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第42話
「ベニーが急ぎの用件って」
そうマネージャーから電話を取り継がれたのは、午前の取材を終えた直後だった。...なんだろう、そう思う。彼はもう僕のマネジメントの担当ではないし、大事な用と言っても心当たりは無い。控え室で着替えを済ませたばかりの僕は、ボトルのミネラルウォーターを口に含みつつ電話を受け取った。
「やぁ、ベニー。一体どうし...」
『ソル。ジェイ・バトラーに会いに行け』
僕の第一声すら待たず遮ってきたその声に驚く。陽気な彼らしくない重々しい口調、そして長い間聞かずにいた名前。胸がざわつく。
「...ジェイに?」
『永くない。会うなら今だ』
たったそれだけの言葉。なのに、部屋の空気が一気に薄まったようだった。
その後は、午後の打ち合わせをキャンセルしたことだけを覚えている。
飛び乗った飛行機の中では眠れずにいた。目を閉じると浮かぶのはあの頃のことばかりだ。低い声で「このコードは甘い」と言われた出会いの日、納得いくまで録り直しをさせられたスタジオ、仕事を終えたあと一緒に倒れ込んだホテルのベッド。どれも古いはずなのにひどく鮮明だ。
それでも、空港に着いて車を拾い、住所を告げ住宅街へ向かう頃には、むしろ頭が冷えていた。何を話すべきかなんて考えないようにした。考えたところで答えなんて出ない。
夕方の陽が街路樹の影を長く伸ばしている。古びているが手入れの行き届いた家は、濃い茶色の煉瓦の外壁と、年季の入った鈍い艶のある真鍮が印象的だった。初めてここに来たとき、彼にもこういう温かみのある場所があるんだ、と妙な感想を覚えた記憶がある。無機質なスタジオに棲んでいるような人間かと思っていたんだろう。
玄関のベルを鳴らすと、少し間を置いて50代ほどの白人女性が出てきた。...あぁ、この人が、と思う。化粧気の薄い顔立ちにどこか冷たい印象があるのは、疲れを気丈さで隠しているからなんだろうか。
「...ミスター・ヘイズね」
「先生にお世話になりました。ご挨拶を」
「聞いています。入って」
中へ促すその薬指にリングを認める。「もう冷え切っている」と彼は自嘲していたが、今こうして側にいるということは形までは失っていなかったんだろう。彼女がどこまで"聞いてる"かは知らない、しかし目の前にいる女性は、僕を追い返しもせず、そして歓迎の目で迎えることもなかった。
「今日は調子が良いんです。でももうすぐ日が落ちて冷えますから、長く話すのは無理かもしれません」
夫人は先立って寝室へと案内してくれるが、その場所が奥から二番目の部屋だということを既に僕は知ってしまっていた。壁に掛かった風景画を横目に、磨かれた木床の廊下を進む。ブラックミュージックのレコードが宝の山のように並べられ何時間も入り浸ったオーディオルーム、忘れられた女性もののシャンプーが家庭がある事実を思い起こさせ小さく落ち込んだ浴室、そんなものを通り過ぎながら。
どんな表情を作り会えばいいかわからないから、ポケットからサングラスを取り出そうとさえして、やめる。そしてドアが開かれた。
「どうぞ」
窓から午後の名残のような薄い光が差し込んでいる。酸素のチューブを隣に、背を少し起こしたベッドに、ジェイはいた。
誰だかわからないほど痩せて見えた。首筋は細く、手の甲に骨が浮き出ている。最後に会ったときからせいぜい5年程だろうに、まるで彼だけ時間を早回しにされたかのような姿だった。それでもブルーグレーの瞳は変わらない。こちらに向けられた視線の鋭さに、一瞬だけ昔のスタジオが蘇る。
「坊やがわざわざ何しに来た」
しわがれた声でそう言って、彼は口の端を微かに上げた。
「見舞いに来たんだけど」
「誰が病人だ」
「言わせないでよ」
軽口。胸の奥がひどく痛むのに、なぜか僕も笑ってしまった。
夫人が戸を閉め2人きりになる。ベッド脇の椅子に腰掛けると、ひゅうひゅうと浅い息が小さく聞こえた。ジェイは横たわったままじっと僕を見ている。
「仕事はどうだ」
「忙しいよ。少しショーの本数減らした」
「喉は」
「大丈夫」
