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第45話

電話が鳴ったのは、世間ではランチどき、僕はようやくベッドから起き上がる頃、そんな時間だった。廊下からフレッドが電話を取る気配がするのをあくびをしながらぼんやり感じる。近頃昼夜逆転し続けていたから尚も昼の光が眩しい、そんなことを思いつつ。 「...あぁ、久しぶり」 知っている相手らしい。けれどフレッドの古い知人でこの家のナンバーを知る人間なんて多くはないはずだ。 「...色々あってさ。今は物を書いてる」 少しだけ緊張したような、それでも柔らかい声色だった。 「...ありがとう。ソロモンに代わる。もう起きてるだろうから」 開いていた寝室のドアからフレッドが入ってきた。既に朝早くから動いている顔だ、相変わらず。 「おはよう」 「おはよう。マーカスから電話」 珍しい。フレッドの電話口の態度にも納得が行った。家で何かあっただろうか、でもフレッドと軽く話をしていたということは問題が起きたわけでもないのだろうが。廊下に行き電話を取る。 「マーク?」 『起こしたか』 「平気。どうかしたの」 寝起きの髪を軽く結えながら、耳と肩に挟んだ受話器から低い声を聞く。 『仕事の話だ』 「兄さんの話はいつも急だね。効率重視もほどほどにしないと若い歌手から嫌われるよ。で、仕事って何」 彼は短く息を吐き、続けた。 『簡潔に言う。企画の依頼が来てる。といっても慈善事業みたいなもんで報酬は無いが。あの教会、覚えてるだろう。子供の頃歌ってた』 「もちろん」 覚えてるも何も、忘れるはずがない。固い木製の長椅子、埃っぽい聖書。夏には古い扇風機が唸り、冬には隙間風が足元を冷やした。父さんの手に背中を押され、兄さんたちの間で初めて人前に立った場所。まだヘイズ家の末っ子として歌っていた頃のことだ。 『老朽化が進んでる。ゴスペルの保存プロジェクトも資金繰りが悪くて停滞してるらしい』 子供の頃でも既に古びた建物だったのだから当たり前かもしれない。保存会といえばあそこが熱心にやっていたやつで、古い譜面や録音を保全し資料の修復をしたり、子供たちに音楽を教えたりする試みだ。僕たちの音楽のルーツや核はそこに由来すると言っても過言ではないが、もうあまりやっていないと聞くと寂しく思う。 「...そんなに大変なんだ」 『俺もさっきの礼拝で聞いたところだ。デカい献金がいる、何か協力を頼めないかと』 そういえば今日は日曜日だったか、妻と子供と母さんを連れ教会に向かうマークの姿が浮かんだ。彼もスケジュールに追われる身だが、そういうところは僕と違いきちんとしている。昔は家族で一番早く起きて日曜学校へ向かうのは僕だったのに、今じゃ献金はするものの忙しさを理由に教会自体に出掛けることも少なくなっていた。 『もちろん都合が付けばの話だと念は押した。ただ、おまえにも話をしてみてくれと牧師から言われたんだ』 「牧師って、ミスター・スミス?」 『ああ。ヘイズ・ブラザーズ時代を知ってる奴ほど、おまえを優しくて人の良い末っ子のままだと思ってる』 「失礼だな。今だって優しいよ」 スミス牧師。3人で声を合わせるたびに大げさなほど手を叩いてくれた人。母さんと話し込んではコーヒーアワーをなかなか終わらせなかった人。僕が音を外して落ち込んだとき、神さまは悪意なき失敗には寛容だと言ってクッキーをくれた。 「いいよ、何か考える。あの人にはずいぶんお世話になったからね」 『…あの爺さん、召される前にもう一度Boogie Hayesが見たいって、そればっかりだ。難しいとは言ってるんだけどな』 「...ふふ。そう」 『また後で連絡し合おう。じゃあな。フレッドによろしく言ってくれ』 「うん。じゃあね」 受話器を置き、ブランチの匂いに誘われるようにその足でリビングに向かう。デカンタからマグカップに褐色を注いでいるフレッドがそこにいた。 「マークがきみによろしくって」 「ああ」 椅子に腰掛けコーヒーを啜る。...べつに断る理由はない。ずっと通っていた母教会だ。