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第10話

 困ったことになった。  俺は最低だ。同僚を夜のオカズにしてしまったのだ。  あまりの罪悪感から、翌日、まともに久世の顔を見ることができなかった。久世は久世で、昨日やっと歩み寄りを見せた俺が、また目も合わせないものだから、完全にショックを受けた顔をしていた。  この件に関しては久世に悪いところなんてないというのに、申し訳ない。どうか落ち着くまで待ってほしい。数日もすれば多分、また普段通り接することができるはずだ。  ——なんて。思っていた時期が、俺にもありました。 『神部さん』  切なく俺を呼ぶ久世の幻聴が聞こえる。 「……っぁ」  ベッドの上で自分を慰める俺は、その幻聴に反応してビクリと体を震わせる。うつ伏せになって膝を立て、尻を高く上げた格好で、自分の指を穴に突っ込みながら、俺が思い浮かべているのはやはり久世のことだった。 「……っ、……ん」  最低だと思うのにやめられない。どうしてこんなことになってしまったんだ。  あの夜から、体が疼いて仕方ない日、俺が思い浮かべるのは完全に久世の存在になってしまった。久世がプライベートで俺を呼んでいた声や、可愛いと言っていたその響きを思い出しては、こうして必死に自分を慰めてしまう。  久世はどんなふうに触るだろうか。どんなふうに囁くだろうか。考えてはいけないと思うのに、その想像を止められない。 「あ……! ァ、ああぁ……っ!」  やがて前を扱いていた手の中のそれが脈動して、白濁の液体を撒き散らす。シーツの上に敷いたタオルを見下ろして、俺はまた押し寄せる後悔に押し潰されそうになっていた。  毎晩久世のことを考えてこんなことをしているなんて、俺はやはり、彼を好きになってしまったんだろうか。……あの久世を? 本当に?  そもそも、正直に言うならば、久世はあまり俺のタイプではない。貴弘が特別だっただけで、元々俺は自分より年上の、甘やかしてくれる優しい人が好きだ。  久世は確かに、色々と面倒見のいい優しい人だと思う。だが几帳面で自分にも他人にも厳しいその性格は、自分にも他人にも甘くなりがちな俺とは正反対で、苦手なタイプだ。第一、俺の浮気を疑ったことだって、まだ完全に許してはいないというのに。  ……とはいえ、口では優しいことばかり言っていた貴弘が、俺以外の人の前では好き勝手なことを言い、ずっと俺を裏切っていたのも事実で……。  考えれば考えるほど分からなくなる。溜息をついて、自分の浅ましい行為の後始末をした。  怒涛の成績処理や三者面談が終わり、いつの間にか一学期が終わって夏休みに入ろうとしていた。  今日は終業式で、生徒たちは全員午前中に下校している。俺も、この日は差し迫った仕事もなく、半休を取っていた。  自分の荷物をまとめてバックパックを背負った時、少し離れた席の杉本から話しかけられた。 「神部先生、今日の懇親会は出席しますよね?」 「あっ、ハイ」  今日は十九時からホテルの宴会場を貸し切って、学園の教職員とPTA役員の懇親会が予定されている。六月末に出欠調査があり、特に予定のない俺も出席で回答していた。 「電車ですか? 私、車なので、駅までお迎えに行きましょうか」 「いいんですか?」 「はい。他の先生にも声かけてるので」 「ありがとうございます!」  駅から少し距離があると思っていたので、助かった。お言葉に甘えてお礼を言い、時間や待ち合わせ場所を確認して、職員室を後にした。  懇親会の会場となるホテルの最寄り駅で他の教員と合流し、杉本の車で会場へ向かった。  貸切にされた宴会場は、立食形式のバイキングだ。教職員の他にPTA役員も参加していて、会場は賑やかである。俺は杉本たちと、何となく同じ学年団の教員で固まって会場の隅にいた。 「今年PTA会長をやってる棚田さん、お子さんたちご兄弟でこの学校に通われてたから、もう保護者も六年目でしょう?」 「下手な先生より重鎮だね。ほら、今も教頭先生と話してる」  そんな世間話をしながら、会の始まりを待っていた。 「あ、久世くん」  その名前を聞き、思わずドキリと反応してしまった。 「お疲れ様です」 「お疲れ様。駐車場、まだ空いてたかな。車は停められた?」 「はい」  杉本と久世が交わす言葉をドキドキしながら聞いていた。落ち着け、落ち着け。意識しちゃ駄目だ。 