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第8話

「神部さん!」  勢いよく飛び出していく神部の名前を呼ぶ。彼は振り返ることなく、この家を出て行ってしまった。  あまりのショックでしばらく呆然としてしまう。ハッと我に返り、追いかけなければと自分も慌てて家を出たが、神部の姿はすでにどこにもない。途方に暮れて、道の真ん中に立ち尽くす。 「……っ」  自分が口にした言葉で、神部がボロボロと零した涙を思い出した。俺なら絶対に泣かせないと言った直後、舌の根も乾かぬうちにあんな泣かせ方をしてしまった自分自身に、行き場のない怒りが込み上げる。  どうして俺はこうなんだ。いつもそう、感情が昂ると、相手の気持ちも考えられずに、言わなくてもいいことや思ってもいない余計な一言を口走ってしまう。  以前彼に可愛くなんかないと言ってしまった時と、全く同じ。後から悔やんだって遅いのに、その瞬間は自分の口を止められない。傷つけたくなんかない、本当はずっと、ただ笑っていてほしいのに。  ずっと思い続けていた人。俺を見てくれることなんてないと思っていた人。  手に入らないむしゃくしゃした気持ちで、つい、冷たく当たってしまう。きっと嫌われているだろうと思っていたし、それでいいと思っていた。  それなのに、その人があまりにも無防備な姿で自分の前にいる。手を伸ばせば触れられる、その目に自分を映してくれるような距離に。  夢にまで見た、信じられない状況に、本当は、昨夜からずっと心の余裕を保てなかった。  ——最初に気になったのは、声だった。  桜ヶ峰学園に新任として勤め始めてすぐのことだ。名前に冠する桜が自慢の並木道は、その年の入学式の時点ではまだ五分咲きで、赴任後初めて教壇に立つ頃、やっと花盛りとなった。  特に一階にある一年生の教室は、窓の外がちょうどその桜並木で、風が強い日などは窓を開けると花弁が舞い込んで風流な光景が見られた。まだ初々しい新入生たちは歓声を上げていたものだ。後で行う清掃が大変なので、次第に窓は閉められがちになったけれど。  そんなある日。空きコマで、書庫に置かれた教材を取りに行ったときのことだ。  一年の教室の前を通りかかったところで、ふと、足を止めた。 「——……」  静まり返った教室の中に響く、穏やかな優しい声。桜に関する和歌を読み上げるその声が、やけに耳に残って、自然とその声の主を探して教壇を見た。  片手に持った教科書へ視線を落とし、印象的な声で桜の情景を読み上げるその人物を認め、目を見張った。俺より年上のはずだが、とてもそうは見えないと思っていた、幼い顔立ちで年齢不詳の、神部という名前の教員だ。まさかこの朗読の声の主が、神部だとは考えもしなかった。  職員室での彼の印象は、とにかく落ち着きがないに尽きる。整理整頓が苦手らしく、必要なプリントを散らかったデスクのどこにしまったか見つけられず、新年度開始早々他の教員に頭を下げて見せてもらっていた。決められた予定を忘れて、教務主任に「またですか」と呆れられていたこともあった。この数日見ていた限りでも、彼に対してあまりいい印象はなかった。  それなのにどうだろう。この落ち着いた、人の心の隙間にするりと入り込むような印象的な声は、いとも簡単に俺の心を奪ってしまったのだ。  神部の声に呼応するように、風に乗って桜の花びらが教室へ舞い込んだ。涙が出そうになるほど、美しい光景だと思った。春の日差し。薄桃色の花嵐。鼓膜を震わせる柔らかな声。その微笑みを神秘的だとすら感じる佇まい。  彼に見惚れて、俺は一瞬、時が止まったかのようにその場から動けなかった。 「……わっ」  しかし見惚れたのは本当に一瞬だった。舞い込んだ桜の花弁が口に入ったのか、神部が慌てたようにむせたからだ。静かだった教室にどっと笑い声が起こる。  ……何だったんだ、今のは。恥ずかしそうに頭を掻いて生徒たちに謝っている彼は、さっきまでの神秘的な印象とはまるで別人だ。こんな情けない人に見惚れていた自分を恥ずかしく思って、視線を引きはがし書庫へ急いだ。  しかしその後もこの神部という男は、何かにつけて俺の関心を惹く存在となってしまった。