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第38話
彼は不安を誰かで埋めた。俺が待っていたにも関わらず、あの日のソルはここへ帰ってこなかった。
俺を使わず勝手に擦り切れた。俺の大事なソルを、彼自身が雑に扱った。
俺が待っている意味を失くすな。一番しんどいときに俺を外すな。俺がいなくなる前提みたいな態度をするな。きみは、俺だけのものであれ。...言いたいことは山ほどあった。いや、昨晩だけじゃない、こんな独占欲はきっと昔から抱いていた。
机に向かい時折タイプライターを叩いているものの、ほとんど仕事は進んでいなかった。頭にあるのはあいつのことだ。インクの匂いとキイの無機質な感触、そんなもので小さくざわめく心を静めようとしているだけだった。
ソロモンはこうして意図的に感情をコントロールすることができない。常に晒されて圧に耐える人生だったからだろうか。あいつの周りの波は大きすぎて、自分を繋いでおく前に流されてしまうんだろうか。
おかしいとは思っていた。欲しいものがあれば欲しいと言う奴だ。曲にして、詩にして、俺を困らせるわがままにして。しかし最近の彼は妙に物分かりが良かった。大人しい代わりに、睡眠が乱れ薬の量が増えていた。...問い詰めることで悪化するのを恐れ、自分の口から話し出すまで待ったのが良くなかった。
意味もなく開いていた辞書を指で辿る。S、SO、SOL...太陽。SOLOMON...王。
あの奥さまも厄介な名前を与えてしまったものだ。もちろん舞台での彼は全てを照らす光であり、全てを支配する者なんだろう。華やかで自信満々で好き勝手生きているように見られているかもしれない。しかし俺の知っている彼はそうじゃない。成功しても愛されても許されても不安になる。まるで安心する方法だけ習わずに大人になったかのように。
スポットライトの真ん中で生きていく苦労は計り知れないが、だからこそ昔も今も俺が側にいるんじゃないのか。一体何をしてやれば満足するのか、俺はそう聞いたが答えは得られなかった。謝罪の言葉を探し、見捨てられるための準備をし、裁かれるのを待っているような姿だった。...昨晩のソルに一番必要なのは眠ることだと思った。
ドアが控えめにノックされる。...振り向かないでおこう、そう決める。向き合うべきなのは知っていたが、そのための表情を今作れる自信が無かった。
「...おはよう」
「おはよう」
挨拶に答える。そして間。数行書く。またドアの向こうから声がする。
「...入っていいかな」
その文言を聞いたのは人生で何度目だろうか。まるで眠れないと言っては訪ねてきた頃のようだ。
「おいで」
ゆっくりと戸の開く気配。金属の掠れる音がするあたり、もう仕事へ行くための格好をしているんだろう。
「...ごめん」
タイプの音に掻き消されそうな声だった。
「責めてない」
ソルはその場から動かず立っている。遠くで車のクラクションが聞こえていた。
「...何書いてるか、聞いていいかな」
それは彼なりの歩み寄り、そう解釈して言葉を返す。
「男が働いて家に帰ってを繰り返す話」
「いつものだ」
「そうだな」
会話だけ見れば普段通りだ。
「...きみ、恋愛書かないよね」
「柄じゃない。面倒だろ、嫉妬とか」
「きみも嫉妬するんだ」
「するさ。人間だからな」
そして続けてみる。
「特に、恋人が仕事先で他の奴と寝てるって知ったら」
言ってみて僅かに後悔した。これからマイクの前に立とうとしている奴の心を掻き乱す返答をわざわざするような趣味は無い。しかし俺が怒っているのも傷付いているのも事実だ、果たしてそれが態度になっているかは知らないが。
「...ごめん...」
「もう聞いた」
House Across the Street という文を、わざと一文字ずつ時間をかけて打ち込んだ。
「...怒鳴ってよ。ぶってもいい。顔と喉以外ならどうされてもいい」
「は、馬鹿か?」
血が逆流するような錯覚を起こす。侮辱されたも同然だった。俺が好きになった奴がこんなにも愚かだとは思ってもみなかった。
「その方が楽だからだろ。きみは昔からそうだな。罰を受ければ終わると思ってる。キャリアとやらはそのやり方で積み上げてきたのか?もしそうなら大馬鹿だな」
「...」
「終わらないよ。終わらせない。俺は傷付いたし、きみは後悔してる。その気持ちそのまま持っとけ。それが罰だから」
ひと息に喋りたて、部屋がまた静まる。
「...わかった」
消え入りそうな声がする。...振り返りたかった。今すぐ抱きしめて何度でもキスしてやりたかった。きみがあのガレージで声が潰れる寸前まで歌っていたことを知っていると言ってやりたかった。それらを押し殺して打つキイは、普段の倍ほども重たかった。
「...仕事、行ってくる」
サングラスを取り出す音、ドアへ向かう足音。煙草に手が伸びかけ、やめる。机の木目から目を上げないまま、代わりに聞く。
「今日、遅くなるのか」
「...うん」
「それまでにきみをハグできるようにしとく。だから安心して帰ってきていい。俺はここにいるから」
「......うん」
そして扉が閉まった。
彼は隠し続けることだって出来たはずなのに、そうしなかった。それは信頼だ。不器用で、情けなくて、どうしようもなくあいつらしい形の。それにどう応えるべきかを考えて辿り着いたのは、自分もまた正直にいることだった。帰る場所として俺を選んで欲しい、俺で安心して欲しい、どこまで成功したとしても遠い人にならないで欲しい。その本音をちゃんと伝えることが、信頼を返す方法だと思った。
コール音。仕事先のホテルへ電話をかけるなんて、以前ならば絶対にしなかっただろう。仕事の邪魔をしたくないし、寂しいなんて認めたくない。俺なりの愛情というものは、家を整えて待ち、踏み込まず、受け止めることだったから。でも今は違った。
『...起きてたの?』
「まぁな。原稿落としそうだから」
『それならかけてこなくてもいいのに』
「声が聞きたかったんだ」
『...ふふふ』
「疲れたか」
『そりゃね』
「薬は」
『飲んでる』
「魅力的なダンサーはいたかい」
『...意地悪』
「きみが遠くにいると、俺も案外まともでいられないんだ」
笑い合う。電話を耳に当てながら、大きな窓から広がる空を見上げる。
「なぁ」
『ん』
「月が見える」
『ここからも見える』
俺の知らない遠い街。それでも今この瞬間、同じものを眺めている。
しばらく呼吸だけが続く。もう言うことがない、でも切りたくもない。時間が過ぎ、やがて言う。
「きみはここに帰ってくる。必ず」
『...うん』
「俺は待ってるだけじゃない。帰ってこなければ迎えに行く」
『...ふふ、何それ』
「本気だよ」
『......』
「おやすみ、俺のソル」
『おやすみ、僕のフレッド』
受話器を起き、ペンを取る。次は恋愛を扱ったものにも手を出してみようと思った。書き出しは...例えばこんなふうに。
___愛情は感情だが、居続けることは選択だ___
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