「神部先生」  杉本と話し終わった久世がこちらへ近づいてきた。まさか話しかけられるとは思わず、肩が大袈裟に跳ねてしまう。 「久世先生、お疲れ様です」 「……お疲れ様です。あの」  当たり障りのない笑顔を浮かべてやり過ごそうとする。久世は続けて俺に何か話そうと、騒がしい会場内で、声を届けるために少しだけ俺に顔を近づけた。  特別意識するほどの距離ではない。分かっているのに、それでも、俺は毎晩夢想してしまう久世の声を思い出して、真っ赤になった顔を隠すために思い切り顔を背けた。  久世が息を呑むのが分かった。また避けられたと思っているのかもしれない。でも、この顔の赤みが取れるまでは会話をしたくなかった。さり気なく距離を取って他の先生たちの輪に入る。  久世の視線が痛いほどこちらへ向いているのが分かった。  最初のグラスを手に持って、校長先生の音頭で乾杯をする。  周りの人たちのグラスの中身はほとんどがビールだ。俺はビールが苦手なので、最初の一杯はウーロン茶である。 「神部先生、最近お引越しされたんでしたっけ」 「はい」 「どの辺に引っ越したんですか?」 「学校の近くですよ。徒歩十分くらいで着きます」 「ええ! 羨ましい。通勤が楽だろうなぁ」  世間話をしながら、飲み干したグラスの代わりに新しい飲み物を取りに行く。  立食形式のバイキングなので、ドリンクも食事も自分で取りに行かなければならない。二杯目はアルコールにした。グラスに注いでもらったのはレモン酎ハイだ。  ビールは飲めないし、アルコールにも強い方ではないが、お酒を飲むのは好きだ。甘いカクテルや飲みやすい酎ハイが多い。サングリアなんかも好きだが、割とすぐに酔っ払うので、量は控えめにしなければならない。  喉を刺激するレモン味の爽やかな炭酸に、少し気分が高揚する。ふわふわと、わけもないのに楽しい気持ちになる、アルコールを入れた時のこの感覚が好きだ。 「家賃はいくらなの?」 「ええと、月はちまんえんで……」  いい気分になりながら隣にいる他学年担当の先生と会話をしていたら、久世の姿が目に入った。杉本と、何か楽しそうに話している。いつもムスッと不機嫌そうにしている久世の表情が、少しだけ柔らかく、気を抜いているように見えて、何故だか分からないがムッとしてしまった。  表情が緩むのを我慢しているんだか何だか知らないが、自分にはいつも険しい表情しか見せてくれない癖に。杉本相手にはそんな顔を見せるのか。  せっかくいい気持ちだったのに水を差された気分で、俺はグラスに残っていた酎ハイを一気に飲み干した。 「大丈夫? 神部先生、お酒弱くなかったっけ?」 「だいじょーぶです!」  心配そうな先生に元気に答えて、お代わりを取りに行った。二杯目も同じものを頼んで、グラスを受け取ろうとした瞬間、後ろからにゅっと手が伸びてきた。 「神部先生、これ何杯目ですか」  呆れたような声で俺からグラスを取り上げたのは、久世だった。 「久世せんせー……」  俺が名前を呼ぶと、久世は眉間に深い皺を寄せて、いつもの険しい表情になる。……やっぱり、俺にはあんな笑顔は見せてはくれない。 「もうアルコールは駄目です。ウーロン茶にしてください」 「なんで」 「保護者もいるんですよ。酔い潰れたら、こっちの面目が立たないでしょう」 「べつに、これくらいで酔い潰れたりなんか……」  俺の文句を完全に無視して、久世は勝手にスタッフに謝ってレモン酎ハイの入ったグラスを交換してしまった。手渡されたのはウーロン茶だ。久世の手の中のグラスも、同じもののようだった。  渋々受け取ったグラスに口をつける。冷たいウーロン茶は、さっきまでアルコールでふわふわしていた意識を冷たく冷やしてくれた。  賑やかな会場の隅に、久世と並んで立つ。二人の間には会話がギリギリ聞こえるくらいの距離が開いていた。二人とも、向かい合うことはなく、会場の中心に視線を向けたまま、黙ってグラスを傾ける。 「……あの」  不意に久世が口を開いた。緊張で強張った心を悟られないよう、努めて冷静に返事をする。 「なんですか、久世先生」 「……この後なんですけど。杉本先生の車は、帰りは他の方も同乗するみたいなので。神部先生は、僕の車に乗りませんか」  また、小さく心臓が動く音がした。手の中でウーロン茶のグラスについた水滴が滑り落ちるのが分かった。その冷たさに驚いて、俺は自分の体が熱を持っていることを自覚した。 