まるで近況報告だった。作業の合間にしていたようなやりとりと何も変わらない。変わらないはずなのに、言葉の間に落ちる沈黙だけがやけに重かった。彼はいつも僕のことを気遣ってくれていた、歌入れに影響すると困るのだというような顔をして。今は僕がそうすべきときなのは分かっているが、良くない答えを聞くのが怖くて、あえて別の話題を探す。
「聴くことは、してるの」
「ラジオくらいのものだがな。きみの新譜は聴いた」
「どうだった」
「リズムの置き方は前より賢くなった」
特別なことは何もない。思い出に浸るでもなく、縋るでもない。ただ会話だけがそこにあり、その何でもなさが苦しかった。
「相変わらず厳しいな」
「甘やかせば歌手は怠ける」
「もう僕はあなたの弟子じゃないよ」
「そうだったか?」
少し笑う。その途中でジェイが咳き込んだ。肺の奥を削るような乾いた咳。慌てて身を乗り出し、しかし触れていいものかどうかわからず、手が宙で止まる。
「奥さんを呼ぶ」
ドアに向かいかけた僕を、ジェイは片手を上げて制した。細くなった喉が苦しげに上下する。僕はただ見ているしかなかった。
やがて咳が収まる。彼は枕に体重を預け、疲れたように目を閉じた。
「...みっともないな」
「医者はなんて」
「色々さ。だが、結論は一つだろう」
天気の話でもするかのようにさらりとした口ぶりに、僕は何も返せなかった。返せばその結論を認めることになる気がしたからだ。
「煙草、持ってるか」
突拍子もないその問いに驚く。
「馬鹿じゃないの」
「一度目に肺をやったときから10年吸ってない、あいつが煩くてな。だがもういいだろう」
「...僕は吸わないし持ってない。知ってるはずだ」
「まだそんなに喉に気を使ってるのか」
「そうだよ」
ジェイが力なく笑うたびに目尻の皺が深く刻まれる。水を飲むためグラスを持ち上げる指が微かに震える。ベッドの上に置かれた腕はあまりにも細く、動かすたび息が少し上ずる。目の前の男がもう永くないことを嫌でも理解してしまう。
神さま、なんて残酷なんだろう。音楽に対してあれほど傲慢で、誰よりも確かに生きていた人が、こんなふうに終わっていくなんて。
ノックの音がし、ドアが少し開いた。
「あなた、薬の時間」
壁の時計を見る。来てから一時間も経っていないのに、ジェイの疲労ははっきり見て取れた。僕は立ち上がった。
「帰るよ」
「そうしろ」
「命令?」
「忠告だ。私はもうきみに徹夜で働くことを強いる立場じゃない」
「残念だな」
「まったくだ」
冷たいようでいて奥には確かな熱がある、その言い方があまりに昔のままだった。しかし今の彼は弱っていて、僕たちは何年も前に終わった関係で、ここはスタジオでもホテルでもない。静かな郊外の一室、部屋の入り口には彼の妻がいる。
それでも、僕はかがみ込んだ。
「ソル」
その日初めて呼ばれた名前に答えず、枯れ枝のような腕をそっと取り、手の甲にキスをした。薬品か消毒液の、病の匂い。それでも僕のくちびるには脈が触れた。
「...今更だな。だが、きみらしい」
「うん」
本当は、ありがとうと言いたかった。愛していたと、あなたがいたから今の僕があるんだと、全部言葉にして置いていきたかった。でも僕たちの間でそんな綺麗な台詞を交わすのは、きっとかえって嘘になる。静かに僕を見ているジェイの目は、ミックスが上手く決まったときのように昔と同じで、でも少しだけ穏やかで、少しだけ遠い。
「また」、口をついて出かけたその言葉を飲み込む。また、なんてない。そんなことは知っていた。
「じゃあ」
それだけ言う。夫人に会釈し部屋を出る直前、一度だけ振り返る。ジェイはもう目を閉じていた。眠ったのか、ただ疲れたのかは分からない。
外に出た瞬間、冷たい空気が頬を打った。オーバーを羽織り、夕刻の色が消え仄暗くなった歩道に踏み出す。
会えてよかった、そう思うべきなんだろう。でも胸の中にあるのは安堵ではなく、何かが決定的に終わってしまったという重い感覚だけだった。...父さんがいなくなったときのことが蘇る。母さんは泣き通しで、マーカスは涙を堪えるためか怒ったような顔をしていて、カルヴィンは皆を笑わせようとしきりにふざけていた。幼かった僕は、父さんは明日こそお土産のレコードを買って帰ってくるかと、そればかりを聞いていた。父さんは遠い場所に行ったと聞かされていた僕は父親がもういないという事実を認識できずにいたが、今ははっきりとわかる。ジェイはもはや、僕の中で父親と同等だった。
