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第9話
スマホのアラームで目が覚める。真新しいシーツの中で体を動かして、探し当てたスマホを手に取ると、アラーム停止ボタンを押した。
体を起こし、大きく伸びをする。窓から差し込む朝の光が清々しい、爽やかな目覚めだった。
「……よし!」
気合いを入れてシングルベッドから下りる。朝食は、少し時間をかけてスクランブルエッグでも作ろうか。賞味期限の近いウインナーがあったから、それも焼こう。考えながら、一人暮らし用の小さな冷蔵庫の扉を開ける。
ボウルに割り入れた卵に、砂糖と塩を入れて混ぜる。バターを溶かしたフライパンに卵液を流し込んで、半熟になるまでかき混ぜたら皿に取り出す。焼いたウインナーも並べて、テーブルへ持って行った。
粉末を牛乳で溶かし、カフェオレを作って、ダイニングテーブルの上に置いたレジ袋からクリームパンを取り出した。新しく借りたアパートの近くにあるパン屋で、昨日のうちに買っておいたものだ。柔らかいパン生地に甘いカスタードクリームが入った、俺のお気に入りのパンである。
朝ごはんに好きなものを食べると、それだけで一日が幸せな気持ちで過ごせるような気がする。以前は自分の朝食なんて用意するのも面倒で、焼いたトーストをもそもそと一枚食べるだけで済ませがちだったが、最近は時間の許す限り色々なものを食べるようにしている。
食事が終わったら次は身支度だ。洗面台の前に立って歯を磨き、顔を洗って、濡れた顔をタオルで拭き取った。
鏡に映る自分の顔を見る。相変わらずの、年齢を感じさせるくたびれた顔だ。また深くなった目じりの皺を指でそっとなぞった。
少し前までは、こうして鏡を見るだけで憂鬱な気持ちになったものだ。若かった頃の可愛さを失った自分を目の当たりにし、恋人の関心を惹くこともできない自分に絶望して。
でも今は違う。迫り来る老いに怯えることも、誰かの目を気にする必要もない。
可愛くなくなったから捨てられるのだ——なんて、俺はもう、そんなことに、いちいち傷つかなくていいのだ。
時間があったので、珍しく髭も剃った。元々、さして伸びない体質ではあるが、それでも三日くらい放置すると、指先にチクチクと当たる程度には細かな髭が伸びる。シェービングクリームを塗って丁寧にそれを剃り落とすと、ほとんど目立たなくなった。
これならたとえ服装チェックがあったとしても、久世に怒られることはないだろう……考えた後、すぐにムッとした。別に、久世に嫌味を言われたところで構うものか。あんな無神経なことを言う人間の言葉なんて、聞く必要はない。
俺はまだ、久世に怒っている。あの日の発言を許すことは、きっとないだろう。
貴弘と別れて一か月が過ぎた。現在は期末の定期考査準備期間である。
この間に、俺は新しい家を借りて一人暮らしを始めた。部屋が見つかるまでは貯金を切り崩してのホテル暮らしとなったが、なんとか職場にほど近いアパートで即入居できる賃貸が見つかって、今はそこで暮らしている。
持ってきた荷物が多くないため、生活に必要なほとんどのものを買い揃えなければならず、やはり貯金を切り崩す必要があったが、幸いにもなんとかこうして生活基盤を整えることができた。もともと、大した趣味もなくほとんど家で過ごしているので、同年代に比べれば貯蓄はあるほうだと思う。今回使ってしまった分も、そのうち補填できるだろう。
電車通勤がなくなったおかげで、朝の準備をする時間に余裕ができ、こうして食事や身だしなみに手をかけることもできるようになった。何となく仕事も捗って、今の俺はいいことづくし、かなり充実したおひとりさまライフを送っている。
……何よりも、帰って来るかどうか分からない同居人の動向に、いちいち不安にならなくていい。決断をするのは簡単なことではなかったにしろ、もっと早くこうするべきだったと思うくらいである。
夏が近づき、ジメジメと湿気を纏った六月の風に吹かれて、通学路を歩く。新しい家から学校までは徒歩十分ほど。本当にいい物件が見つかってホッとしている。
道行く生徒たちと挨拶を交わしながら登校し、職員用玄関で靴を履き替えて、職員室のドアを開ける。
「おはようございまーす」
すれ違う教員と挨拶しながら、自分の席へ向かう。
「おはようございます」
大抵の場合、俺より早く出勤している久世は既に隣の席に座っている。俺が声をかけると、ビクリと肩を震わせて気まずそうに眼鏡をかけ直す。
「……おはようございます」
返ってくる返事を聞き流して、自分の席に座った。久世が何か言いたそうにこちらを見ている気がしたが、気にしないようにした。
久世と話すことは何もない。大人げない態度をとっていることは承知の上だが、仕事に支障がないようには気をつけているし、そもそも、先に大人げないことを言ったのは久世のほうだ。誰も俺を責められないだろう。
