとは正反対だった。大量のレコードとカセットテープとCDがラックにひしめき合い、コンポとキーボードとドラムマシンが置かれ、テーブルには譜面が散らばっている。家にいる間はここにこもることも多く、その日も僕は仕事から帰ると鍵盤を鳴らして過ごしていた。
「ちょっと来て」
部屋から顔を出し、浴室を掃除していた彼を呼ぶ。フレッドはタオルで手を拭いながら入ってきた。
「これ、どう思う」
片手でキーを叩き、まだ曲ですらない数小節のフレーズを聴かせる。彼は真面目な顔でしばらく考え込み、そして言った。
「...夕方。恋人が別れ話してる。大喧嘩した後で、もう冷めてる」
もう一度音を鳴らしてみる。たしかにそういう情景が似合うように感じた。
フレッドは音楽を知らない。きっとコード進行も一つとしてわからないだろう。けれど彼は、不思議と音の奥にあるものを文学的な表現でぴたりと当ててしまう。技術ではなく感覚で。昔、BHのデビュー曲をジンジャーエールと言い表したときは、兄さんたちも黙って納得していた。
僕は彼に感想を促すのが好きだった。ただの興味本位で聞いてみることもあれば、ちょっとばかり参考にすることもある。僕たちの間だけの創作遊びみたいなものだ。
「こっちはどう?」
ラジカセにテープをセットし再生する。録ったばかりのデモ、軽いメロディしか入っていないものだ。その旋律はなんだか懐かしい雰囲気がして自分でも気に入っていた。やがて曲が終わる。フレッドは考えている。10秒、30秒、1分が経とうかというとき、彼は口を開いたがそれは感想ではなかった。
「これ、借りてもいいか」
カセットを指差す。僕は瞬きをした。
「べつにいいけど」
「ありがとう」
それだけ言うと、彼はラジカセを持ち上げ本当に自室に運んでいった。
...なんだろう。でもまぁいいか、気に入ってくれたんだったら。
翌日目を覚ましたとき、フレッドはもう出かけていた。僕はシャワーを浴びて着替えをし、それからリビングへ行った。パンが用意されているテーブルに近付くと、昨日のカセットテープとメモ用紙が置いてあった。
「うわ」
驚いた。白い紙には数行どころではなくびっしりと文字が書かれている。角ばっていて読みやすい、いつもの彼の字だ。僕は座り、マグカップを片手にそれを読み始めた。
___夜明け前の紫色。閉店後のディスコティック。回ったままのミラーボール。踊っていないのに光だけが動く。
最後の曲が思い出せない。ただ踊った夜の記憶だけが残る。嫌いになったわけではない、ただ続かなかった。若かった。帰る場所が違った。明日など考えていなかった。「また来週」の来週は来なかった。
懐かしさというより、置いてきたものを思い出す感じ___
たった数分のデモテープ、僕の作ったメロディ。その中に彼は人生を見つけていた。断片的な箇条書きの言葉たちが、なんだか息をしているように感じる。
立ち上がる。テープとメモをポケットに入れ、そして家を出てスタジオへ向かった。
帰ってきても、僕はまだ機嫌が良かった。良いインスピレーションというのはこんなにも心を弾ませる。それを提供してくれた張本人を構ってやろうか、そんな思惑で書斎へと入った。
「フレッド」
声をかけてもタイプライターの音は止まない。ただ一点を見つめて手を動かしている。...だめだ、集中モードに入っている。
僕は急につまらなく感じ部屋を見渡した。自分の部屋とは違い、本と紙が整理整頓された空間。本棚には辞書と小説が高さまで揃えられて並んでいる。
ふと、書きかけの原稿がはらりと舞った。拾い上げて読む。...ふぅん。その内容に思わずにやりとしてしまう。僕は紙に目を落としたまま言った。
「珍しいな」
「何が」
机に向かう彼は振り向きもしない。
「きみの小説にしてはずいぶん熱い場面」
タイプライターの音だけが響く。
「男がかなり強引だ」
カタ、カタ、カタ。
「抱き潰す勢い」
カタ...。一瞬音が止む。僕はわざと煽るように続けた。
「そういえば昨夜のきみ、2回目を求めてきたな」
「...」
止まった動きを見て僕は内心笑っていた。昨日、カセットを貸したあと。フレッドはいつもより遅くまで起きていた。僕が作業をやめてベッドに入っても、なかなか寝かせてくれなかった。軽い調子で言う。
「欲求不満だったら遊んできてもいいよ。きみを縛ってるつもりないし」
「...おい」
その瞬間、彼が立ち上がった。寄ってきて、原稿を奪い取る。
「勝手に読むな」
「今更だろ」
ページを元に戻し、揚げ足を取ってにやにやしている僕をまっすぐ見つめてくる。彼はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「...さっき、なんて言った」
「縛らないから遊んでこいって」
フレッドの表情が鋭くなる。怒っている顔だった。
「...二度と言うなよ」
「え?」
有無を言わさないその様子に少し驚く。
「ソルがいいからここにいる」
彼はまた座り直し、原稿に向かい始める。僕は呆気に取られその背中を見ていた。...僕がいいから。じんわりと胸が熱くなる。
「...嬉しい」
「...」
「ちょっと台詞回しっぽすぎるけど」
「悪かったな」
カタ、カタ。キイを打つ彼に近寄り、そのこめかみに軽くキスをした。インクリボンの匂いが漂っている。そのまま耳元でそっと囁く。
「...じゃあさ。このシーンみたいに、今度はやろうか」
沈黙。
「研究だよ、作家先生」
そこでとうとう睨みつけられた。
「仕事の邪魔だ」
「はいはい」
音楽誌に僕の新譜のレビューが載っていた。
___ソロモン・ヘイズの新曲は意欲作だ。ネオ・ディスコとでも表現すべきか、BH時代を彷彿とさせる音と、初期作品に回帰したような情感あるメロディがあの時代を思い出させる。しかし詩の方はこれまでの彼にはない切り口で、乾いた視点が効いている___
「褒められてるよ」
キッチンで食器を拭いているフレッドに声をかける。
「今度からギャランティ貰うからな」
軽いジョークに笑いが漏れた。
「あのポルノ小説の評価はどう」
「そういうシーンが数行あるだけだ」
「あー、そう。で、評判は?」
「そこそこ」
彼が"そこそこ"と言ったとき、実際にそれは"かなり良い"という意味だ。僕はマガジンを閉じてキッチンの方に向き直った。
「僕たち、相性いいんだね」
フレッドは何も答えなかったが、その口元は微笑んでいた。
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