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第36話
夕飯どきだった。俺は一口水を飲み、向かいに座るソルを見ながら言った。
「ベッド、買わないか。いい加減」
彼は口に運ぼうとしていたブロッコリーをその手前で止めた。
「えー...。今のままで困ってる?」
「付き合いだか何だか知らないけど、夜中に酔っ払って帰ってきてそのまま同じ寝床に入られちゃかなわない。それにこれから夏が来れば、きみが暑いと言いながらひっついてくるのも目に見える」
「...」
「眠るときのほんの数時間離れるってだけさ」
その表情は目に見えて不機嫌そうに曇っていくが、俺が並び立てる理屈に口を挟めないでいる様子なのも明らかだった。32と30の男が毎日同じベッドで眠っている不可思議さ、みたいなものはもうどうでもいいが、せっかく広い場所に住んでいるんだからもう一つ俺用の寝床が増えたって暮らしはそう変わらない気がする。
「...いいよ。任せるから適当に注文しといて。これからは一緒に寝たくない気分の日でもそうできるってことだものね」
お、そうきたか。
「一緒に寝たくない日?そんなときがあったのかい、気付かなくて悪かったな。これは明日にでも家具屋へ行ってこないと」
からかうと、ソルは右頬にブロッコリーのかけらを含みながら固まってしまった。
「安心しろ、"フレンドシップの時間"は減らないから」
「当たり前だ」
業者が引き払い静かになった家で、設置されたばかりの新しいそれを眺めた。何の変哲もないシングルベッドが大きなベッドの真横に、まるで後から書き足された文章のようにぽつんと置かれている。見栄えは良くはなかったが、書斎に置くという提案をここの家主にすごい勢いで反対されてしまった以上、仕方がない。
仕事から帰ったソルがそれを見て目を丸くした。
「ずいぶん小さいのにしたね」
「充分さ。大きすぎても落ち着かないから」
「それにしても...」
「俺は使用人、きみはスター。いいんだよこれで」
横になってみる。...悪くない。少し硬い感触がむしろしっくりくる。第一、これまで俺があんなホテルのような寝床に寝ていたことが不自然だったんだ。これは今夜から快適に過ごせるぞ、そう思ったとき。
ぎしり。スプリングが鳴る。体を無理に押し込めようとしている。膝がぶつかる。肩が重なる。狭い、狭すぎる、どう考えても。
「ここは俺専用だ。何のために買ったと思ってる?」
彼は密着したまま平然と言い放った。
「きみは使用人、僕はスター。楯突くのか?」
ため息が出た。これじゃ結局これまでと一緒だ。距離を作る試みなんて俺たちには無理な話だったのかもしれない。
彼の脈をすぐ隣に感じながら目を閉じた。朝になればきっと彼の体はバキバキで、痛い目を見ることで明日からは大人しく一人で寝るだろう。そのためにも今夜は勘弁してやることにした。疲れでも出たのか怠い体に、彼の低い体温が心地良かった。
朝が来たことに気付かなかった。見上げた時計が10時半を指していて驚く。まさか新しい寝床がそんなに深い眠りに着かせたのか、なんて考えつつ立ち上がろうとしてふらついた。重い。頭がぼんやりしている。...すぐにわかる。
「(最悪だな)」
「...おはよう」
「おはよう。声おかしいね。咳もしてる」
「気を付けてたつもりだった」
ソルは身支度をしていた。俺の方へ振り向かないまま鏡を覗きネクタイを締めている。
「来週レコーディングって言ってあるよね」
もちろん知っていた。彼がその作業にどれだけ力を注いでいるのかも。彼が喉で生きていることも。
「...悪かった。しばらく出てるよ」
「そうだね。そうして」
すぐに返される。既に仕事へのスイッチに切り替わっている彼の言葉は短く無駄が無かった。昨日狭いベッドに無理矢理入り込んで甘えてきた男とは別人だ。
ソルはコロンを振りサングラスをかけて完璧なスターの姿となり、ドアへ向かった。仕事の前に必ずするハグも今日は無かった。