どちらかといえば悪い意味で、だ。  まず何よりも呆れたのは記憶力に乏しいところだった。忘れ物、失くしものは日常茶飯事。他の教員もいつものことだと笑うばかりで、彼を厳しく咎めようともしない。そういうキャラクターというか、周囲に甘やかされがちな性質だというのも、何故だか異様に腹が立った。  次に気になったのは仕草や態度だ。神部はいちいち人の視線を奪うような、意味深な仕草をする。自分の失態を恥ずかしがる時に、赤面しやすい体質なのか頬を染めてそっと目を伏せたり、考え事をするときに、無意識に自分の唇に指を当てて柔らかそうなそこを弄んでいたり。  俺に用がある時など、あの印象的な声で「久世先生」と囁くように呼びながら、服の袖を指で摘まんでつんと引っ張るのだ。そんな仕草で呼び止められるたび、心臓が大袈裟な音を立てた。あまりにも動揺したために、すごい顔で睨んでしまって、神部は「ひっ」と怯えた声を上げ、顔を青くして小さく震えていた。  だから何なんだその態度は。年上のくせに、なんでそんなにいちいち可愛いんだ。  ……可愛いだって?  それまで俺は、神部のことが気になってつい目で追ってしまうのは、彼が俺を苛立たせる性質だからだと考えていた。忘れ物をするだとか、物事を効率的に進められないだとか、自己管理もできないだらしのない人間は、俺にとって理解ができない、苦手な人種だ。神部はその典型だと考えていたのだ。  それなのに、どうだろう。いつしか俺は神部の一挙一動、全部が可愛くて仕方なくなっていた。困っていれば助けてあげたいと思ったし、その可愛い仕草の一つ一つを、自分が一番近くで見たいと願うようになっていた。  ——どうやら俺は、自分が一番苦手な人種である、神部という人間に恋をしてしまったらしい。  自分の思いを自覚してしばらくは、葛藤に苛まれた。何故よりによってあんなだらしのない人なのかと、自問自答を繰り返した。  だがそうやって思い悩んでいる間も、神部は変わりなく、ただただ可愛いばかりだったので、そのうち諦めるしかなくなった。  認めよう。俺は、神部尊に恋をしている。自分より年上で、情けなくて頼りない、しかし誰よりも優しく、生徒に寄り添い、可愛くて愛嬌のある彼の虜になってしまった。  幸いにも、神部が同性愛者だろうという予想は早めについていた。同じ側の人間だからこそ気づく、独特の気配というものがあったのだ。  異性から好意を向けられてもまるで意識していないのに、同性との距離が近くなると、僅かに身を強張らせる。ノンケであれば意識もしないような距離感での付き合いに、確実な一線を引いているところがある。  さらに、これは根拠のない予想だが、きっと神部は抱く側ではなく、抱かれる側だろうとも思った。誰かを押し倒す彼の姿は想像できないのに、男の腕の中で頬を赤くしている姿なら、嫌になるほど簡単に想像できた。おそらく本人には、自分がそんな目で見られているという自覚すらない。それなのに、同じ指向の同性を無意識に煽るような仕草ばかりする、実にたちの悪い人である。  望みがあるのなら遠慮はいらない。どうアプローチしたものかと悩んでいるときに、俺は絶望的な噂を聞くことになる。  それは赴任して一年が経った頃。授業と授業の合間、移動時間に、教室の中で生徒たちが話す声から、「神部ちゃん」という名前を拾い上げて耳を澄ませたときのことだ。 「神部ちゃんて結婚してないんだっけ」 「独身だよ。だって、ね」 「そうそう。独身だけど、パートナーがいるんだって。男の」 「え! そうなの⁉」 「有名だよ。神部ちゃんと同じマンションで暮らしてる先輩が言ってた。超イケメンでマッチョの彼氏と、一緒に住んでるんだって」 「えー!」 「ご近所さんだから、彼氏と話したこともあるって言ってたよ。付き合ってることも内緒にしてって頼まれたって。まあ、神部ちゃん本人は、バレてることにも気づいてないらしいけど」 「何それ、神部ちゃんらしい……」  この世の終わりとは、きっと、今の状況のようなことを呼ぶのだろうと思った。  生徒たちの話し声は次第に遠くなり、しばらく俺は何の音も聞くことができず、呆然としていた。  