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第40話

グラスの水滴がテーブルに輪を作っていた。酒と煙草の匂い、それから男たちの笑い声が、バーの天井にだらしなく溜まっている。俺は椅子の背に片腕を預けたまま、三杯目だか四杯目だかのバーボンを揺らしていた。編集部で打ち合わせをした帰り、流れで作家仲間に捕まったのだ。 「どうだい、最近の景気は」 「なんとも言えない」 「同じく。金が上がった訳でもないし、相変わらずデッドラインに追われてるだけさ」 原稿料の話、締切の愚痴。物書きが何人か集えば話題はいつも決まったようなものだ。 向かいに座る男が煙を吐きつつ俺の方を見た。 「でも、あんたは良い暮らししてるらしいじゃないか、フレッド。気取った奴らなんかが住んでるエリアでマンション暮らししてるってのは本当かい?」 それを聞き別の奴が身を乗り出した。酔いの回った目が面白がるように細くなる。 「やっぱ女に食わせて貰ってるんだろ、やるねぇ。金持ちの未亡人でも捕まえたのか」 事実、俺たちのような駆け出しは連載や本の印税一本で食っていけるわけがなく、小さなコラムなど細々した仕事を掛け持ちしたり、はたまたアルバイトを続けている奴だって多い。...俺の場合の"副業"はあいつの使い走り、そういうことになる。 鼻で笑って答える。 「それ、まだ言うのか。さすがSF専門、想像力豊かだな」 そう言いつつも、実際あいつが"女"でないというだけで彼の推測は大間違いとまでもいかないのだが。 「違うのかよ。だって田舎から出てきてすぐニューヨークの高層に住める理由なんか他にないだろう」 作家というやつは観察眼が鋭い上にふと漏らした細かいことまで覚えているからタチが悪い。俺は残った僅かな酒を飲み干してから言った。 「夢を壊すようで悪いが、相手は男だ。金回りの良い古い友達がいるから、そいつの雑務やりながら居候させてもらってるだけさ。言わば部屋付きのハウスマンのバイトだな」 半分は本当で、もう半分は真っ赤な嘘だ。友達という関係性に押し込めていた時代はとっくに終わっている。あいつが今の発言を聞いたら怒るだろうか、冷えたグラスの向こうに黒髪がソファで寝落ちしている姿が浮かぶ。嘘というのはたとえ方便でも少しばかり罪悪感を覚えるものだ。 「ほう、ずいぶん良い仕事にありついたな。どこで知り合った?」 「十代の頃に仕事先で仲良くなった縁でね。...これ以上の取材はお断りだ。同業者にネタを提供する気は無いよ」 どうせ説明したところで面白半分に膨らませられるだけだ。作家なんて連中は、自分の書く嘘には潔癖なくせをして、他人の私生活にはやたらとイマジネーションを発揮する。 話題は自然と仕事へ戻っていった。売れた売れない、何部刷られた、担当編集が鬼だ、締切は人を殺す、批評家は何もわかってない___そんな、何度も繰り返されてきた決まりの文句。俺も相槌を打ち、たまに毒を吐き、笑うべきところでは笑った。 夜が深まるにつれ、やがて書評が始まる。 「あの本、キャラクターの動かし方はいいが、いかんせん言葉が少なすぎるよ」 「ああ。説明しすぎるのを避けてるのはわかるがね」 「澄ましてるんだろ。文学は芸術だとかなんとか言ってる奴の書き方だ、ありゃ」 評論と言っても酔っ払いの与太話に過ぎないのだが、この手の奴らが一番盛り上がる話題というのはいつもこれだ。 「きみの新作は面白かった。説明もくどくなくて自然だし、ああいうバランスが理想だな」 何気なく隣に座る若い眼鏡の男を褒めると、彼は気を良くしたのか話を返してきた。 「あの短編も良かったぜ、若い犬に似た...っていう女の話。いつものあんた以上に生々しくてさ。誰かモデルでもいるのかい」 ...こう来られると困ってしまう。あれは人物の描写に詰まった結果ほぼそのままあいつを写し書いただけのものだ。だが、酒の回った頭ではもう誤魔化すのも面倒になってきた。 「...強いて言うならソロモン・ヘイズとか」 「...はぁ?」 場が小さくどよめく。シラフの俺であればこんなことを口走るはずがなかった。 「Oh, C'mon!男だったのかよ、解散解散。しかし派手どころだな」 「でもわかるぜ。あの歌手アンドロジナス的だし、私生活も読めないしな。想像の余白はある」 「もしや例の同居人ってのはソロモン・ヘイズ?」 「まさか!ははは」 同じようなインクの匂いのする男たちが、どっと湧いた。 飲みすぎた。間違いなく。 だからああして喋りすぎたのだろうし、今こうして着替えもせずに薄暗いリビングで椅子に沈んだまま動けずにいるのだろう。窓の外には摩天楼、まったく身の丈に合わない暮らしだ。なぜこんなことになったのか、それを他人に説明するためにはそれこそ長編が1つ書ける。 「(何が、友達のところに居候、なんだか)」 乾いた笑いが漏れ、テーブルに置いたコップの水を煽った。 投げ出されていた雑誌が目に留まる。またこんなところに散らかして、と手に取り、なんとなくページをめくった。 