その日の授業が終わり、担当するクラスでホームルームを終えた後で、荷物をまとめて教室を出る。定期考査前のため、今は部活動がなく、下校の挨拶をした生徒たちは騒がしく廊下へ出たり教室にそのまま残って自主学習を始めたりしていた。
「神部ちゃん、さよーならー」
「ちゃんじゃなくて、先生な」
「神部せんせー、さよーなら」
「はい、さようなら」
友人たちと笑い合いながら、騒がしくすれ違う生徒たちに返事をする。若者は元気だなぁ、なんて思いながら、職員室へ向かった。
「さてと」
自分の席に着いた俺は、腕まくりをして気合いを入れた。今日はこれから定期考査の採点データづくりだ。俺が一番苦手な、採点ソフトに配点と観点を登録する、あのパソコン作業である。
今回の定期考査の範囲となるのは、かつて紙幣の肖像にもなった著名な作家の代表作だ。主人公の『私』が、謎の多い『先生』と出会い、やがて送られてきた遺書によって、誰にも明かせずにいた『先生』の過去を知るという内容の小説である。
文学的に意義のある作品でありながら、俺はこの小説が高校課程で取り扱われることに、多少の気まずさを感じている。どう考えても内容が重すぎるからだ。感受性豊かな年齢の子どもたちにとって、親友との三角関係の末、命を落とすに至る泥沼劇を授業で学ぶというのは、なかなかに衝撃的なことだろう。授業時間で触れるのは作中のほんの一部分であるとしても、この小説がどのような小説なのかを説明しなければならないので、それがやはり毎回気まずさを伴う。
だがこういった恋や愛における綺麗なばかりではない出来事について、教育で扱うことができるのは国語科となるだろう。早ければ高校卒業後には、就職して社会に出る生徒もいるのだ。文学作品を通して他者の心情について学ぶ機会は、この先そう多くはないかもしれない。
この作家の遺した小説は、どの作品も登場人物たちが妙に生々しいと思う。創作の中であるというのに、まるで生きた人間のようなままならない行動をとるのだ。
親友と同じ人を好きになった『先生』が、親友に黙ってその人を手に入れんとする私欲や、それを知った親友の自死。親友を追い詰めたのは自分の裏切りではないかと葛藤しながらも、己の罪を誰にも明かせなかった『先生』が、懺悔のように主人公に宛てた遺書……人の心の揺らぎや脆さを、生々しい温度をもって伝えてくる。
自分が学生だった頃、初めてこの話を読んだ時には、なんて愚かな人たちだろうと思ったものだ。自分の気持ちを優先するあまりに、親友を裏切ったことも、またその罪をひた隠しながら、最期の最期になって誰かに打ち明けようとしたことも、あまり共感できるものではなかった。
だがそれなりに歳を重ねた今なら分かる。人は常に正解ばかりを選べるものではない。他人から見れば愚かだと思うような行動であっても、そうせずにはいられないことはあるのだ。人を盲目にすると言われる、恋や愛が関わるのであればなおさらだ。
——……そう、誰かを好きになったなら、正しい選択ばかりできるわけじゃない。別れた方がいいと分かっていたって、別れられなかった自分のように。なりふり構わずに、心にもないことを口走ってしまうことだって——。
「神部先生」
「!」
たった今、久世の顔を思い出していたタイミングで、その張本人に名前を呼ばれたので、大袈裟に肩が跳ねてしまった。
恐る恐る隣を見る。自分の席からこちらを見ていた久世は、呼びかけておきながら俺の反応を見てその表情を曇らせた。
「久世先生。どうしました」
「いえ……その、作業が進んでいないようなので、また、採点登録で困っているのかと……」
このところ、俺が久世に対して必要以上に関わらないという徹底した態度を取っているので、久世にしては珍しく、もごもごと口ごもりながら答えた。どうやらパソコンの画面に採点登録のページを表示したまま、手を動かさない俺を心配して声をかけてくれたらしい。
これだけあからさまに素っ気ない態度をとっているのだから、俺のことなんて放っておけばいいのに、それでもまだ久世は俺を気にかけてくれる。彼の元々の面倒見の良さがそうさせるのか……それとも、もしかしてあれから一か月も経った今でも、俺のことが好きだなんて言うのだろうか。
わざわざこんなおじさんに固執しなくても、久世ほど若くて目立つルックスを持つならば、相手なんていくらでもいそうなものを。考えながらじっと彼を見つめていると、何も言わない俺に気まずそうにした久世が目を伏せて、小さな声で「すみません、失礼しました」と謝って俺から目を逸らした。
俺の態度に何か言いたいことがあるだろうに、久世は無理強いをしない。俺が話したくないという態度を取るならば、それ以上踏み込んでこようとはしないのが、とても彼らしかった。彼のそんな態度に、また、心の一番弱いところを擽られるような気がする。
——もし。もしもだ。
本当に久世が、俺を好きだとして。普段冷静で頭の回転の速い久世が、恋という感情のせいで盲目になり、自身が発してしまった言葉を、今は心から悔いているとしたら。
人はいつも、正解を選べるわけではない。恋や愛が関わるなら、なおさら。