次の授業の教室に移動することも忘れて、ただ立ち尽くしていたら、急に服の袖を引っ張られた。鈍った思考のまま首を動かして、隣を見る。 「久世先生? ……あの、授業始まってますよ」 「……っ」  困ったような顔をする神部が自分を見上げていた。堪らず、返事もせず逃げるようにその教室を飛び出していた。  神部は知る由もない。今俺が、失意の底にいることなんて。  失恋したからといって、気持ちというものは簡単になくなるわけではない。相変わらず神部は毎日憎らしいほどに可愛いし、無自覚に俺を翻弄した。  手に入らないと分かっているのに、それでも、手を伸ばしたくなってしまう。自分がこんなに愚かな人間だとは思わなかった。  叶わぬ思いを秘めたまま、しかしそれを神部に悟られないようにと、俺は必要以上に神部に対して冷たく接した。選ばれる可能性がないのなら、いっそ嫌われていた方がいい。そのうちにこんな報われない思いも、枯れて跡形もなくなるだろう。  だがそんな希望的観測に反して、俺はそれから五年間も未練を断ち切れないまま過ごした。  枯れるどころか年々ますます思いが強くなり、今なんて神部が自分のデスクで眠そうな目を擦りながら欠伸をしているだけでも、可愛さのあまり表情が緩みそうになるくらいである。  体を動かすなんて冗談ではないと思いながら生きてきた、根っからのインドア派である自分が、神部のパートナーを意識して筋トレをしているくらいだから、最早笑うしかない。こんなことをしたって、神部が振り向いてくれるわけでもないのに。  だからこそ、神部が明らかに自分のことなのに「知人の話」などと言って、恋人に浮気をされたという話をしてきたときは、腸が煮えくり返るかと思った。  俺が六年間も一方的に思い続けているその人が、パートナーにそんな仕打ちをされているなんて許せなかった。なぜそんなやつと暮らしているんだ。俺なら絶対に、もっと幸せにできるというのに。  厚かましくもその時の俺は本気でそう考えていて、それならもう我慢をすることもないと、とうとう神部に積年の思いを告白した。しかし神部と来たら、俺の告白を聞いて顔を真っ赤にして逃げ出してしまったのだ。  何だその反応。初心すぎるだろう。俺よりずっと年上の癖に、あんなに可愛くて大丈夫なのか。  神部はどうやら、歳をとったせいで自分が可愛くなくなったと思って気にしているようだった。それがパートナーの浮気の原因だとでも考えているのだろうか。見当違いも甚だしい。可愛くなくなるどころか、年を追うごとにどんどん可愛くなっているというのに、自覚がないのだろうか。  とにかくもう遠慮はいらない。そう思って個人的な連絡先を渡してみたり、上手いこと神部の連絡先を手に入れたりと、行動を開始した。その連絡先交換が功を奏して、初めて神部から連絡をもらえたのが、昨夜の話。  通話に出た神部の様子はどこかおかしかった。無理に明るく振舞う、何かを必死に堪えているような声。泣いているのかと尋ねたら、どうして分かったのかと言って、通話の向こうで泣き始めてしまった。  パートナーと何かあったのだろうとすぐに分かった。こんな風に神部を泣かせる相手への怒りと、深く傷ついた様子の神部を心配する気持ちと、そしてそんな状況で、自分を頼って電話をくれたかもしれない神部に、少しだけ期待をした。手を伸ばしても届かないと思っていた人に、今なら、手が届くかもしれないと。目の前で神部が傷ついているのに、こんな状況で、俺は少しだけ、自分勝手な下心を持って神部に接していたのだ。  自宅に神部を招き入れた時など、その下心を抑えるのに必死だった。傷つき、明らかに平常心でない神部の弱みに付け込んで、手を出すようなことなどあってはならないと思った。  それなのに神部はやはり、あの無自覚な誘惑を発動して、涙目で俺に縋ってくるので、その唇につい、吸い寄せられるようにキスをしてしまった。  夢にまで見た唇の感触。考え事をするとき、指先で弄る癖のある、厚みがあって柔らかそうなこの唇に、どれほど触れたいと願ったことか。何度も妄想した通りに、やはり信じられないほど柔らかく、気持ち良くて、うっとりと頬を染める神部の反応も含めて、俺の理性は完全に焼き切れる寸前だった。  