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第11話

 夏休みなどの長期休業期間は、年休を取り何日も連続で休む教員が多い。午前だけ、午後だけというような勤務をする人も多く、誰がいつ出勤してくるかは夏休みの勤務予定表を見れば分かるようになっている。  部活の顧問をしている教員は練習や大会などで夏休みも忙しいが、フリーの俺は有難いことにそこまででもない。七月中は通常勤務が多いものの、八月前半にはまとまって年休を入れ、二学期が始まる前にまた一週間ほど通常勤務する予定である。  懇親会が行われたのが金曜日。土日を挟み、月曜日に学校へ来てすぐ、勤務予定表を確認した。予定表によると、今日の久世は年休を取っている。久世も俺と同じで部活の顧問を担当していないので、休暇中の年休取得は多めだ。  ……顔を合わせることはないと分かって、ホッとしたような、残念なような。  懇親会の夜、お互いに、ほとんど告白のようなことをして、恋人同士と呼んでも過言ではない関係になったはずなのに、また連絡すると言った久世からは、未だに連絡がない。その事実が、時々俺の胸をざわざわと不安な気持ちにさせる。  やはり何か失望されたのではないか。こんなおじさんとは付き合えないと、今頃後悔しているのではないか。  せっかくおひとりさまにも慣れて快適に過ごしていたというのに、ここ数日俺はまた、厄介な感情に振り回されっぱなしだ。  一日の勤務を終えて定時で学校を後にする。明日の勤務は午後から数時間のみ。私立高校の教員向けセミナーに、校務パソコンを使ってリモート参加する予定である。  俺が新任のころはこういったセミナーは現地へ赴かなければいけないことが多かったが、今の時代は何でもリモートである。便利になったものの、リモート会議の操作には未だに慣れない部分が多く、不安が大きい。  まずは参加するところからだ。上手くできるかどうかを不安に思いながら、何となく、久世の顔が浮かんだ。俺が機械操作に手こずっていると、なんだかんだ不満を言いながらもいつも助けてくれる久世がいたら、どれほど心強いことか。  残念ながら、明日も久世は年休のようだった。まだしばらくは会えないことを思って、自然と溜息が出る。  夕食を済ませてシャワーを浴び、ベッドに入る。定時ぴったりに帰ってきたため、いつも通りのルーティンを済ませたつもりが、かなり早い時間になってしまった。  それでもやはり、部屋を暗くしてベッドに入ると、いつものアレがくる。ムラムラと、体が疼いて仕方ないアレだ。  懇親会の夜、中途半端に昂った体でお預けを食らったせいで、ここ数日の俺の欲求不満は最高潮である。無視しても鎮まりそうもない体に諦めて、また虚しい行為に勤しむ覚悟を決めると、体を起こして準備に取りかかった。  前だけでは済まないので、汚れないようシーツの上にタオルを敷く。いつも思うけれど、一人でこういうことをするために準備する時間は、虚しいにもほどがある。自分一人の体の熱すらコントロールできないなんて、人の体は不便極まりない。  後ろを弄るための潤滑剤を準備して、さあベッドに入ろうとしたところで、突然、ベッドの傍に置き、充電コードに繋いでいたスマホが震え始めた。なんというタイミングだろう。気まずい気持ちで着信相手を確認する。  そこには、『久世先生』と表示されていた。 「……!」  本当に、なんてタイミングだ。思わず焦って、手に持っていた潤滑剤のボトルを床に落としそうになってしまった。片手で掴み直し、もう片手で慌てて通話に出る。 「も、もしもし」  緊張しながら通話口に向かって話しかける。やっと連絡をくれたことへの喜びと、もしこの電話が俺の不安を的中させるような、例えばやっぱり考え直してお付き合いはなしにしましょうだとか、そんな内容だったらどうしようという不安で、緊張が高まった。 『お疲れ様です。夜分すみません』 「お疲れ様です……大丈夫、気にしないで」  俺が答えると、通話口の向こうで久世はしんと黙り込んだ。長い沈黙を、ドキドキしながら耐えていると、やがて『あの』と久世が口を開いた。 『今、何してましたか』 「え……っ⁉ い、今?」 『はい』  思わず、俺は片手に持った潤滑剤のボトルを見た。通話なんだからバレるわけないのに、慌ててそれを背中に隠す。 「ええと、その、普通に……寝ようとしてたところ」 『すみません、邪魔してしまいましたか』 「いや! 全然、大丈夫。邪魔なんかじゃ、ない」  待ちに待った久世からの連絡が、勘違いした久世によって早々に終わらせられそうになり、焦ってしまう。 「連絡、ずっと待ってた。……遅いよ」  つい、恨みがましくそんなことを言ってしまう。