初めて拍手を受け、初めて自分たちの声に意味があると知った場所。父さんから教わった歌を、兄弟で何度も繰り返した場所。 神を恐れていた時期もあった。だけど神は何も奪わなかった。感謝だ。僕が返せるものはこれから返していくべきだと思う。 ...やるとして、どうするか。都合を付けることくらい簡単だ、ショーの何回かをそのまま企画にして収益を寄付すればいい。しかしそれでは面白くないし、牧師が思い描いているのもそういうことではないのだろう。 「マーカスも忙しいのか」 「売れっ子を抱えてるからね。子供の世話もしてるし、3人目もまだ手がかかるって」 「子供にBHでもやらせるつもりなのか?」 「はは」 フレッドのジョークに笑いつつ窓の外を眺めると、幼い頃に地元のイベントで歌った広場の空を思い出した。左にマーカス、右にカルヴィン、真ん中にまだボーイソプラノだった僕。父さんが客席の後ろで腕を組みながら微笑み、母さんがその隣で手拍子をしている。 3人で歌うことを想像したのは、ずいぶん久しぶりだった。 その夜もクラブに出向いていた。こういう場所に集う人たちに刺さる曲を作るためには、現場の感覚を知るのが一番良い。グループ時代はカルの役割だったことを、ソロになってからは続けていた。VIP席で馴染みのスタッフ達と飲みつつ、サングラス越しにメインフロアを遠く眺める。ウーハーから流れる爆音に合わせ、昔より多少色調の抑えられた光線に彩どられた若者たちが踊っている。 「アジアではレイヴが流行なんでしょ?」 「ああ、ジャパンは熱狂してるよ。奴らは派手好みだ」 時代は変わる。何かが主流になればアーティスト側もある程度それに迎合しなければ置いていかれる、僕自身の好き嫌いに関係なく。 二つ目のグラスを空けたとき、それが流れ出した。あまりにも知りすぎているベースライン、今考えればごてごてとしているまでのホーン、甘ったるすぎるボーカル。僕が苦笑したのと裏腹に、連れ立ったディレクターがにやりとした。 「そら始まった。BHタイムだ」 「勘弁して。セットの合間のノスタルジー枠ってだけだろ。息抜きだよ」 「もう一度BHが見たい」、それは自分自身も、きっと兄さんたちも、何度も言われ何度もかわしてきた言葉。再結成はしないのか、昔の曲をやってくれないか。しかしグループは過去のもので、それに縋る気は3人共無いらしい。今更煌びやかなスパンコールを纏って懐かしいステップを踏むなんて。 「そう言うな、リバイバルでも流行は流行なんだ。この間のディスコ意識した曲も評判良かったんだろ、時代が巡ってるのさ」 踊る喧騒。ディスコ・ブームの真っ只中よりは着飾ることをしなくなった人々も、表情はあの頃と同じように幸福そうだ。若者も大人も、男も女も、何を信じ誰を愛していても。ダンスをしたいという気持ちは嘘にならない___誰が言ったか、古い古い記憶の言葉が蘇った。 「カル。ソロモンだ」 『んあー?...誰かと思ったぜ、何百年ぶりだ』 「やっと繋がったよ、いつかけても出ないんだもの。去年はクリスマスにも帰ってこなかったし」 『母さんと兄貴のジュニアにはプレゼント送ったし、父さんの命日には帰っただろ。なんか用?』 「表舞台に興味ない?」 『オレは裏方に徹して10年だぜ、今更いいって』 「BHをやる」 『...』 「一度だけのカムバック。派手にやる。兄さんが必要だ」 『...金でも無えの?』 「チャリティーだ。収益は教会へ」 『オレのメリットは』 「表に帰れる」 『...』 「どう?」 『...マークは何て言ってる』 「たぶん乗り気にならない。だからカルから伝えて欲しい。兄さんは説得が得意だから」 『いつまで経ってもうちの王子様だよ、お前は』 「カルを信頼してるんだ。任せたよ。それじゃ」 受話器を起き、振り向く。少し離れた場所でフレッドがこちらを見ていた。 「近いうちに兄さんたちが来るよ」 「もう決まったのか」 「まだ何も。でも、来る。僕はわかってる」

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