待たせていた車の後部座席に乗り込む。エンジン音が低く響き、バックミラーに映る家は、小さく見えなくなっていった。
玄関の鍵を回す音がやけに大きく聞こえた。リビングの灯りは点いているがフレッドの姿はなく、タイプ音もしない。もう遅い、きっと寝ているんだろう。工場勤めの癖が抜けず規則正しいままの彼に、どこか救われたと思った。今フレッドとハグを交わしたら、上手く立っていられる自信が無かったから。
上着を脱いで椅子の背に掛けるつもりが、袖が滑って床に落ちた。拾い上げる気力もなくそのままにして廊下を行く。シャワーでもなくベッドでもなく、仕事部屋に足が向いた。
棚に乱雑に置かれたコンパクトディスクの群れへ手を伸ばす。迷うまでもなく指先がそれを選んでいた。漆黒の背景、深い紫色の文字。あの数年間の全部が閉じ込められている一枚。『Doctrine』。
コンポに入れて再生ボタンを押す。少しの間の後、何百回と聴いたあの音が立ち上がった。夜の匂いのするベース、腹の底を揺るがすドラム、そして今より少し尖った自分の歌声。重く熱く研ぎ澄まされたそれらは、ジェイと一緒にようやく辿り着いたサウンド。
ボリュームを上げる。まだ足りない。もう一段回す。部屋いっぱいに満たされる音楽を、僕はただ座って聴いていた。
短い声が曲の隙間からいくらでも蘇ってくる。ここはもっと削れる、そこはまだ押せる、今のは違う、もう一度。逃げるな、甘えるな。...これだよ、よくやった、完璧だ。
「...ッ......」
喉の奥が詰まる、息がうまく吸えない、目の奥が熱い。駄目だ。まだそうと決まったわけじゃない、彼は笑っていて冗談さえ言っていたじゃないか。まだ何も起きていないうちから取り乱すな。ただ、少し先の終わりが見えただけだ。
『♪A touch, a kiss, a whisper of love___』
自分の若い声が低く囁く、何も知らないみたいに。今日僕は触れた、キスをした、そして感じた。くちびるに触れた低い体温と、浅い呼吸を。
『♪I was at the point of no return___』
...あぁ。ジェイは死ぬ。
額を押し付けたテーブルが濡れていく。嗚咽の間に涙が次々に落ちて、袖口が濃い色になっていく。
「う......ひぐ、ぅ、う...」
一度決壊してしまったらもう止まらなかった。流れてくる音の一つ一つが大切すぎて、そして大きすぎる。削ぎ落としきったサウンドの中では些細なパーカッションですら胸に響いた。抜け出したパーティ、指のリングの痕、息を潜めてキスをしたエレベーター。...尊敬する師、それだけで終われたらどんなに楽だっただろう。
「...やだ......」
あまりにも子供じみた声が溢れた。何が嫌なのかは分かっている。愛した人と会えなくなるのが嫌なんだ。教え、正し、導いてくれた人と、もう二度と。
「あ、あ、ぁ......」
大音量の『Doctrine』が暗い部屋を震わせている。ジェイと作った、僕の一番大事なアルバム。こんなふうに泣きながら聴く日が来るなんて、あの頃は思いもしなかった。
オートリバースが何度繰り返されたのか分からない。ふと、ドアが静かに開いた気配を丸めた背中に感じた。足音がゆっくり近付き、テーブルの端に何かが置かれる。そして数秒立ち止まり、またドアが閉まった。部屋には再び音楽だけが残される。
彼は何も聞かずにいた。大丈夫かとも、何があったのかとも。以前僕が裏切りとすら言えることをしたのは覚えているはずなのに、今の僕にそれを重ねることはしなかった。...なんて人だろう。彼はずっとずっと、そうやって僕を守ってくれる。ありがたかった、あまりにも。僕が今泣いているのは、フレッドとはまるで関係のない別の男が理由だというのに。
顔を横にすると、視界の端に食器を乗せたトレイが見えた。スープと焼かないパンと水、これくらいなら口に入れられそうな気がした。彼の優しさにまた涙が落ちる。
眠らないはずの都会の夜も、R&Bのバックでは痛いほど静かだった。
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