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第37話

ステージは好きだ、居場所だと思う。でもツアーは何度経験しても身が擦り切れるようだった。歌うことは生き甲斐だし、ファンに会えることにも感謝している。しかしそれをやり遂げるために、色んなことへ常に気を張っている必要があった。それが長い期間をかけて周るものだったら尚更。事実、ツアー前とツアー中には不安のための薬に頼りがちだ。 スイートルームのはずがどうにも無機質に思えた。完璧に頭に入っているはずの資料をまた見返す。次のパフォーマンスもきっといつも通りやれる、あとはちゃんと眠ることさえできれば...それだけがあまりにも難しい。ステージを終えた後のホテルの部屋は空虚だ。人々が消え、音が消え、孤独が残る。同時に熱と高揚感は引き摺ってしまい、寝付けなくなるのはグループの頃からだった。 見慣れない白い天井、窓から見下ろす知らない景色。それらから逃げるように目を閉じるものの、そうすることで身体の奥の違和感が更に浮き彫りになる。脳裏に過ぎるのはステージのことか、そうでなければバックステージのことだ。向けられる、刺される、交わる、数々の視線。そして単なる好意や憧れの意味だけでない、他の感情を纏わせて僕を見る人。ずっとこの世界でやってくればそれくらいすぐにわかった。ツアースタッフ、警備、ダンサー...彼らの中にもいる。 部屋の隅の電話に目が行った。いや、何を考えているんだ。馬鹿げてる、やめよう。眠りに着こうと試みる。失敗する。またその考えが浮かぶ。それを何度も繰り返した。 業界ではドラッグの噂が絶えない。それで潰れていく人も見てきた。僕自身はそれに手を出さないけれど、もし"安心"というものを金で買えるのだとしたら、と考えることがある。僕には表立って彼らを非難することはできない、そう思う。 依存じゃない、不法でも不当でもない、ただの気まぐれ。その小さなことで、数時間は睡眠が取れる。 ミスター・ヘイズと僕を呼ぶ男だった。筋肉質な腕の渇望するような触れ方だけが残る。顔はよく見なかったから覚えていない。でももう会うことはないし、どうでもよかった。 ただいま、僕がそう言う前に、フレッドはハグをしてきた。先に抱きしめるなんて珍しい、そう思いつつ、彼の体越しに久しぶりに帰った部屋を見渡す。いつもと同じ温かさがあって、キッチンからは良い香りが漂っていた。...そこまで考えを巡らせても、インクの匂いの彼はまだ離れない。 「フレッド?」 「...今回、長かったな」 「ヨーロッパも行ったからね」 「...ソル不足でどうにかなるところだった」 その言葉。ジョークめいてはいるが口調はどこか真剣で、胸が空くような感覚になった。 「...きみらしくないよ」 僕は笑った。どうにか笑ってみた、と表す方が合っているかもしれない。それから軽く口づけを交わし、目線を合わせられる。 「メシできてる」 「...ありがとう。済ませてきた」 「そうか」 彼はそれだけ言って微笑む。 暗い寝室でベッドに座り、僕たちはキスをしていた。急がずゆっくりとした穏やかなものだ。小さな水音が立ち、吐息が漏れる。フレッドがそっと手に触れてきたが、僕は握り返すことはしなかった。 「...今日は、疲れてる」 小さな声で言う。すると彼はすぐに離れ、少し照れたように笑った。 「...俺ばっか舞い上がってごめん」 「大丈夫。一緒に寝よう」 「ああ、いいよ」 すぐ近くから規則正しい息が聞こえてくる。肌から彼の体温が伝わる。それはほんの僅かに熱を帯びた、さっきの続きがあったはずの温度。 寝返りを打った。フレッドの知らない場所、フレッドの知らない男。それなのに彼は待っていてくれた。優しく、尊重してくれた。僕だけをこんなにも。 「(こんな資格ない)」 喉の奥がつかえた。 その後の生活は何事もなくこれまで通り続いた。会話があり、ジョークがあり、ハグがある。ただ一つ変わったのは、それ以来ベッドを共にする夜が無くなったことだ。僕が誘うことがなくなれば、彼が無理に触れてくることもない。同じ部屋にいる、隣を見ればいる。しかし新しいシングルベッドは毎日活用されていた。 