音楽専門誌の特集、シャツを着崩し不敵な笑みを浮かべるソルの写真、リリースされたばかりの新作のレビュー。...紙面の作り自体は悪くない、褒めている箇所だってちゃんとある。概ね高評価のボーカル、緻密なサウンドデザイン、成熟しつつあるセルフプロデュース能力。そういう文言は確かに目に入っている。だが酔っ払いの視線というものは、妙に意地悪な一文だけを器用に拾い上げるらしかった。 ___前半にキラーチューンが偏り、アルバム全体の配分としてバランスが悪い___ 眉間に皺を寄せる。バランスが悪いってなんだ。曲数削ってミニマムにしてるんだから、後半だってダレてないはずだろ。本人がそう言ってた。次。 ___6曲目は従来のソロモンらしさから外れ、突飛で未完成な印象を受ける___ 違う、意欲的な実験作と言え。次。 「方向性が見えない?ちゃんと流れあるだろ、耳付いてんのか」 俺は音楽理論なんてものはわからない。 しかし普段ソルが独り言のように喋っている制作話や、レーベル周りの人間とのやり取りを聞き齧っているうち、使い勝手の良さそうな単語だけは残っていた。鈍った頭にソルが熱っぽく語る声が蘇る。「決着が付かないまま終わるのも美しい。そういう曖昧な輪郭の音にしたいんだ」___とかなんとか。それを思い出すほど誌面の文章が腹立たしく見えてくる。 「だいたい、"従来のソロモンらしくない"って意味がわからない。勝手に枠に入れておいて、そこからずれたら減点か。批評家ってのは楽な商売だな」 ページを指先で叩き、ぱし、と紙の音がした。 「ソルはこういう評価も見てるんだぞ、マークにそう教わってきたんだから。で、読んだ上で"別に平気"みたいな顔して、仕事部屋に遅くまで籠って次作を作ってる。知ってるんだよ、俺は。ソルの不眠も不安定も、お前らのせいでもあるかもしれないんだからな。わかってんのか、おい」 もうほとんどマガジンに向かって喧嘩を売っていたところで、背後に立つ気配に気付いた。口が止まる。そっと振り返る。ドアにもたれかかりソルが腕を組んで立っている。少し困ったように笑いながら。 「...おかえり」 「ただいま。熱心だったね、いつから批評家相手取るコアな音楽ファンになったの」 ページを閉じようとして手元が狂い、紙が床に落ちる音がした。俺のその一連の動作がいかにも酔っ払いじみている。彼がサングラスを外しながらゆっくりと雑誌を拾い上げる様も、脚を組んで椅子に座り問題のページをぱらぱらめくる姿も、妙に絵になっていて余計に癪だった。 「『6曲目は未完成な試み』ね」 「勝手なこと言うな。あのコード進行、きみは3日寝ないで作ってた。ストリングス抜いたのも散々悩んで」 「『統一感より挑戦を優先した印象』か」 「だからいいんだろ。毎回同じもの作ったら、それこそ評論家はマンネリって書く」 「...ふふふ」 ソルが肩を揺らし笑い出した。せっかく人が真剣に庇ってやってるのに。 「...なんだよ」 「ごめん。だって僕が言ってたことそのままなんだもの。"後半に派手な曲が少ないのは、夜が深くなるような流れを作りたかったから"っていうのも僕の受け売りだよね」 「...覚えてない」 「嘘。さっきほとんどそのまま喋ってた」 俺は黙ってしまった。ソルは特に気にする様子もなくレビューを見返す。 「貶されるのも仕事のうちだからね。意見があるほど注目されてる証拠さ。もちろん的外れなこと言われるときもあるけど...」 そしてこちらを見据えて目を細めた。 「でも、フレッドがそんなふうに怒ってくれるとどうでもよくなる」 「怒ってない」 「怒ってるよ。普段あんな大きい声出さないもの」 「きみが時間をかけて作ったものを、数行でわかったように切り捨てられるのが気に入らないだけだ」 ソルは微笑み、雑誌を閉じてリングを抜き取った。 キッチンへ行き、仕事帰りの彼のためにコーヒーを淹れつつ、水をもう一杯飲み干した。 「もう寝なよ。相当飲んだだろ」 カウンター越しに言われるが、俺の中の何かはまだ収まりが着かない。 「...雑誌社。住所どこだ」 「え?」 「『読者の一意見として申し上げたい。貴誌掲載のレビューについて若干の異論があります』___」 「投書!?」 「匿名にする」 「あははは...」 ソルは腹を抱え、ひととおり笑い終えてから、キッチンに入ってきて俺の背中にくっついた。コロンがふわりと香る。 「...酔ってるときのフレッド、好きだな。いつもなら絶対ここまで言わないもの」 「いつも思ってる」 「知ってるよ」 手から空になったコップを取り上げられシンクに置かれる。 「でも、今夜はおやすみ。コーヒーフィルター3枚重ねで使ってるよ、ドランカー」 「キスさせてくれればベッドに入る」 「やだよ。酒臭い」 聞こえていないふりをして抱き寄せ、頬に口付けた。...言葉が少なすぎる、説明を避ける。それは澄ましてるのと同義らしいから。

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