「久世先生の車に?」 「はい」 「他には、誰かいるんですか」 「……いえ。僕と神部先生の、二人です」  会場は騒がしいのに、ここだけしんと静寂が落ちる。  俺はゆっくり視線を横に向けて、久世を見た。久世もこちらを見たため、お互いの視線がぶつかる。今度目を逸らしたのは、久世の方だった。 「……嫌なら、無理にとは言いません」  弱々しい声で、ぽつりと、そう続けられた。  返事のない俺の答えを結論づけて、久世は「すみません、今のは忘れてください」と言うと、この場を離れようとした。思わず、俺は久世に向かって手を伸ばしていた。  人の体に不用意に触れることに、どこか抵抗を感じる俺は、誰かを呼び止める時服のどこかを軽く引っ張るようにしている。久世のワイシャツの背中を掴んで、つんと軽く引っ張る。驚いてこちらを向いた久世をじっと見た後、顔を伏せて口を開いた。 「分かりました」 「え……」 「帰り、よろしくお願いします」  それだけ言って、顔を見ないまま久世の横を通り過ぎ会場の中心に紛れた。心臓が今更派手な音を立てて、ばくばくとうるさく鳴っていた。 「あ、神部先生。久世くんから聞きました? 私、帰りは山内先生も乗せて行くので……神部先生?」  俺を見つけた杉本が、怪訝な顔で覗き込んでくる。 「大丈夫ですか、飲みすぎちゃいました?」 「えっ」 「顔が真っ赤ですよ。ほどほどにしてくださいね」  仕方なさそうに笑う杉本に指摘されて、自分の顔がもっと赤くなるのが分かる。アルコールのせいにできて良かったと思った。でなければ、赤面の理由をもっと問い詰められていたかもしれない。    アルコールを一杯でやめたおかげか、一時はふわふわしてほろ酔いだった気分も、会が終わる頃にはすっかり醒めていた。  教頭が締めの挨拶をして、懇親会はお開きとなった。二年の学年団の先生たちと会場を出て、それぞれの帰路につく。 「じゃあ、お疲れ様でした。神部先生、久世先生」 「お疲れ様です」 「お疲れ様でした」  杉本たちと別れて、歩き出した久世の後ろをついていく。久世が車を停めたのは、ホテルから少し離れたコインパーキングらしい。  夜道を歩く久世は無言だった。俺も言葉を発することなく道を歩いて行く。二人分の足音が静かな夜にいやに大きく響いた。湿気を含んだ、蒸し暑い風が頬を撫でて通り過ぎる。  辿り着いた駐車場で駐車料金を払い、久世は自分の車の助手席のドアを開けた。 「どうぞ」 「ど、どうも……」  久世の車に乗るのはあの夜以来だ。緊張しながら、乗り心地のいい助手席に身を滑り込ませる。 「神部先生の家はどこですか。送ります」 「えっ、いや、いいですよ駅までで」 「……自宅の場所を言いたくないなら、近くの目印になるような場所でいいですよ」 「別に、そういうわけじゃ……」  まるで久世を警戒しているような受け取り方をされて、もごもごと口を動かす。 「……じゃあ、お願いします。学校から、歩いて十分くらいのところです」 「分かりました。とりあえず、学校へ向かいますね」  エンジン音が鳴って、車が走り出す。こんなに座り心地のいいシートなのに、身の置き場がないような、居心地の悪さを感じて座り直した。  窓の外を流れていく夜の街を見つめる。車内は無言だった。何か話した方がいいだろうか。  迷っていたら、久世の方から口を開いた。 「あの」 「はっ、ハイ」 「……すみませんでした。俺、この前、あなたにひどいことを言いました」  しかも久世が話題に出したのは、よりにもよってあの日のことだった。ずっと、何か言いたそうにしていた久世が、俺が避けるせいで話せなかった話題だろう。二人きりの今しかないと思ったに違いない。 「俺のこと、許せなくていいです。でも、訂正させてください。神部さんは、浮気なんてできるような不誠実な人じゃない。そんなこと、分かってたのに……すみませんでした」  心から謝罪する久世は、きっとあの日の自分の発言を、何度も後悔したのだろうと思った。久世の言う通り、今でも思い出すだけで腹立たしいことだが……。 「……俺、本当にショックだったんだ。俺が、浮気なんて最低なことをするようなやつだと思われたのもそうだし」 「はい……」 「……久世先生が、浮気できるような人だって分かったのも、ショックだったし」 「!」  俺の言葉が思いもよらないことだったのか、久世は明らかに動揺した様子で、道を走る車のハンドル操作が僅かに乱れた。