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第34話
脊髄を震わせる低音に慣れるために、グラスを半分空けるまでの時間を要した。入り口付近のハイテーブルに留まり、中央のDJブースと揺れる客たちを遠く眺める。
「今日の選曲サイコーじゃん」
若い女が笑って駆けていく。色彩と音が過剰に鮮やかだ。紫色の光が空間を照らし、フロアでは人々が音楽に身を委ねている。カウンターで笑い合う者、一人で煙草を吸う者、誰かを探して視線を巡らせる者。
___
・DJは牧師に似ている
・『そこでは、群衆の一部にも、センチメンタルな孤独にも、飢えた者にもなれる』
___
手帳にそう記し、また目線をライトの中に潜らせた。
例のコラムのための取材だった。そうでなければまず縁の無い場所だ。あの家にいたときも、兄弟たちの話を聞いたり送迎で店の前まで行ったことはあれど、ナイトクラブの中に入るのなんて初めてだった。近くにはいるが彼らと俺とでは住む世界が違う、そう思っていたから。...まぁ、近付き加減が増しただけで今の生活もそう変わりはしないか。
またグラスに口を付けたところで、不意に声が飛んできた。
「見ない顔だな。一人か?」
振り向くと、広い肩幅に革のジャンパーを羽織った短髪の黒人の男が立っていた。歳の頃は同じくらいだろうか。言葉の端と立ち振る舞いから常連であることがわかる。
「...ああ。ちょっと仕事で」
「仕事?ミキサーやダンサーには見えねえな」
「物を書いてる。そのための取材で来た」
音楽のおかげで、これだけ伝えるのに普段の倍ほどの声を出したように思った。しかしそんな俺よりも男は大きな声で笑い、言った。
「なるほどな。しかし、クラブでペンと手帳を持ってる奴なんて初めてだ」
こういう場所に出入りする人間らしく親しみやすい。俺は同じテーブルへ彼を促した。
飲み物を一つ多くオーダーすると彼は気を良くし、このあたりの大箱がどこだとか、どのDJが見どころがあるかだとか、そんな話を始めようとしたから、俺はやんわりとそれをジェスチャーで遮った。
「できれば、きみ自身のことを聞きたいんだ。仕事は何をしてるか、どんな気分のときにここへ来るか、例えばそういうもの」
へえ、と感心したように漏らすと、彼は砕けた口調で仕事の話を始めた。
___オートバイ。エンジン音とダンスミュージックの類似、景色が変わる=トラックが変わる___
俺は音楽の隙間から単語を聞き取りつつメモを残す。言葉にはスラングとジョークが目立ち、その右耳にだけ金のピアスが光っている。話し方や服装も含め、男はこの空間に実に馴染んでいるように思った。
「...それで、こういう場所には15の頃から出入りしててさ」
「なるほどな」
相槌を打ったとき、フロアの曲が切り替わった。ホーンセクションの聴き覚えあるイントロが流れ、重厚なコーラスが響いてくると、中央のフロアに一気に人が流れた。気付けば俺の足も小さくリズムを刻んでいる、体が先に反応するというやつだろうか。
「お、あんたもBoogie Hayesが好きかい」
一瞬考え、そして答える。
「...まぁ。流行ってたから」
「オレたちの世代はドンピシャだよな。うちの妹の部屋なんかポスターだらけでさ、絶対カルヴィンと結婚するんだなんて言ってたよ」
「はは」
カル本人がこの曲のダンス構成を熱心に確認していた夜のリビングが浮かび上がる。懐かしい名前が第三者の口から出る様子はなんだか不思議であり、懐かしい曲を店中の人々が体を揺らしながら口ずさんでいるのもまた不思議だった。
「最近じゃどの箱も大抵BHをかけるんだ。リバイバルでまた流行ってるらしい。あの頃のディスコは凄かったからな」
遠くを見て微笑んでいた彼が付け加えるかのようにこっちへ向き直る。
「もちろん最近のソロモン・ヘイズもかかる。『Doctrine』以降クラブじゃずっと一線さ。この間のライブも行ったぜ、オレ」
息を飲みかけ、すぐに平静を取り戻す。...何もおかしくない。あいつはスターだ、誰もが知っている。
「好きなんだな」
