39 / 48
第39話
締切のデッドラインが近い。昨日から書斎にこもりきりで原稿に向かっている。睡眠もいくらかしか取らないうちに陽も高くなっていた。しかし、終わりはまだ先にあった。
「フレッドー」
ドアが半分開き彼が顔を出す。思わず身構えそうになるのを堪えた。
ソルはあれから、大きなステージや連日での公演の前後にはオフを増やすことにしたという。俺は、その選択は彼のためになると心から思ったし、ゴールドディスクを100枚取らなくちゃ新人タレントのような働き方をやめさせてくれない事務所にいるわけじゃないんだろうとも言った。...が、休みだからといって邪魔をされるのは今日だけは勘弁だ。
「何その顔」
「いや」
ペンを動かしながら顔を伏せる。来るのはいいが今は早めに出てってくれ、そう願いかけたとき、マグカップが置かれた。
「コーヒー淹れたよ」
「...」
立ち上る湯気越しにソルの笑顔が見える。
「灰皿替えるね」
「...ありがとう」
「じゃあ頑張って」
戸が閉まった。...優しい。ありがたい。たったこれだけのことで肩の力が抜けていった。てっきり俺の状況も知らないで構いに来たと思い込んでいた自分を叱り、コーヒーを口に含む。
「(...濃いな)」
まぁ、むしろこのくらいカフェインを摂った方が捗るかもしれない。
机に根が張っている。ソルが再びやってきたのはあれから5枚程の原稿を書きとばした頃だった。
「ランチできたよ!」
時計を見る。知らぬうちに昼を周っていた。...ひとまず休憩だ。そう思い、俺は椅子から立ち上がった。
「何作ったんだ?」
「パスタ」
ソルが料理をしているところなんて一度も見たことがないが、パスタくらいなら失敗のしようもないだろう。キッチンでいそいそと皿を用意する彼を眺め胸が温かくなった。忙しい俺のために恋人が慣れないなりに料理を作ってくれる、いい話じゃないか。テーブルに置かれたそれは見た目も悪くない。一口食べる。
「どう?」
瞬間、ホワイトソースが脳天を突く。遅れて海水並みの辛さの津波がやってきた。...どんな表現だ、と思われるかもしれないが、本当にそうなのだ。
「...あー...ソウルフルだし...前衛的。さすがアーティスト」
「?」
ソルが首を傾げながら自分の分を取り分けて口に運ぶ。そして雷にでも打たれたように硬直し、何も言わずフォークを置いて皿を押しやった。
「もうキッチンには立たない」
「いや、料理を覚えてくれるのは結構だ。次回から生クリームと塩は半分...いや三分の一でいい。それと味見はすること」
こいつは恐らくレストランの味を正解だと思っている。再現できる腕があればいいがそうじゃない、なので結果、調味料の暴力になるんだろう。
皿を下げようとするソルを手で制止する。
「不味くはない、味が濃いだけさ。せっかく作ってくれたんだから食べる。ただ...そのためには水がいる」
ぱっと明るい表情になったソルが鼻歌混じりに水を汲みに行く。そして、どん、とすり切り一杯のジャグがそのまま食卓に置かれた。
午後になると彼は掃除を始めた。
「助かる」
そう言ったことを、俺は1時間後に後悔することになる。
ブオオオ、廊下の向こうから掃除機の音が聞こえ、書斎の前を通り過ぎていった。ブオオオ、ガタン、ゴトン、ガシャン。
「あっ。...まぁいいか」
ドアの向こうから聞こえた独り言にペンが一度止まったが、様子を見に行くのは後にしようと思った。
TELLLL。電話の音で咄嗟に立ち上がる。相手も内容も既にわかっている、担当編集からの催促だ。俺は急いで廊下に出たが...遅かった。
「はい、先生ならおります」
おるな。執事になるな。その言い方をやめろ。
「今呼ぶよ。フレッドーーー!!」
「いるいるいる代われ代われ代われ」
ソウルシンガーの声量で呼ばれ、ひったくるように受話器を奪う。
「...Hello」
『ミスターホール、原稿どう?』
「書いてる」
『明日中にはなんとかなるかい』
「努力する」
『そうしてくれ。...ところで』
編集者が悪戯っぽく笑った声が聞こえた。嫌な予感がする。
『君の秘書ってソロモン・ヘイズ?』
「は?」
『今取り継いでくれた人。やけに声が良かったんだけど』
ジョークめかした相手の声に、俺は眉間を押さえた。
「...同居人だ。よく似てると言われるらしい」
『へー、そりゃいい。歌声もそっくりなんだな』
振り返ると、彼はハミングを歌いながらはたきをかけていた。
「...世の中にはそういう奴もいる」
『フォーン・セックスを勧めたら?女の子はすぐに洪水を起こすだろうよ』
「くだらないこと言ってんなら切りますよ。忙しいんだ」
『ははは。じゃあ頼むよ、先生』
電話が切れた。...どっと疲れた。
書斎へ戻る前に、掃除の具合を見るためリビングを覗いた。なるほど確かに綺麗になっている、なっているが、物が減ったことによりそう見えるのか...?思ったところで違和感に気付く。カウンターの上に置いていたはずの書類が消え、棚の中の本の並びが変わっている。
「...ここにあったファイルはどうした?資料が入ってたんだ」
「どうしたっけ」
「本はジャンル別に分けてアルファベット順にしてあっただろ」
「色を揃えたんだ。美しくなった」
「...」
「この紙捨てていい?」
「...何の紙だ」
「わからない」
「捨てるな」
俺たちはゴミ袋を開け、捨てるべきものとそうでないものの選別を始めなければならなかった。
原稿が完成したのは朝方だった。俺はボロボロだったが、出来上がった原稿は光り輝くように見えた。寝室に辿り着いてシングルベッドに倒れ込むと、ソルが隣のベッドから起き上がり俺に毛布をかけた。
「お疲れ様」
柔らかな声で囁かれるだけですぐに眠気がやって来る。俺は目を閉じたまま、残った意識で口を動かした。
「...家事はやらなくてもいい。きみが休むための休暇なんだから」
ソルは静かに答える。
「僕はきみにも休んで欲しい。いつも与えてもらってるから何か返したい」
「...そんなの考えるなよ。俺はソルのために世話を焼いていたいんだ」
くすりと笑う声がして、額に柔らかくくちびるが落とされる感触がした。
「...フォーン・セックスに興味あるかい」
「先生、寝ぼけてるよ。おやすみ」
それを最後に、俺は泥のような眠りに引き込まれていった。
ともだちにシェアしよう!

