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第35話
その日、僕が目覚めたときフレッドはシンクを磨くのに躍起になっていた。ラジオからは女性向けのコンサルテーション番組が流れていて、チャンネルを替えようとしたら「聴いてる」と一言飛んできた。近付くと、これでも飲んどけとばかりにコーヒーを差し出され、すぐにまたスポンジを握る。...この様子じゃしばらく構ってもらえなそうだ。僕は大人しくテーブルに着いた。
『彼が電話をくれなくて...でも愛情表現はあるんです』
女性の声を右から左へ流しつつなんとなく辺りを見渡すと、ソファに黒い表紙の手帳が乗っていた。いつも彼が持ち歩いているやつだ。大抵右ポケットに入っているはずのそれが忘れられたように置いてあるのが珍しくて手に取った。
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・牛乳、ナツメグ、キャンディ(あいつの)
・編集部tel(14時まで)、原稿8枚
・『ドアの前で立っている時間が一番長い人間』→使うか保留
・洗剤切れそう
・家賃振込
・S宛tel 1930 レコード会社から
「来週の件、折り返し必須」
___
生活と仕事と文学の断片が同じ重さで並んでいる。彼の頭の中が垣間見れるようだ。本人に深い意味は無いだろうが、僕にとっては興味深い。
次のページ。
___
・女/カフェ
「それで?」と言う頻度が多い→急かす
「怒ってないけど納得はしてない」→この言い方便利すぎる
・間と反応で感情を出す(男との書き分け)
・女/TVタレント
髪を触る頻度→不安の指標?
・『触れられる前に分かっている顔』(使える)
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コーヒーを一口飲んで考えた。今はそういうテーマのものを書いてるのか。それにしても...女、女、女だ。
小さなひらめきが起こった。僕はサイン用の油性ペンを取り出す。太い字で思い切り、細かな文字の上から横断させるように。
___『You Are PERVERT _S.H』___
手帳をソファの上に戻し、キッチンの彼をちらりと見る。顔をしかめる表情が目に浮かぶようで笑いが込み上げた。
実際、フレッドは行き詰まっているようだった。タイプライターが15分も沈黙している書斎を覗くと、案の定フレッドは椅子の背にもたれ天井を見上げていた。僕の前では絶対に吸わない煙草を咥えているあたり、原稿の進みが悪いのは明らかだ。
「苦労してるみたいだね」
僕が部屋に入ると彼は煙草を揉み消し、天井へ視線を向けたままあの手帳のページを見せてきた。ゴメンゴメン、とジェスチャーして受け流す。
「女のキャラクターが動かない」
「変態みたいに観察しまくってるのに?」
「...邪魔しに来たのかい」
「違うって」
彼のため息はいつもと違う香りだった。
「1日だけでいいから女になりたい。そうすりゃこんなものすぐ書ける」
「じゃあきみも男に抱かれてみればいい」
言うと、フレッドは脱力して机に突っ伏した。
「あのなぁ」
「セックスって僕もよく曲の題材に使うし、良いインスピレーションだよ。その気なら僕がしてやろうか」
「からかってるな」
「半分ね」
「...」
そろそろ怒られそうだから、僕はこれ以上ここに留まらないことにした。
「まぁ、出来なきゃ僕のことでも使いなよ。好きに書いていいからさ」
ドアを閉める前に振り返り、そう言い残す。ずっと原稿を睨んでいられたらこっちとしても面白くないから。
___彼女は、若い犬のようだとデイブから思われていた。警戒心と懐っこさがその中に共存していたからだ。
彼女が爪を染めるとき、塗り直しは数度に渡って行われる。人に見られるからだと言った。三度やって気に入らなければ四度目をやる。「どう思う」と彼女は聞き、「夕方だ」とデイブは答えた。彼女は納得し、彼に接吻をした___
出来上がった原稿を盗み見て思う。僕だ。
___
・声を出す前に喉を鳴らす。癖じゃなく習慣。喉に何事もなければ話し出す
・ゴスペルの古いレコード「どう思う」(また始まった)
・寝付きは悪い。寝起きはもっと悪い。
・『答えが欲しいのではなく声が聞きたいのだと思われる』(使える)
・「いい」「そのまま」「大丈夫」
・(使わない)強く抱きしめられるのが好き
・(使わない)愛されることには慣れているだろうに、そう思えない
___
手帳を覗き見て思う。僕だ。
灯りは完全に消す方が好きだった。暗い寝室で僕は横たわりながら後ろから抱かれ、背中と内にフレッドの温度を感じている。いつもと同じ優しい手付きとリズムは、姿がはっきり見えなくても、真正面から見つめられていなくとも、安心できるものだ。ただ波に身を任せとろけていく身体を、その強い腕に受け止められている。僕が身じろぎをすると動きが一瞬弱まったが、僕は手を回しその肩に触れて言った。
「...そのまま...」
手帳のあのメモが、この手の場面で僕がよく言う言葉だということに、このときはまだ気付かなかった。
「...ぁ...」
静かに息が乱れてくると、フレッドは奥の感じやすい部分を優しく押しつぶしながら、腰をゆっくりと撫でて耳元にそっとキスをし、僕が好きな感覚を全て与えてくれる。そしてそれが起こるとき、彼は僕を包むようにいだき、より肌と肌を密着させてきてくれた。
「...イく、......」
軽く達する。それはほとんど射精を伴わないものだった。
心地良い疲労に満たされ力を抜く僕の呼吸が整うまで、彼はそのままでいた。体温と匂いの近さ、そして首筋に時折感じるくちびるの少し乾燥した感触が、大事にされているという実感そのものみたいだ。乱れた姿や恥ずかしい様を晒しても彼は受け入れてくれる。今のように、会わない間に変に性に対して成熟してしまったんだと打ち明けるような真似をしたとしても。
「...これも、書く?」
決して綺麗な身体じゃない今の僕をどう受け取っているのか知ってみたかった。彼は、シーツに半分埋まったままの僕の髪を指先で弄びつつ、腕を枕にしながらしばらく考えて、そして穏やかに言った。
「...彼はその晩、1時間半で2度同じことを繰り返した」
言葉が紡がれていく。
「その男のいない間に震え方を覚えたんだろう。男は興味がないでもなかったが、そこに介入する理由も持ち合わせていなかった」
その深い声に耳を澄ませる。
「...人見知りのくせに寂しがりで、稀に誰かを信用しきって無防備に側にいたがること。消えない不安を抱えて生きていて、愛されることに安心を見出しているところ。それは男も知る昔からの彼の性質である。彼は変わっていない、男はそう思っていて、それでいいとも思っていた___」
「いいね、それ」
その手を取り指を繋ぐ。フレッドは少し笑って囁いた。
「書いて欲しいのか?きみも大概"Pervert"だな」
「ふふ。変態かな、僕たち」
「人なんてみんなそうだ。キリストでもない限りね」
息を吐き、今夜もここでちゃんと呼吸ができていることを確認してから、僕は眠りに落ちていった。
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