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第7話

 沈んでいた意識が浮上して、ゆっくりと瞼を持ち上げる。見慣れない天井がまず目に入って、ここはどこだという疑問が浮かび、一気に目が覚めた。  肌触りの違うシーツの中で体を起こす。よく整理された部屋の家具を一つ一つ確認して、思い出した。  ——そうか、ここは、久世の家だ。 「………!」  思い出した瞬間、一気に昨夜の出来事が蘇ってきた。  十年付き合った恋人の浮気相手が、家まで来たこと。不誠実な恋人へ、やっと別れを告げられたこと。雨の中佇んでいた俺を、同僚である久世が心配して、自分の家まで連れて来てくれたこと。それから……。  昨夜、久世が俺を好きだと、可愛いと言って、キスをしてくれたことを思い出した。心臓が音を立てて、どくどくとうるさく暴れ回る。  職場ではいつも俺のことを、親の仇のような目で見ていた久世に、あんなに真剣な表情で告白されたなんて信じられない。思い出すだけで、急激に顔の温度が上がっていく。  当の久世は今、部屋の中にはいないようだ。俺にベッドを譲ってソファで寝ていたと思うのだが、カーテンの隙間から差し込む朝の光が細く伸びる室内のどこにも、久世の姿は見当たらなかった。  昨夜の久世は、俺に触れるだけのキスをした以外、自分の気持ちを押し付けてくるようなことはなかった。そのキスも本当に、触れたか触れないか分からないような軽いキスで、すぐに離れてしまったし、その後もすぐいつも通りの久世に戻ってしまった。  こちらの頭は告白されたりキスをされたりと、大混乱の最中だというのに、素っ気ないとすら思えるような態度で寝てしまうので、拍子抜けしたものである。俺を好きだと言う割に、ああいう態度だから、本当なのかと疑ってしまう。貴弘は、言葉も態度も露骨だったから余計に……。  また無意識に、昨日別れたばかりの元恋人と比べている自分に気づき、慌てて思考を断ち切る。そんなことがしたいわけではないのに、十年も付き合っていたせいでどうしても、切っても切り離せないところに居着いたその存在が、否が応でも俺の思考を侵食する。  ——もう、終わったこと。さっさと忘れてしまいたいことだというのに。    静かな室内に、玄関の扉がガチャリと開く音が響いた。  誰かが家に入ってきたようだ。おそらく、今ここにいない久世だろう。出かけていたのだろうか。  思った通り、先ほどの音は久世が帰宅した音だったらしく、しばらくすると久世が部屋に入ってきた。  久世は上下ジャージ姿だった。学校では大抵スーツを着ているので、体育祭や合宿など、行事でしか見ないような貴重な姿だ。 「久世先生」  俺が名前を呼ぶと、久世は俺が起きていることに少し驚いたような反応を見せた。片手にレジ袋を下げている。どうやら、買い物に出かけていたらしい。 「おはようございます、神部さん。よく眠れましたか」 「うん……その、ありがとうございます。昨日は色々お世話になっちゃって、すみません」 「気にしないでください。それより、朝食にしませんか」  久世はソファ前のローテーブルの上に、レジ袋から取り出したものを並べていった。それは種類の様々なパンだった。  クロワッサン、メロンパン、クリームデニッシュ……コンビニで売っているパンではない、ちゃんとしたパン屋のパンである。どうやらこれを買いに行っていたらしい。  パンだけではなく、飲み物も買っていたようだ。プラカップのカフェオレ、紙パックの牛乳、加糖の缶コーヒーが並べられていく。 「美味しそう……」  甘いパンは大好物である。勤務中の昼食も、購買の菓子パンで済ませることが多い。久世にも「そんな甘いものだけで昼食を済ませるつもりですか」と呆れられたことがあった。  目を輝かせる俺に、久世は口元を持ち上げてクスリと笑う。 「神部さんは、こういうのが好きでしょう」  言いながら、久世は並んだパンの中でもとびきり甘そうなクリームデニッシュを俺の前に置いた。 「なんで分かったんですか」 「分かりますよ。いつも見てるんで」 「えっ」  不意打ちで、また久世に恥ずかしくなるようなことを言われて、顔が赤くなってしまう。  クソ、なんだか調子が狂う。普段の久世みたいな、素っ気ない態度だと思ったら、急にこんなことを言うし。  ともかく、お礼を言って、久世が目の前に置いてくれたパンを手に取る。