「アルバムが出りゃとりあえず買ってるよ。BHのときから歌もいいし、顔もいい。それに...何て言うんだ、独特の雰囲気があるよな。色気っつーか」
「色気、か」
俺はグラスの中の氷を揺らした。少し、知りたくなった。
「...作家としての興味で聞くんだが」
「うん?」
「きみのような人たちも、ソロモン・ヘイズに魅力を感じるものかい」
男がきょとんとする。そしてゆっくり意味を理解したように口元が悪戯っぽく緩んでいった。
「直球だな、作家先生」
「参考までに」
すると彼は、気負いも羞恥も無くあっさりと答えた。
「まあな。そそるよ。チャンスがありゃやりたいもんだ」
その冗談めかした言葉は、ただの率直な感想、そんな印象だった。悪意も下心も隠さない素直さが見て取れる。
「なにしろあの声とルックスだろ。めちゃくちゃにしてやりたいね。ははは」
「...へえ」
男は酒を飲み干し笑う。
「オレのこんな話でも参考になるのかい。物書きってのは面白い職業だな」
その向こうで、フロアではソルの若い歌声が続いている。どんな喧騒にも埋もれない、真っ直ぐ飛び立つような声だった。
玄関を開けると、仕事部屋から出てきた抱きつき魔がいつものようにハグをしてきた。
「取材、どこ行ってきたの」
「イーストヴィレッジのRatってとこ」
「あそこか。カジュアルだよね。Tシャツとジーンズでも入れるんじゃないかな」
「そうらしい」
俺も軽く抱き返し、それから上着を脱いでハンガーにかける。彼は自室に戻らず、リビングへ向かう俺の後を着いてきた。
「面白かった?」
「...俺の行く場所ではないな」
「だよね」
答えがわかっていたかのように彼は微笑んだ。
ポケットから手帳を取り出して見返すと、あの男のことを思い出した。
「面白かったこと、一つあるぞ」
「へえ」
くく、と言い始めないうちから笑いが漏れた俺の顔をソルが覗き込む。
「きみのファンに会った。そいつ、きみをめちゃくちゃにしてやりたいってさ」
「...は?」
一瞬にして怪訝な表情になった彼を見ると一層おかしくなってくる。ソルは話の全貌が見えていないのか、しばらく変な顔をして考えていた。
「取材でなんでそんな話になるの?」
「気にするな。なんでもないよ」
「意味わからない」
あの手の連中の視線を真っ向から受け続けている奴が、今はこうして俺の帰りを待っている。エゴや傲慢だと言われようが、幸福だということだけは確かだった。
「...僕もあるよ。面白かったこと」
「なんだ」
ソルが壁にもたれかかりながら言う。目を閉じ口元がにやりとしている...何か企んでいるな。こいつがこの顔をするときは大抵ろくでもないことを言い出すのを俺は知っていた。
「結婚したって言った」
「は!?誰に」
今度はこっちがこの反応をする番だった。彼が首元のネックレス___例のリングが通されているやつだ___を指で弄ぶ。俺がやったそれを左手の薬指に嵌めたがるものだから、変な噂をされないようこうして代替案を考えたんだ。それなのにわざわざ公にするような真似をしたのか、彼は。
「スタイリスト。そのネックレス最近気に入ってるけどガールフレンドに貰ったのかって聞かれたから。エンゲージリングだよって言ったときの彼女の顔!きみにも見せてやりたいよ。嘘ってバラしたら小突かれた」
「...余計なこと言うなよ」
呆れてソファに沈んだ俺を見て、ソルはしてやったりという様子だ。そして息をつき、いくらか真面目な声で言った。
「でも、ちょっと嬉しかった。僕はフレッドのものだって誰かに言えるの」
...その言い方、言葉選び。彼は時々こういうことを打算もなく容易く言う。...俺がソロモン・ヘイズを"めちゃくちゃ"にしている証がこれだってのか。そんな野暮なことを思いつつその胸元に淡く光る金色を眺めると、なんだかまた笑えてきた。
「きみ、ずいぶん愛想良くなったよね」
それは、きみにもう一度恋をしている真っ最中だからだ。そう思ったが、今は口には出さなかった。
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