運転中に話すことではなかっただろうかと後悔した。俺の命は無事で済むだろうか。  幸いにもすぐに運転は戻ったものの、久世はまだ動揺しているようだった。 「いえっ、俺は、そんな、浮気なんて!」 「恋人がいると思ってる相手に、平気でキスするとか……見損ないました、久世先生」 「違うんです、本当に……いや、違わないんですけど。神部さんだけなんです、俺、ずっとあなたが好きだったから」  おろおろと言い訳をする久世の様子を、意地の悪い気持ちで盗み見る。少しは、俺が傷ついたことを思い知るといい。  人のこころは、ままならない。思ってもいないことを言ってしまうし、絶対好きにならないと思ったような相手にだって、恋をしてしまう。  そういうものだと分かっているからこそ、仕返しくらいはきっちりさせてもらおう。  桜ヶ峰学園に近づいたところで、自宅までの道案内を始めた。 「そこの角を、右に曲がってもらえますか」 「はい」 「少し走ったら、左手にコンビニがあるので。その角を左に曲がって、すぐのところです」  久世の車がアパートの前に到着した。暗い夜道の端に車を寄せてもらって、助手席のドアノブに手をかける。 「じゃあ、久世先生。送ってくれてありがとうございました」 「……あの、神部さん」  外へ出ようとした時、久世が思い詰めた口調で俺を呼び止めた。ドアノブに手をかけたまま、久世を振り向く。  久世は真剣な顔でこちらを見ていた。言葉を詰まらせながら、それでも堪えきれないというように、必死な様子で続ける。 「今すぐじゃなくて構いません。あなたの気持ちが落ち着いた時に、俺のこと、考えてもらえませんか」 「………」 「駄目なら、それでいいんです。元々、ずっと諦めてました……でも、もし、ほんの少しでも希望があるなら、どうかお願いします」  俺に向かって頭を下げる久世を見つめる。 「久世先生、なんで俺なの。久世先生から見たら、俺なんかおじさんだろ」  十も歳の離れた自分に、頭を下げてまで自分のことを考えてほしいと願う彼の心が分からなかった。毎朝鏡を見るたびに、老いを感じて溜息が漏れるような、そんな俺を、何故そこまでして求めてくれるのか。  久世はゆっくりと顔を上げて、俺を見た。その切実な目に見据えられて、俺の体は動かなくなる。 「……最初は声でした」 「声?」  俺の問いかけに、久世は小さく頷いて答えた。 「教室で朗読をするあなたの声が、すごく印象的で。気になって目で追うようになったら、どこか抜けていてすぐ他の先生に叱られるようなところも、大事なプリントをなくして焦っているところも、なんだか全てが可愛く思えて、どんどん、好きになって」  声が印象的だなんて、初めて言われた。しかもその後に続いたのは……果たして褒め言葉だろうか? しょっちゅう他の先生に怒られているだとか、大事なプリントをなくすだとか、告白にかこつけて貶しているだけでは?  頭の中ではそんなことを冷静に考えながら、しかし俺の顔はぐんぐん熱を持っていた。これまで俺は、自分を求めてくれたパートナーから……あの貴弘もそうだったけれど、最初に褒められたのはいつだって容姿だった。  可愛いとか、守ってあげたくなるだとか。そんな風にチヤホヤされて、自分の見た目に価値があるのだと思い込んでいたからこそ、日々衰えていく姿が耐え難かったのだ。  趣味も特技もなく、性格だって真面目で面白みがないとよく言われる。自分の価値なんてそれくらいしかないのだと思っていたのに。  久世だって、俺のことを可愛いと言っていた。その可愛いは、もしかして、俺の見た目の話ではなかったのだろうか……? 「勿論、生徒に対しても、あなたよりずっと経験の浅い俺みたいな相手に対しても、誰にでも真摯に向き合い、平等に接してくれるところも尊敬しています」 「ま……っ、待って、ちょっと、ストップ」 「あと、俺がつい生意気なことを言ってしまった時も、神部さんはちゃんと話を聞いて、謝ったり、お礼を言ったりしてくれますよね。そういうところも、すごくいいなって思っています」 「待ってって! いきなり情報が多い……!」  これ以上は無理だ。受け止めきれない。真っ赤になった顔を両腕で隠して、降参を示す。 「神部さん、俺のこと、考えてくれますか……?」  最後に久世は、心から切実そうにそんなことを俺に問いかけるものだから、俺の心臓は痛いぐらいにときめいてしまって、もう駄目だった。  