クリームデニッシュは生地がサクサクで、真ん中に詰め込まれているカスタードクリームは夢のように甘く、俺を幸せな気持ちにしてくれた。  食べながらふと顔を上げると、久世はまた険しい表情で俺を見ていた。あの、いつも俺を不機嫌そうに睨みつけている時の表情だ。  こ、怖い……何を怒っているんだろう。怯えて縮こまると、久世はハッとしたような反応の後、バツが悪そうに目を逸らした。  何故そんな反応をするのか考えて、思い当たる。そういえば、久世のあの表情は、俺を可愛いと思った時の表情なんだっけ……? 「………」  急に恥ずかしくなって、俺も視線を逸らした。  昨晩久世が洗濯してくれた服は、久世が言っていた通り朝には乾燥まで終わって綺麗に乾いていた。久世に借りた服から元の服に着替えて、改めてお礼を言う。 「じゃあ、久世先生……お世話になりました。このお礼は、また改めて」  昨夜は勢いだけで家を飛び出し、色々と動揺していたので、久世が迎えに来てくれなかったらどうなっていたことか。その日の宿を探すのも大変だったろうし、そもそも、どうやら貴弘は俺を探していたようなので、見つかっていたらまた丸め込まれていた可能性もある。 「家に帰るんですか?」 「まあ……はい」  正確には、帰るというか荷物を取りに行くというか。貴弘が今日、何時から仕事か分からないが、日勤にしろ夜勤にしろ午後一時前後は家にいない確率が高いので、その時間にやらなければならないことを済ませておきたい。  しかしそこまでの事情を久世に話す必要はないだろう。俺が曖昧に答えると、久世はしばらく俺を真剣な目でじっと見つめた。  俺の心を見透かそうとするような、その瞳にドキリとする。何となく、昨日のキスを思い出して、気まずくなり視線を伏せた。 「送りますよ」 「いや、そこまでしてもらわなくても」 「俺が送りたいって言っても?」 「そこまで迷惑かけられないんで……」  やけに食い下がる久世に、しどろもどろになりながら答える。あんなことをしてしまったせいで、久世との距離がつかめない。どんな態度を取るのが正解なのだろう。 「……やっぱり、まだ別れられませんか」 「え?」 「神部さんを、あんな風に泣かせる男なのに」 「えっ、いや、えっと」  久世の声のトーンが急に低くなり、怯えた俺はますます何を言えばいいか分からなくなってしまう。 「浮気する男なんて絶対別れた方がいいです。俺なら、あんな風に神部さんを泣かせたりしません」 「!」  玄関へ向かおうと部屋の扉に手をかけていた俺に、久世が近づいてくる。驚いて後ずさると、背中が扉に当たった。すぐに久世の手が俺の顔の横をダンと突いた。  上から影が落ちて、至近距離で久世に見下ろされる。もともと冷たい印象を受ける久世の整った顔立ちは、今は怒りに満ちてますます恐ろしい顔つきになっていた。思わず息を呑む。  何も言わない俺を見下ろして、久世の顔がぐっと歪んだ。 「……というか。神部さんももう、俺と浮気したようなものですよね」 「……!」  久世が嘲笑うように言った言葉に、心臓がぎゅっと握り潰されたような気がした。  ずっと貴弘の浮気に苦しんでいただけに、パートナーを平気で傷つけるような行為を、お前もしただろうと疑われるのは、耐え難い苦痛だった。昨日橋から見下ろした、真っ暗な川に突き落とされたような気分だ。 「俺の気持ちを知っていて、一晩うちに泊まったし、キスだってしましたよね。神部さんだって、俺のこと、満更でも……」  久世の口調には焦りがあった。おそらく、本心でそんなことを言っているわけではないのだろう。  だが今の俺に、久世の気持ちを慮るような余裕はなかった。耳を塞ぎたくなるような言葉の数々に、思わず、久世の胸を突き飛ばす。 「神部さ……」  久世が俺を見て、言葉を失う。いつの間にか、ボロボロと涙がこぼれ落ちていた。  悔しかった。俺は絶対、浮気なんてしない。恋人がいるのに、好きな人がいるのに、相手が傷つくようなことを平気でできるような人間だと——貴弘と同じなんだと言われて、堪えきれない怒りが湧いた。 「しない……俺は浮気なんかしない、絶対」 「っ、神部さん、違っ」 「恋人がいるなら、他の奴とキスなんかしない!」  それだけ言って、久世が呆然としているうちに体を反転させ、扉を開けて走り出した。 「神部さん!」  後ろから久世が俺を呼び止める声が聞こえたが、立ち止まらなかった。急いで靴を履き、かかとを踏んだままで、玄関の扉を開けて外に飛び出す。  