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第46話
彼は、昔のままの神経質そうな目で俺を確かめるように見た。
「相変わらずだな、フレッド」
「そっちもだ、マーク」
会えて嬉しいよ、と言いかけて飲み込む。嘘というわけでは決してないものの、少し張り詰めた気持ちでこの来客を待っていたのは否めないからだ。それに、彼の方は果たして俺に会うことが嬉しいだろうかとも思った。
「ソロモンはもうすぐ帰ると思う。上がっていて」
「ああ。邪魔する」
短く整えられた髭の口元が微笑み、大きな手のひらに肩を軽く叩かれる。その表情と仕草は、若い頃にはファンの女の子を捌くときか相当に機嫌が良いとき以外見られなかったような気がし、彼も年月を重ね大人としての余裕を身につけたのだと知った。
カウンター越しに彼を見る。体格はいくらか厚みを得て、その存在に更に説得力が増したようだった。捲ったシャツの袖から大きな腕時計を覗かせ、ニュースペーパーを片手間に眺めている横顔は、目元に疲れが見えるもののそれが気負いすぎによるものだとは考えづらかったが、それでも俺はカップの横にシュガーの瓶を添えた。
「小説は、どういうものを」
「群像劇みたいなものかな。ブラックの生活とか労働とか、そんな感じ」
「昔と同じか」
その言葉に反射的に手が止まる。あの頃、俺の書くものをマーカスが読んだことがあっただろうか。そんな出来事があればきっと記憶に残っているはずだ。考えを巡らせていると彼は記事から目を上げ小さく笑った。
「移動車や控え室であいつがよく話してた。フレッドの物語がどうのって、嬉しそうにな」
目に浮かぶ。まだあどけなさの残る17歳かそこらのソルが、その場にいない俺の小説の話を兄にしている姿。...全てを知っていたと伝えられたわけではない。それでもそう受け取っても差し支えないのだろう。
あの頃のマーカスは、兄であり、リーダーであり、父であろうとしていた。たかが使用人の___それも男の___俺に、守るべき弟が脅かされていると考えただろうか。そうであれば俺は追い出されても当然だったはずだが、なぜそうしなかったんだろうか。
そのとき、またチャイムが鳴った。
彼は、昔のままの猫科のような瞳で俺を舐め回すように見た。
「...フレディ。いや、フレンディ?フリード?」
「フレッドだ」
「おおー!ブレッド!超久しぶりじゃん」
「フレッドだ。BじゃなくF。フレッド・ホール」
玄関で強くハグをされる。重ねたアクセサリーやらバックルやらが金属音を立て、強いコロンと煙草の香りがした。
「マーカスも来てる。ソロモンはもうすぐ___」
「やっぱNYCはいいねぇ。こんな奥まったトコじゃなくどうせならもっと派手な場所に住みゃいいのに。あ、なんか酒ある?あと着替えていい?」
カルヴィンがずかずかと初めて来たはずの部屋を進んでいき、それだけで周囲の温度が3℃は上がっていくような気がした。
不意に彼が足を止め振り向く。
「そうそう。どうだい、オレの弟の抱き心地は」
あまりにもあっけらかんとしたその問いに思わず驚き、そして恥と呆れが同時にやってきた。
「...最低なこと言ってるぞ、きみ」
カルはからからと笑い、マークに片手で挨拶し長い脚を大袈裟に組んでソファに座った。
兄達は知っていた。当時どこまで察し、どんな気持ちを抱いていたかは分からない。しかしこんなふうにソルを訪ねて来れば俺が出てくるという現在の事実の前では、隠し通していたつもりのものも当然のように白日の元に晒されていると同等だ。それが羞恥でもあり、負い目でもあり、安堵のようでもあった。
「構成はなるべく昔に近付けたい。その上で今の僕たちらしいものを」
「でもよ、解散直後は干されたろ、オレら。あのレーベルが黙ってるかね。過去曲の権利関係とか面倒じゃねえの」
「僕は移籍のときBHを謳って客寄せしたり過去曲で稼ぐのを止められてるけど、メディア化無し、生演奏、一度限りの条件ならやれる。ベニーが立ち回ってくれるって」
「生音?デカい計画になってきたな」
「派手にやるって言っただろ。'79全米ツアーのセットリストをベースにして、音のディレクションはクリスに頼もうと思う」
「ああ、その公演の資料なら持ってきた」
「準備いいねぇ。乗り気じゃん」
「...母さんとヴァレリーと子供、全員敵に回してあの家に留まれる気はしない。しかし再現するとしても俺はもう踊れないぞ」
「振りと魅せ方でどうとでもなる。カルがいるし、兄さんが今付いてる子だってダンスはするんだろ。見て真似すれば形にはなるし、きっとすぐ思い出すよ。リーダーのことだからね」
「おまえな」
「諦めろ、マーク。今やソル・ヘイズの言うことは絶対さ」
俺は'79年の4thアルバムのレコード盤をプレーヤーに乗せた。小さなノイズの後、ディスコテークの熱がリビングに流れていく。それを聴きながら、テーブルに集ってどうだこうだと言っている兄弟たちを眺めると、まるであの頃のヘイズ家と変わらないように感じた。
ソルに目配せし、俺はそっとリビングを出て書斎へ向かった。
兄弟は何度かここに来た。さっきまでスタッフを含めた打ち合わせをしに行っていたというのに、またここで計画を詰めていた。昔のキー、昔のステップ、デビュー前に歌っていたスタンダード。日に日にプロジェクトが具体的になっていき、同時にマークがソファで仮眠をしカルが冷蔵庫を漁った。
「フレッド、これ食っていい?」
「何を」
「昨日の日付のパイ」
「きみの弟が食うと言って買って忘れたものだ」
「じゃあオレが責任持って食う」
書斎のドア越しにそんな会話をすることにも慣れた。それから原稿へ目を戻し1ページ書いたところで、隣の部屋からキーボードを爪弾く音が鳴り始めた。ひとつの声が低く旋律を取り、次に軽い声が重なる。少し遅れて、よく知る声がその間を縫った。
「止めろ」
マーカスの声で演奏が途切れる。
「ソル、キーを落とした上にテンポまで遅くしたら全体が呆ける」
「着いてこれるの?」
「舐めるな」
「上等」
また最初から始まる。数小節で止まる。言い合う。誰かが笑う。俺は椅子の背にもたれ耳を澄ませていた。書くべき文章は頭にある。それでも今は、タイプ音を混ぜることが無粋に思えた。壁一枚を隔て、若かった頃の時間が戻ってきている。...いや、違うな。十何年それぞれ別の場所で生きた三人が、同じ歌へ帰ってきたのだ。
「おまえも観に来るんだろう」
とある日、マークが帰り際にジャケットを羽織りながらそう聞いてきた。それは問いや誘いというよりも、決定事項の確認のようだった。
「...どうかな。ソロモンが嫌がるんじゃないか」
「どうせ家族も教会関係者も知り合いだと言い張る奴もずかずか控え室に入ってくる。一人増えたところで何も変わらん」
思えばショーをしているBoogie Hayesも、シンガーとしてのソロモン・ヘイズも、俺は一度も実際に観たことがなかった。なんとなく口篭っていると、マークは顔を上げ仕事部屋に向かって声を投げた。
「ソル、最終日はフレッドも来るぞ。母さんが会いたがってる」
数秒後、フレーズを繰り返す鍵盤の音の中から返ってきた返事はこうだった。
「席は一番後ろにして。コラムに書くにはそのくらいがいい。そうだろ、フレッド」
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