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第33話
スタジオの時計は深夜1時を指していた。何度目かも知れないリテイクを終え、曲を再生させる。スピーカーから流れる自分の声。...決して失敗じゃない、でも何かが足りない。その何かがずっとわからずにいた。
「もう一度頼む」
「無理は良くないよ」
「平気だ。締切も近いし」
スタッフにはそう答えたものの、やはり疲労は感じていた。家とスタジオの往復、睡眠不足をブラックコーヒーで紛らわし、散らばった譜面との睨めっこ。フレッドともほとんど顔を合わせていない。僕が帰る朝方なんて、彼は寝ていて当然の時間だ。
スランプというやつだろうか、ここ最近ずっとこんな調子だ。頭の隅に白髪の男が過ぎる。...ジェイならばこんなときどうするだろう。ため息を吐いてその影を追い出す。考えていても仕方がない。
そのとき、アシスタントがドアを開けた。
「ソロモン、電話」
「誰?」
「アルフレッドって言えばわかるって」
...フレッドがこんな時間に?番号は一応伝えてあるが、実際に彼がここに連絡を寄越したことはこれまで無かった。驚きと同時に、何かあったんじゃないかという不安も浮かんだ。椅子から体を起こし、アシスタントから渡された子機を受け取る。
「フレッド?」
『...俺』
「どうしたの」
少しのノイズ、続いてよく知った声。
『今日は帰ってくるのか』
拍子抜けした、それから少し胸が痛んだ。コントロールルームに目をやる。エンジニアがガラス越しに待っている。
「...いや。まだかかる」
『そうか』
短い返事、そして沈黙。まさかそれだけか。仕事中の僕に用もなしに電話をかけてくるなんて彼らしくない。
「...どうしたの」
もう一度聞く。すると彼は少し間を置いて口を開いた。
『...賞』
「え?」
『取った。文芸誌の』
「......」
賞。取った。文芸誌の。一瞬頭が白くなり、意味を理解するのに時間がかかった。...すごい。やったじゃないか。きみの才能が認められた。僕はずっと信じてた。...感情は浮かんでくるのに、疲れきった脳ではそのどれも上手く反応にならなかった。
「...おめでとう」
言ってから自分で気付く。ひどく冷淡だ、嬉しそうになんて聞こえない。
『心がこもってないな』
案の定、受話器の向こうでそう苦笑する声がした。
「...今、隣にスタッフもいるから」
『そうか』
数人の男たちが会話の終わりを待っているのが見える。でもそんなもの言い訳にならないこともわかっていた。
『まぁほどほどにな。それじゃ』
電話が置かれる気配。その途端、急に胸の奥が焦った。嫌だ、こんな終わり方なんて。
「待って」
『...』
スタジオを見渡す。皆がこっちを見ている。でも構わない。僕は深呼吸をして、それから言った。
「フレッド。おめでとう。心から祝福する」
はっきりと言う。伝わるように。誰よりも誇らしい気持ちで。
「アルフレッド・ホール。ソロモン・ヘイズはきみを愛してる。ずっと。これからも」
彼は黙った。スタッフも黙った。それから電話から呆れたような声がした。
『...人がいるんだろ?』
「うん。でも、いい。それじゃ」
『...じゃあ』
電話を切った。
プロデューサーが口の片端を上げている。
「今の誰だい。恋人か」
「そんな感じ」
「これはニュースだぞ」
僕は笑いながらまたマイクの前に立った。今度のテイクはいける予感がした。
何ヶ月ぶりかの丸一日のオフだった。今までこんな日があれば決まって寝通しだったが、今日の僕に限ってはまともな時間に起きていた。
チャイムが鳴る。フレッドが玄関に向かうのを、僕はレコードを聴きながら横目で見ていた。
「どうしたんだ、これ」
「お祝い」
「大賞じゃないんだぞ」
そのうち彼が紫色の花束を抱え、その宛名に困惑しながらリビングに戻ってきた。好きな花...なし。好きな色...ブラウン。そんな彼だから、勝手に僕の好みで注文しておいた。
「食事に行こう」
「今から?きみとか?平気かよ」
「車呼んであるし個室も取ってある。堂々としてくれよ、僕の恋人なんだから」
僕に腕を引かれる彼はまだどこか困っている。
「...それ、外であんまり言うなよ」
「何が」
「恋人、とか。記者に色々書かれるぞ」
僕はわざとらしくため息をついてみせた。
「ここ、家だよ。僕たちの」
嫌がると思ったから、特別有名だったり値の張るレストランは避けたつもりだった。それでもフレッドは緊張した面持ちで、人目を気にしたり不自然なペースで酒を飲んだりしている。その姿が愛おしかった。彼がようやく落ち着いたのは、食事が済みひと通り酔いが回った頃らしかった。
「...昔も、きみに紫の花をもらったことがある気がする。しおれてて、ファンからのプレゼントの使い回しだった」
「そうだっけ」
「それに、こうやって急に外出に誘われたこともある。レコード屋で、女の子に追いかけられて」
「そうだったかな」
彼は思い出を辿りながら窓の外の人通りを見ていた。喧騒を観察するのは作家の仕事のうちだ、こんなときくらい休めば良いのに...いや、あの性分じゃ無理だな。
そんなことを考えていると、彼は僕の方に向き直った。
「...指輪。前に失くしただろ」
「ああ...うん」
薄らいでいた記憶が蘇る。結局あれは見つからず終いだった。しかし今更あんなことを持ち出すなんて。
「埋め合わせってわけじゃないけど」
彼はポケットから小さな箱を取り出し、僕のグラスの隣に置いた。開ける。当然のようにそこにはリングが入っている。男ものの、細身のゴールドのものだった。
「...これ...」
「安物だけど、シルバーしか着けてるの見たことなかったから」
俯いている顔が心なしか赤いのは酒のせいだけじゃないはずだ。
「作家仲間に言われたんだ。友達のところで使いっ走りやってるって漏らしたら、女のヒモじゃないかって。ほんのジョークだけど、確かにそうだと思った。でもさ、賞金も入ったし仕事も増えたから、これくらいしたくて」
...ああ。きみは。どんな小さなことでも覚えている。与えられたら相応のものを返さないと気が済まない。"使用人"というやつに、根っこから合ってるひとなんだ。
リングを着けてみる。左手の薬指。
「おい、場所」
「このシチュエーションだったらここしか無いだろ」
「せめて中指」
手を取られはめ直される。すぐに元に戻す。
「結婚だね」
「違う」
「違わない」
また手を取られる。中指にはめられる。また元に戻す。
「芸能人がこんなところに指輪してたらすぐ騒ぎになる」
「見えないようにするよ。秘密の結婚。ロマンチック」
「...返せ。一旦回収だ」
「ケチ」
彼は現実を見て、僕は夢を見る。店の照明に照らされた金色が、太陽のように光った。
リングは結局、僕のネックレスのチェーンに通した。レコーディング、取材、ステージ、いつどこにいても彼の存在が近くにあるようだった。首元に目をやればインクの匂いが蘇る。
大っぴらに言うなんて馬鹿な真似はしない。だけどあの頃のように、月明かりにも神にも隠し通さなければいけない関係なんてもう遠かった。
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