自分の喉に触れる、熱くひりついている。俺は静かに踵を返した。
宿は静かだった。必要最低限のものしか無い安価なビジネスホテルだったが、郊外だからか街の喧騒も遠い。薬を飲んで丸1日寝ていたら熱は下がった。
机に向かい始めて気付く。なんだか調子が良い。ペンが止まることはなく紙が増えていく。理由は知っている、集中できるんだ。誰もいない、余計なものもない。ページをめくってまた書く。驚くほど原稿が進む。頭痛と咳はまだあるが、それでも頭の中は妙に冴えていた。
「(こういうのも、たまにはありか)」
ふと思う。この先、もし、万が一。俺たちが離れることがあったとしても、そのときは案外何も変わらないかもしれない。俺はソルに再会するまでは一人でやってきたし、あいつも当然やっていける。...まぁ考えたくはないが、現実としてあり得る話だ。
ペンを置き、備え付けの電話を眺める。一応場所とナンバーは留守電で連絡してあるが、かかってくることはないだろう。家を出る際の素っ気なさを見るに、自己管理のなってない奴と思われていても当たり前だから。
俺は苦笑し、またペンを握った。
...が。数日後の夜、電話は鳴った。フロントから取り継がれ、久々に聞く彼の声が受話器から流れる。
『フレッド』
「...どうした?」
少しの沈黙。
『歌録り、今終わった。スタジオからかけてる』
「今?」
時計を見る。日付を超えそうな時間だった。また沈黙があり、彼の息遣いが聞こえてくる。そして彼は言った。
『...帰ってきて。今すぐ。病気になりそう』
驚いた。子供の泣き言としか思えない言葉だったからだ。俺は返答するより先に戸惑ってしまった。
「病気にならないようにこうしたんだろ」
『いいから帰ってきて。早く。今』
強くなった口調を聞き、俺は椅子に座り直す。...離れても変わらずやっていける、その考えが遠くなっていった。息を吐き、電話の向こうへ語りかける。
「...原稿が途中なんだ」
『持って帰って書けばいい』
「ここ静かでいいんだ」
『うちだって静かだよ』
嘘をつけ。何かにつけて構いに来て、きみの部屋では常に音楽が鳴っているじゃないか。...でも、それが嫌かと聞かれればそうじゃない。好きだし、愛しているとも言えた。窓に写る俺の口元はいつしか微笑んでいる。
「...わかったよ」
『ほんと?』
「明日帰る」
『今すぐって言ったのに』
「無茶言うな」
『待ってるからね』
有無を言わさず電話が切れた。空間がまた静かになる。原稿を眺め、少しだけ書く。すぐに止まる。
「...帰るか」
独り言が質素な部屋に落ちた。
ドアを開けると同時にソルがやってきた。荷物を置く間もなく抱きつかれそうになり、即座に手で止める。
「待て」
「なんで」
腕が背に回され、顔を寄せられる。その額を押さえて距離を取る。
「やめろ」
「なんで」
腕を引かれる、行き先は寝室。俺はその場で踏みとどまった。
「今やったら絶対に感染るぞ」
「平気」
「レコーディングは終わっても仕事はあるだろ」
「平気」
知ってはいたが、こいつは一度決めたことに対しては頑固だ___だからアーティストとして成功もするんだろうが。しかし今の俺には次第に苛立ちが溜まっていくだけだった。
「...おい」
ソルが振り返ると同時に、俺はその腕を引き寄せ彼を抱きしめた。強く。逃げ場なく。彼は驚いたように立ち尽くしている。
「...終わり。おやすみ」
そう言ってぱっと手を離し、俺は新しいベッドに潜り込んだ。毛布をかぶり、背を向ける。ソルはしばらく黙って見ていたようだったが、やがて諦めたのか灯りを消し隣のベッドに入った。
寝室はしばらく静まった。そして何分かしたとき、暗闇の中、後ろから小さく呼ばれた。
「フレッド」
「なんだ」
少しだけ間を置いて。
「好きだよ」
それだけ。俺は咳をするふりをし、感情を抑えなくてはならなかった。
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