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第43話

シャワーを浴びる音がし始めたのを確認し、俺は彼の仕事部屋に入った。余計な詮索をするつもりはない、ただ昨夜の食器を片付けるためだ。テーブルに置かれたトレイの上には、半分減ったスープと少しだけちぎられたパン、コップの水だけが空になり錠剤の空シートがあった。 トレイを運びながら思い返す。眠っていたところを音楽で起こされたのは深夜2時頃だったか。最初は仕事をしているのかとも思ったが、自分の過去作を何度もループしていたら作業とは思い難い。大音量のダンスミュージック、防音とはいえ階下へ響くことを気兼ねし扉に近付くと、若いソルの歌の隙間から嗚咽が聞こえた。声を殺すでもなく、まるで幼い子供のように。俺は軽い食事を用意し、机の端に置いてからコンポのボリュームを下げ、そして寝室へ戻った。結局何も聞かなかった。 あれで良かったかはわからない。仮にまた不貞でもしたのであれば___再びそんなことをさせるつもりも無いが___今度はちゃんと聞こうと思っている。しかし昨夜は音楽があった。彼の世界だ。そこに俺が容易く踏み込む資格は無い。それに、あいつに何かあったというよりも、ただ音楽を聴いて泣いているだけ、なんだかそんなふうにも見えた。 洗い物とシンク周りの掃除を終え書斎へ向かう頃、廊下でソルと鉢合った。髪には櫛が通り指にはリングが嵌められ、サングラスも既にかけていた。あの泣き方であればその目はきっと腫れているだろうが、黒いレンズ越しではそれを直接見ることはできなかった。 「おはよう」 「おはよう。仕事行ってくる」 「今日は何だ」 「ミーティング。昨日無しにしたから」 いつも通りの調子。昨夜のことなんて無かったかのようだった。問い詰めはしないが勝手にもさせない、それを少しだけ含ませて言う。 「合間で何か食え、スープ半分じゃ持たない。それと夜はちゃんとベッドで寝ること。いいな」 「うん」 返事を聞いて頷いた。...車が来る時間だ。普段ならここでソルは俺の前まで歩いてきて、当たり前のように抱きつく。それを見越し腕を開きかけ...止めた。彼は横を通りすぎ玄関へ向かった。扉に手をかけたところで立ち止まり、サングラス越しにこちらを見る。一瞬、言葉を探す間があった。 「フレッド。...しばらく、きみとハグできないかもしれない」 俺は表情までは変えず、ただ目を僅かに凝らした。彼は続ける。 「でも、すぐに直す。だから待っていて」 静かだった、しかし、ちゃんと意思のある声だった。理由は言わない、俺も聞かない。でもきっと大丈夫だ、そう思った。 「ああ。待つよ」 ソルは安心したように肩の力を抜き、そして出掛けていった。 遠ざかる足音が消えるまで玄関に立っていた。...待っていてくれと言われた。だから待つ。それだけだ。抱擁なんて今日できなくても構わない。一週間でも一ヶ月でも、彼が元通りになるまで隣にいてやることくらい大したことじゃない。 一つだけ願う。主よ、次にあいつが腕の中へ帰ってくるときには、昨日よりも軽い心であるように。 日々は続く。触れ合うことなく。心配はしていない、毎日ちゃんと帰ってくるから。だが、彼の温度の無い冬はやけに冷え込んだ。 あれからひと月ほど経った頃だった。俺は原稿のためのメモを整理しながら、夜のニュース・ショーを眺めていた。 『先日死去した音楽プロデューサー、James Y. Butlerの葬儀が本日執り行われた。氏は数々のヒット曲を手掛けたことで知られ___』 2、3日前の新聞記事を思い出す。締切が近く詳しくは読んでいなかったが、大物音楽家が死んだという報道の覚えはあった。TVから薄く流れる楽曲は、なるほど確かに俺ですら馴染みのあるものばかりだ。すごい人だったんだな、そんな凡庸な感想を抱く。 『会場には交流のあったトップスターが参列。こちらには往年のブラックミュージックシーンを代表する___』 映像が教会へ切り替わった。黒塗りの車から喪服姿の芸能人たちが次々に降りてくる様を、レポーターやら報道陣やらが興奮気味に捲し立てる。その喧騒が一際大きくなったのは、黒い人波の中に2人の男の影が現れたときだった。 『来たぞ!早くカメラ回せ!』 『ミスター・ヘイズ、何か一言!』 一斉に炊かれるフラッシュの光の中に、よく知った顔がある。チェスターコートを纏い無表情のままのソロモンと、ダークスーツの装いで弟より少し前に出るような位置を歩くマーカス___あの頃より増して威厳のある顔立ちになったようだ___だった。 『元The Boogie Hayesの二人が公の場で並ぶのは解散以来実に10年ぶりで、会場は大きな騒ぎとなりました』 『ソロモン!ジェイ・バトラー氏についてコメントを』 『マーカス、あなたもプロデューサーとして彼の影響を受けたと聞きましたが?』 前屈みになり、リモコンで音量を上げる。2人は足を止めカメラに向き直った。口を開いたのはソルだった。 『...ゆっくり眠って欲しい。それだけです』 驚くほど静かな表情だった。しかしそれとは裏腹に記者たちは加熱していく。 『ジェイ・バトラーはあなたのソロキャリアの立役者でした。今の気持ちは?』 『悲しみに包まれている。恩人だったから』 『具体的にはどういった意味で?何か特別な想いは?』 『音楽面での話です』 『最後に会ったのはいつですか?三部作のリリースの後にも交流は続いていた?』 『...』 質問は石つぶてのようだった。ソルが間を開けたのに気付いたのか、画面の端のマークが眉を寄せている。しかし周囲は引かない。 『ソロモン、長年囁かれていた噂について聞かせて欲しい。あなたとバトラー氏は単なる仕事仲間以上の間柄だという報道があった。愛人関係だったというのは事実か?夫人の存在は知っていた?』 俺は思わず息を止める。マークが割って入るためか腕を伸ばしかけたとき、ソルは答えた。 『今日僕がここに来たのはゴシップを確認するためじゃない。故人を見送るためです。彼を尊敬していた、愛情もあった。それは師としてだ。今ここで話すことはこれで全てです』 彼は顔色ひとつ変えず言い切り、そして背を向け歩き出した。 『では否定まではしないと?』 『マーカスがバトラー氏へソロモンを当てがったというのは本当ですか?』 『BH再結成の可能性について教えてくれ』 人々が騒めき、引き止めるように声が飛ぶ。それを制したのは長兄の重い声だった。 『質問の線引きくらいしてくれ。以上だ』 TVを消すと、エアコンの駆動音だけがリビングに残った。ようやく点と点が線で繋がる。あの日の彼がかけていた曲、一人で泣いていた姿、待っていてという言葉。 入り込めない年月があるのは承知の上だった。それでも痛みはある。けれどそれ以上に強かったのは、静かな理解だ。恩人、そう呼べる人に彼が出会えていたことへの。 「ただいま」 「おかえり」 「これ、クリーニングに出しといて」 「わかった」 「今日マーカスに会ったんだ」 「へぇ。元気だったか」 「うん。フレッドと暮らしてるって言った」 「...そうか」 「良かったな、って」 「......そうか」 渡された喪服をハンガーに掛ける俺を見て、ソルは久しぶりに微笑んだ。 「疲れた。早めに寝るよ。おやすみ」

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