またあの妙な疼きを覚えたのは、あれから数週間ほどしたショーの夜だった。ステージを降りると皆が拍手をし、控え室でも口々に声をかけてくる。 「いやぁ、最高だったよ、ソロモン」 「ありがとう」 「ほんと。あの新曲きっといけるわ」 「この後も来るだろ?スポンサーがとびきり上等な酒を用意してくれたって」 考える。付き合いも仕事のうちだ。しかし今夜はそんなこと二の次だった。 「...適当に断っておいてもらっていいかな」 「本当?主役がいないとつまらないわ」 「ごめん。用があってさ」 「スターは忙しいな。いいよ、話はしておくから。借りだぜ」 「悪いね。次は都合つける」 鏡の向こうにいるマネージャーに車を呼ぶようアイコンタクトし、汗を拭うのもそこそこに僕は立ち上がった。 向き合わなければいけない気がしていた。彼は詮索しない、黙ってさえいればきっとこの先も隠し通せる、何もなかった顔をして愛し合っていける。でも、ステージの度に毎回こんな気持ちを抱えながらフレッドに触れられるのは耐えられない。失望されることよりも、理解してくれる相手に「知らなかった」という顔をさせてしまうことの方が嫌だった。 「...おかえり。早いな」 「ベッドで待ってて」 「え?」 「いいから。すぐ行く」 脱いだジャケットだけ押し付け、僕は振り向きもせずまっすぐシャワーへ向かった。 昂らせるだけならば、手順さえ理解してしまえばすぐにできる。パフォーマンスだって同じだ。そこに重さが乗っているかどうかはまた別問題だけれど。 「...ずいぶん元気だな」 その声は呆れというよりも戸惑いに近かった。僕はそれには答えず彼の上に乗り、口に、喉元に、胸にキスをしながらシャツのボタンを取り払っていく。太ももを撫でて徐々に指を内側へ滑らせる。このあたりではもう演技だったかもしれない、もう言うことは決めていたから。 「...ツアーってさ、たまんないよ。毎回こんなふうなんだ」 息の間に言葉を紡いでいく。わざと余裕を装って。 「欲しがってる奴の視線はすぐわかる。きみと違って絡みつくみたいに見てくるから」 フレッドは黙って聞いたまま、ただ僕に身を預けている。 「...だから、耐えられないときは、こうやって...」 「...」 僕がいる世界、手の先にある誘惑、起こり得ること。前置きだ、けれど全てを話しているのと同等だった。フレッドは賢い、すぐに伝わる。しかしまだ何も言わないのは、ひとまず僕を受け止めることを考えているからだろうか。 「...ふふ...ベッドで他人の話なんか良くないね」 声が震えた。これでは偽の笑顔がばれてしまう。取り繕おうとしても遅かった。 「ソル。こっち見ろ」 「見れない」 項垂れていた。自分で仕組んでおいて情緒が壊れるなんて情けない。けれどこうでもしないと伝えられなかった。恋の歌なんて歌い続けてきたのに、どうすれば観客に届く表現ができるか模索し続けてきたのに。 「ツアー、きついんだろ」 「言い訳だよ」 「安定剤減ってる」 「理由にならない」 観察されている、見透かされている。それがフレッドの愛情表現だからだ。でも今は彼がそうすることで僕の醜い部分が晒されてしまう。 「俺がいるのにまだあんな薬に頼らなきゃいけないのか」 「...弱いんだよ!」 堰を切ったように声が大きくなる。 「知ってるだろ、兄さんがいなくちゃ何もできない奴だった。今だってそうだ。キャリアのためになんでもやった。でも強くはなれなかった」 感情のままに喋った。しかし彼は冷静なままだ。 「...きみは何が欲しい。何を求めてる」 「......」 答えられなかった。フレッドは十分僕を大事にしてくれているからだ。欲しがらず、所有せず、待っていてくれる。それが苦しいだなんて言えるわけがない。これ以上のものを望める立場じゃないし、もしそうして否定されたら立ち直れない。 「わからないんだったらいい。今は寝ろ」 体温が離れていき、隣のベッドに上がる音がした。僕がその日寝付いたのは、サイドテーブルから探って水なしで飲み込んだ睡眠薬が理由だったように思う。

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