絶対に許すことはないと思っていた彼に、少しだけ、歩み寄ってもいいような気がした。
「……ごめん、久世先生。やっぱり、俺には難しくて」
「っ」
俺が話しかけると、久世は勢いよく顔を上げて、信じられないというような顔でこちらを見た。
「助けてもらえませんか。……お願いします」
じっと久世の目を見つめて、そう頼み込む。久世は一瞬引き結んだ口の端をむずむずと動かした後で、やがてハッとしたように鋭い目つきになり世にも恐ろしい顔つきになった。
俺のことを可愛いと思っている時に、表情が緩まないようにしているという、あの険しい顔である。
おかしくて、俺の口元までつい、むずむずと緩んでしまいそうになった。
パソコン操作にもたつく俺を助けようとした久世は、しかし結局、俺の理解力に辟易して、最終的には呆れたような顔で「こんなこともできないんですか?」と言っていた。
やっぱり久世は口が悪い。もしかして素直じゃないだけかも、なんて好意的な解釈をして歩み寄るんじゃなかった。失敗した。
……まあ、言った後にすぐ青ざめて、「すみません、違います。今のはただ、こんなこともできない神部さんを可愛いと思っただけです」なんて小声とはいえ焦ったように言うので、ぎょっとして誰かに聞かれていないかと、周囲を確認する羽目になったけれど。
へとへとになりながら帰宅して、簡単な夕食を作る。職場から徒歩十分というのは、本当に素晴らしい環境だ。以前はコンビニやスーパーの惣菜で済ませがちだった夕食も、今は比較的ちゃんと料理をして用意することが多い。
炊き立てのご飯にグリルで焼いた塩鮭。小松菜と豆腐の味噌汁。それだけでも、自分で用意したとなれば満足感は一入だ。塩鮭は二切れセットで売っていたので、一切れは明日のお弁当で使うことにする。
入浴を済ませて寝間着に着替え、ベッドに入った。心地よい疲労感で、今日もぐっすり眠れそうだ……なんて考えていたが、そんなことはなかった。
もぞもぞ、もぞもぞと、シーツの中で何度も寝返りを打つ。どれだけ体勢を変えても、眠気は一向に訪れない。
「……あー! もう!」
とうとう堪えきれずに、ガバリと体を起こす。
そう。不誠実なパートナーの動向に振り回されることもなく。通勤時間も短縮されて時間に余裕もあって。充実したおひとりさまライフを送る唯一の悩みが、コレだ。
……俺は今、めっっっちゃくちゃに欲求不満だった。
「クソ、寝れない……!」
日中はそうでもないのだが、夜、シャワーを浴びるくらいから始まって、明かりを消してベッドに入る頃には我慢できないくらいにムラムラするのだ。
体の奥が疼いて疼いて仕方がない。あまり思い出したくはないことだが、貴弘は大変に性欲が強く、浮気相手とも致しているだろうに二、三日おきに帰ってくる俺のこともしっかり滅茶苦茶に抱き潰してくれたため、体がその生活に慣れてしまっているらしかった。
そしてまた困ったことに、貴弘とのセックスに慣らされた俺の体は、一人で前の処理をするだけでは到底満足できない。後ろの穴を満たすものがなければ、この疼きは全く収まらなかった。
「ん……っ、うう……、はぁ」
仕方なく指にローションを纏い、後ろを弄りながら前を触って体の疼きを鎮めるのだが、これもなかなか上手くいかない。指なんかじゃ足りないと、切なく訴える浅ましい自分の情欲から必死に目を逸らす。これでつい、貴弘との情事を思い返してしまうようなことにでもなったら、俺は立ち直れないかもしれない。
とにかく無心で欲を鎮めようとする。ぐちゅぐちゅと寝室に響く水音が虚しい。
貴弘を思い出さないように、どうにか別のことを考えようとする。何か、誰か他の……誰か……。
「!」
ふと頭に浮かんだのは久世だった。
しかしすぐに、そんな自分の思考を否定する。いやいや、駄目だろ。明日も職場で机を並べて働くというのに、こんな妄想に付き合わせたら、どんな顔をして彼を見ればいいのか分からない。
理性ではそう分かっているのに、一度思い浮かべた久世はなかなか俺の頭から消えてはくれなかった。俺を「可愛い」と言って、愛おしげに見つめ、そっと唇に触れた、彼の感触をありありと思い出してしまう。
「……っ」
もし、あの時、キスだけで終わらなかったなら。いつか俺のネクタイを結んでくれた、久世の細く長い指が俺の衣服を乱して、お互いの素肌を重ねて。滾ったそれを擦り合わせて、切なく疼く後ろの穴まで、彼のその指が埋めたなら……。
「んん……っ!」
恐ろしいほどの興奮と快感が押し寄せて、ビクンと体が大きく跳ねる。こんな妄想をしてしまった罪悪感すら甘美に俺の体を痺れさせて、いつまでも余韻が引かないような長い絶頂を味わった。
だが全てが過ぎ去った後に、俺を襲ったのはやはり後悔だった。明日、どんな顔をして久世と会えばいいのか。自己嫌悪に陥り、体の疼きが解消されたというのに、俺はこの日もちっとも寝付けなかった。
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