雨上がりの朝の街を走る。昨日の夜も同じように、家を飛び出して走っていた。今度は貴弘から逃げるためではなく、久世から逃げるために走っている。  確かに俺は昨夜、久世のキスを受け入れた。俺を可愛いと、あんな風に愛おしげに言ってくれる久世に、心が揺れて、抗えなかった。  口は悪いけれど、困っていると何だかんだ助けてくれるところ。言葉にしなくても、俺のことを思ってさりげない優しさをくれるところ。元々俺は、久世のことを憎からず思っていた部分があって、それがあの瞬間、一気にブワリと俺の体を支配して、久世ならいいと、そう思ってしまったのだ。  でも、それがたとえほんの数時間前のことだとしても、貴弘と別れたという事実がなければ、絶対、あんなことはしなかった。  好きな人がいるのに、なぜ他の人とそんなことができるのか、俺には分からない。……分かりたくもなかった。  いつ帰ってくるかも分からない恋人を待つ、虚しい一人の夜。もう長い間繰り返した、あの空虚な時間が、走る俺の後を追いかけてくるようだ。  俺のために買ってきてくれたという、あの甘いパンの幸せな味は、もうよく思い出せなかった。  十年近く暮らしたマンションの前に立ち、建物を見上げる。  ここ数年、この家に帰ってくるのは俺の方が圧倒的に多くて、俺にとってもここが自分の家だという意識が強いが、残念ながら、この家はもともと貴弘が借りていた部屋だ。家賃や光熱費を、俺が貴弘に毎月半額振り込む形で、この同居生活は続いていた。  ここへ来るのは今日が最後にしたい。大掛かりな引っ越しは無理なので、自分で購入した家具は諦めなければならないが、しばらくの生活に困らないような、必要最低限のものだけでも運び出そう。  共に生活した時間が長い分、別れるのはこんなに難しいものかと、溜息が漏れた。とにかく、貴弘と顔を合わせないためにも、数時間のうちに作業を終わらせなければ。  家の鍵を玄関のドアに差し込む。カチャリと、やたら大きな音を立てて鍵が開き、恐る恐る扉を開けた。  万が一にでも貴弘がいるようなら出直さなければいけない。薄く開けた扉の隙間から中の様子を窺う……ひと気はない。やはり貴弘は仕事へ行ったようだ。  ほ、と息を吐いて中に入った。玄関で靴を脱いで、廊下を歩いていく。  寝室に入って、クローゼットから海外旅行用のスーツケースを取り出した。ファスナーを開いて床に広げ、持って行く荷物を詰めていく。  とりあえず替えのきかない重要なものからだ。通帳や印鑑はもちろんのこと、仕事の資料や参考書。現役で使っている教科書や教員端末は、通勤用のバックパックに入っているので、そちらも回収しなければ。  必要最低限のものを詰め終わると、今度は衣類を中心に詰めていく。スーツ、ジャージ、ネクタイと靴下。下着、家着、普段着も詰めるだけ詰める。冬物は嵩張るし、すぐにいるものではないので、あまり欲張らないことにした。必要なら新しく買えばいい。  作業に熱中していた俺は、気づかなかった。寝室の扉がそっと開いて、誰かが部屋の中に入ってきたことに。 「……タケル」  ここにいるはずのない人物が、俺の名前を呼んだ。ビクリと心臓が震え、勢いよく振り向いた。 「貴弘……!」  扉の前に立ってこちらを見下ろしている貴弘に、絶望的な気持ちになる。いつ帰って来たのだろう……それともまさか、ずっと家にいたのか。顔を合わせたくなかったのに。  まだ他の部屋の持ち物も整理したかったが、仕方ない。絶対に必要というほどのものはないし、諦めるしかないだろう。  スーツケースの蓋を焦りながら閉めた。傍に置いていた通勤用のバックパックを背負って立ち上がる。 「どこ行くんだよ、タケル」  貴弘と目を合わせず、スーツケースを引き摺りながらその横を通り過ぎようとした時、肩を掴まれた。 「こっち見ろって、タケル!」  必死な声も無視して、貴弘の手を振り払おうとした。だが貴弘は強い力で俺の肩を押すと、無理矢理自分と向き合う格好にさせた。それでも、最後の抵抗として、顔を背け絶対に目を合わせない。 「……っ、タケル……」  貴弘の、あまりに情けなく弱々しい声が聞こえた。  絶対に目を合わせるものかと思っていたのに、心が揺れる。十年付き合って、貴弘のそんな声を聞くのは初めてかもしれなかった。  俺の肩を掴む貴弘の手は震えている。きっと、本気を出せば振り解けるのに、俺はそこから動けなかった。 