なんとか自制してそれ以上神部に触れることなく夜を明かし、翌朝も努めて紳士的な態度で接した……つもりである。神部に少しでも笑ってほしくて、彼が好みそうな朝食を買いに行ったりもした。  それでも、あんなに傷ついて泣いていたのに……俺が思わず唇に触れてしまった時だって、嫌がるどころか、何かを期待するような目でこちらを見ていたというのに。恋人の元に帰ると彼が言い出したときは、このまま帰してなるものかと、心底焦ってしまった。  焦って、それで、あんな心にもないことを言ってしまった。……浮気なんて。それで傷ついているはずの彼に、ぶつけていい言葉ではなかったというのに。  まさか神部が、もう恋人と別れた後だったなんて思いもしなかった。恋人がいるなら、他の奴とキスなんかしないと言った彼の泣き顔が思い出されて、胸が苦しく悲鳴を上げる。  昨夜、あの瞬間、彼は確かに俺を受け入れてくれたのに。せっかく開きかけた心の扉を、愚かにも俺は自分の手で完全に閉ざしてしまった。  俺のほうがずっと幸せにできるだなんて、そんな傲慢なことを考えていた自分に呆れる。結局俺も同じように、彼を傷つけて泣かせただけだ。  迷った末にかけた電話は繋がらなかった。悶々としたまま休日を過ごし、月曜日の朝。ほとんど一番乗りで職員室に入り、自分のデスクで緊張しながら彼が出勤してくるのを待った。  会ったらまず謝りたいが、職場でどこまで話ができるだろうか。……そもそも、話もしてもらえなかったらどうしよう。電話はずっと繋がらないままだった。着信には気づいているだろうから、無視されていると考えたほうがいい。  神部はもう、俺と話す気はないのかもしれない。六年も思い続けた相手に、やっと手が届くかもしれなかったというのに。自分の失言でその可能性を完全に摘み取ってしまった事実が、重くのしかかる。 「おはようございます」  始業ギリギリの時間に、神部がやって来た。他の教員に挨拶をしながら、自分の席へ歩いてくる。 「……おはようございまーす」 「!」  思いがけず、彼の方から挨拶をしてくれて、ドキリとする。話をしてくれるかもしれないと、一瞬期待をしてしまった。 「あの、神部先生」 「はい? 何ですか、久世先生」  だがこちらを向いた彼の、顔に貼り付けたような笑顔に、再び絶望へ突き落とされた。  神部は嘘をついたり、本心を取り繕うことが得意なタイプではない。俺に向けた笑顔には、ありありと彼の拒絶が浮かんでいたのだ。 「あ……」  思わず、言葉を失ってしまう。やがてチャイムが鳴り、教務主任の声で職員打ち合わせが始まった。  神部はふいと俺から顔を背けて、もう二度とこちらを振り向くことはなかった。 「終わった……」  帰宅するなりそう呟いて、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。普段なら外出着のまま寝転ぶなんて考えられないのに、そんなことにすら構っていられなかった。  今日一日、神部は徹底して俺と目を合わせなかった。話しかければ答えてはくれるのだが、よそよそしく、前みたいに感情豊かな表情も見せてはくれない。仕事仲間以下の、まるでしつこいセールスを愛想笑いでかわすような、よそよそしい態度である。  どうせ手に入らないのなら嫌われても構わないと思っていたのに、いざ手に入るかもしれないという段階になったら、完全に嫌われてしまった。俺はもう、この先、神部を傷つけたことを謝る機会すらもらえないのかもしれない。  この部屋で初めて彼の唇に触れた時、夢のようだと思った。まさか本当に夢のように、目が覚めたら全部終わってしまうだなんて、そんな話があるだろうか。  もしかしたらあの時、何かが始まりかけていたかもしれないのに。俺は嫉妬に駆られた自分の愚かな失言のせいで、その可能性を完全に潰してしまったのだ。  ……本当に、これで終わりなのだろうか。もしかしたらもう二度と、俺に本当の笑顔は見せてくれないかもしれない神部に、恋焦がれる気持ちだけが燻って、苦しく溜息をついた。

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