ついに俺は、本心を白状してしまう。 「もう、とっくに考えてるよ……!」  腕で顔を隠したまま、思わずそう口にする。  車内にしんと静寂が落ちた。久世は何も言わない。  不安になって、両腕をどかすと、運転席からこちらを見ていた久世は、信じられないというように目を見張っていた。 「本当ですか……? 神部さん、本当に俺のこと、パートナーにしてもいいって思ってくれるんですか」 「……うん」  改めて確認され、ますます赤くなりながら頷く。 「嬉しい……ありがとうございます」  じわじわと実感が湧いたのか、久世の顔がみるみる安堵に染まって、心から嬉しそうに微笑む。  さっき、杉本と話していた時より、ずっといい笑顔だと思った。普段クールであまり笑った印象のない久世が微笑むと、その破壊力は凄まじい。  心臓が大きく跳ねて、久世を見つめたまま動けなくなる。このまま車を降りるのが、惜しく感じてしまう。胸が切なくて、苦しくて、上手く息もできないほどだ。  パートナーにしてもいい、なんてとんでもない。もう俺はとっくに、久世のパートナーになりたいと思っていたのだと、自分の体の反応で分かってしまった。 「久世先生……」  胸の苦しさを堪えながら、何とか名前を呼ぶ。久世がこちらを見た。二人の間の距離がもどかしいと思った。  でも、いきなり「帰りたくない」なんて露骨な言葉を口に出すのは恥ずかしい。どうにかまだ一緒にいてほしいという気持ちが伝わらないかと、口に出せない思いを視線に乗せてじっと見つめる。 「神部さん……」  俺の呼びかけに応えるように、久世が熱に浮かされた様子で俺の名前を呼ぶ。運転席から身を乗り出して、助手席のシートに手をついた。  俺と同じ熱のこもった視線を絡めて、久世が近づいてきたので、何をされるか分かった俺は鼻先がぶつからないように少しだけ顔を傾けた。瞼がゆっくり下りていく。完全に目を閉じたその時、久世の唇が俺の唇に触れて、柔らかいその感触に体全体が痺れるように甘く疼いた。 「ん……」  一度目のキスを何度も思い返していたが、こうして実際に触れる久世の唇は、記憶の中よりずっと気持ち良かった。ただ唇という器官を触れ合わせているだけなのに、どうしてこんなにも気持ちいいのだろう。キスだけでこれなら、この先久世にもっと深いところを暴かれたら、どうなってしまうのか。毎晩俺を襲う不埒な妄想が蘇って、体が熱くなる。  まだ離れたくない。俺は重ねた唇を少し離し、角度を変えてちゅ、ちゅ、と何度かキスを繰り返した。久世の体がピクリと震えて、しばし固まった後、久世は恐る恐るというように手のひらで俺の首筋をなぞって、頬を包んだ。 「神部さん……」  切なそうに名前を呼ばれて、返事をする代わりにはぁ、と熱い吐息を漏らした。頬に触れる久世の手のひらに、無意識に甘えるように自分の頬を擦り付ける。 「っ」  触れられたい。この長い指先で、俺の全部を暴いてほしい。頭がクラクラと酩酊するような思いに、堪らず久世を見つめる。  お願いだから、もっと、触って。 「……っ、あの、また、連絡します」 「え……」 「お疲れ様でした!」  俺の意に反して、久世はもっと触れるどころかガバリと体を離すと、こちらを見ずに運転席へ戻って視線をフロントガラスの向こうへ固定した。その顔は険しく、必死の形相で前だけを睨んでいる。  まだ熱い体の疼きを持て余し、わけが分からなくなりながらも、「お疲れ様です……」と口にして、最後まで久世が動かないことを確認し、仕方なく助手席のドアを開けて車を降りた。  久世の車はハザードを切ると、何の未練もなく走り去っていった。アパートの前、暗い夜道に一人取り残された俺は、しばらく久世の車が走って行った方向を見つめて、その後じわじわと混乱に襲われる。 「……なんで⁉︎」  今、絶対そういう流れじゃなかったか……⁉︎ なんで帰されたんだ、俺!  キスする顔が変だった? おじさんがキスくらいで発情してるのがみっともなかった? 百年の恋も冷めるような、そんなだらしない顔を、俺はしていたのだろうか。  自分の失態をあれこれ想像し、どんどん落ち込んでいく。さっきまで、あんなに嬉しそうに笑ってくれていたのに、最後の久世の素っ気ない態度に不安になりながら、フラフラした足取りで自分の家へ帰った。

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