「……本当に、別れるつもり?」 「………」  憔悴しきった貴弘の声に、頷いて答える。 「俺を、捨てるの」 「………」  これ以上、会話をするつもりはないという意思表示に、黙って目を閉じる。自分の意思とは無関係に、ズキリと、胸が痛んだ。  別れる気持ちに迷いはない。貴弘を好きだと思っていた気持ちも、もう俺の中のどこにもない。  それなのに、この胸の痛みはどこから来るのだろう。 「別れたくない……愛してるんだよ、タケル。お前だけだ。お願いだから、信じて」  切実な思いが込められたような貴弘の言葉は、確かに、俺の中のつらいばかりではなかった十年間の思い出を、激しく揺さぶった。昨日、貴弘の浮気相手から聞いたあの言葉がなければきっと、俺はまだ貴弘を信じたいと思っていたかもしれなかった。  でも、もう、何もかもが遅かった。自分の肩に置かれた手を、そっと払いのける。ポケットに入れていた家の鍵を出して、貴弘に向かって差し出した。  最後まで、貴弘の目を見ないまま。貴弘の手が俺から鍵を受け取るまで待って、スーツケースを引き摺り玄関へ向かった。  靴を履いて、ドアノブに手をかける。何か忘れ物はないだろうかと、一瞬考えた。ここには、もう二度と戻らない。戻れない。仕事に必要なもの、当面の生活必需品。おそらく、不足はないと思う。ドアノブにかけた手に力を込める。 「タケル」  ドアを開ける寸前、背中から貴弘の声がした。 「お前は、またここに戻ってくるよ。絶対」  ゾワリと、背筋を冷たいものが駆け抜けた。  さっきまで俺に縋るような、情けない声を出していたはずの貴弘は、今は不気味な確信めいた口調になっていた。  戻ってくるわけないだろう。何を言っているんだと、怒りが込み上げる。そんな簡単な気持ちで別れを決めたわけじゃない。だって、俺たちは十年も……! 「十年も一緒だったんだ。タケルが、俺を忘れられるわけない。俺がお前を忘れられないみたいに」  まるで呪いのような言葉だ。足に絡みついて、ここから立ち去る意思を鈍らせるような、恐ろしい言葉。  今更どの口がそんなことを言うのかとカッとなった。思わず振り向き、貴弘の目を睨みつけてしまった。  振り向かなければよかった。貴弘は笑っていた。あまり眠れなかったような、げっそりとした顔立ちで、しかし目だけはギラギラと妖しい光を湛えて。  俺を見て、不気味に笑っていた。 「あんな男に、お前が満足できるわけない……いつでも戻ってこいよ。待ってるから」  竦んで動かなくなりそうな足を必死に前に踏み出して、ドアを開け部屋を飛び出す。  ばくばくと、心臓がうるさく鳴っている。  何だよ、あれ……なんであんな、自信満々に言えるんだ。  自分のしたことを棚に上げて、戻ってこいと言う傲慢さに怒りが湧いた。同時に、不安や恐怖が頭をもたげる。マンションから離れてしばらくして、立ち止まり、無意識に詰めていた息を吐いた。  貴弘が言っていたあんな男とは、久世のことだろうか。なぜ貴弘が久世のことを知っているのか……やはり、気づいていたのだろうか。昨日、橋の近くで、久世の車に乗った俺とすれ違ったことを。  十年も一緒だったと、貴弘は言っていた。貴弘が俺を忘れられないように、俺も貴弘を忘れられないのだと。  その言葉が正しいものだと信じて疑わないような、確信めいた不気味な笑みが蘇って、背筋がゾクリと冷たくなる。  あんな呪いのような執着を、貴弘が俺に抱いていたなんて知らなかった。とっくに気持ちがなくなったからこそ、浮気をしているんだと思っていた。俺が別れたいと言えば、すぐに別れて別の恋人を探すような、そんなやつだと思っていたのに。  夏が近づき、蒸し暑くなってきた気候のはずだが、寒気で鳥肌が立っている。貴弘の言葉に囚われそうになる自分を、首を横に振って奮い立たせた。  あんなの、適当に言っているだけだ。現に俺はこうして、貴弘と別れられたじゃないか。  あんなに好きだと、別れたくないと思っていたのに、今の俺にそんな気持ちはない。もう二度と、あの家には戻らない。忘れられるはずだ、絶対に。  気持ちを新たに歩き出そうとして、一瞬、久世の顔が浮かんだ。ぐ、と苦いものが込み上げて、顔が歪む。  貴弘も、見当違いな心配をしていたと思う。俺が久世とどうこうなることはないだろう。……それこそ、絶対にだ。

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