スピーカーの向こうで、久世が息を呑むような気配がした。 『すみません……あの、本当に連絡していいか分からなくて』 「なんで今更、そんなこと」 『まだ信じられなかったんです。神部さんが、俺を受け入れてくれたことが……ひどいことを言ってしまって、完全に、嫌われたとばかり思っていたので』  懇親会の夜、自分の失言を誠心誠意謝ってくれた久世を思い出す。俺の浮気を疑うような久世の発言に傷ついたのは事実で、未だにそれを許せるかと聞かれたら、すぐには返事ができない。  でも、こうして俺の気持ちを慮って、連絡を控えてくれるような彼の心遣いには、確かに心を温かく癒してくれるものがあった。 「嫌ってなんかないよ。そりゃ、完全に許したわけじゃないけど……」 『神部さん……』 「一つだけ約束してくれたら、俺ももう、忘れるから」  繋がった通話の先で、久世が緊張する気配がする。 『聞かせてください。どんなことですか』 「……俺のパートナーになってくれるなら、絶対、浮気しないって約束して」  後ろ手に、潤滑剤のボトルを握る手に力がこもる。たとえ久世の気持ちがなくなったとしても、それでも、もう二度とあんな惨めな思いをするのだけはごめんだ。 『約束します。絶対しません。するわけないです』  少しの沈黙の後、力強く返事をくれた久世に、心の隙間が満たされていくような気がした。 「本当に? ……キスだけでも浮気だけど?」 『神部さん以外にキスしたいなんて思いません!』  必死な久世の声は、嘘がない本心のように感じられて、口元が緩んだ。  付き合い始めの、一番相手に夢中な時にした約束なんて、何年も経てば忘れるもの。どんなに好きだと思った相手でも、その熱が冷めるのは一瞬だと、そんなことはもう分かっているのに。  一人でいたほうがずっと気楽だと分かっていても——それでも。俺はまた、その沼へ身を投じてしまう。 「久世先生……次、いつ会えますか」 『え……?』 「会いたい……」 『……っ』  こんな会話を通話越しにするだけなんて耐えられない。切なくてもどかしくて、俺はその場に蹲った。 『すぐ行きます……! 今、家ですよね』 「うん……この前のアパート、駐車場は五番だから」 『待っててください!』  ブツリと通話が途切れて、俺は蹲ったまま耳に当てていたスマホを持つ手を力なく下ろした。顔が熱い。鼓動がうるさい。今、久世がこちらに向かっていると思うと、じっとしてはいられない気持ちになる。  とにかく人を迎える準備をしなければと立ち上がって、ふと自分の片手を見た。……しっかりと握り締めている、潤滑剤のボトルを。 「いやいやいや……! 準備って言っても、そういうアレじゃないから!」  誰にともなく言い訳をして、うろうろと自分の部屋の中を彷徨った後、クローゼットの中にそれを隠した。他に変なものは出ていないかと、部屋の中を見渡す。ベッドのシーツに敷いたバスタオルが目に入った。慌てて回収して洗面台の棚に突っ込む。  他に変なものはないだろうか。昨日掃除したばかりだけれど、念のためと思いもう一度フローリングワイパーで床を掃除する。玄関の靴が左右ばらばらに散らばっているのを見つけて、綺麗に並べ直した。他には……。  ちょうどそのタイミングでインターホンが鳴った。ギクリと緊張して、玄関の扉の前へ向かう。  深呼吸して鍵を開け、ゆっくりと扉を開いた。 「久世先生……」  いつか見たような、上下スウェット姿。職場ではしっかりセットされている髪も、今は無造作に跳ねている。軽く息も上がっているようで、本当に急いで来てくれたのだと思うと、胸に愛おしさがあふれて止まらなくなる。 「神部さん」  俺の名前を呼んだ久世の手に触れて、部屋の中に引き寄せる。バタンと音を立てて玄関の扉が閉まった。引き寄せた久世の胸に、そのまま、自分の顔を埋めた。いつか久世の家で服を借りた時と同じ、清潔な洗剤の香りがして、頭がクラクラする。 「神部さん……」  これまで、職場で何度も俺に厳しく注意をしていた久世の声が、切羽詰まって切なげに俺の名前を呼ぶ。体の芯が痺れるような感覚があった。恐る恐るというように、俺の背中に回った手が、優しく俺を抱き締める。簡単に振り解けてしまえるような、久世のこの優しい抱擁が、もうとっくに離れられないほど俺を捕らえていたのだと実感した。 「久世先生……好きです」  久世の温もりに包まれながら囁いた告白に、久世がビクリと反応する。優しい抱擁に少しだけ力がこもって、ぎゅっと抱き締められる。 「俺も、神部さんが好きです。ずっと好きでした。六年前から、ずっと」 「六年……⁉」  思った以上の年月の長さにぎょっとして、顔を離す。腕の中から見上げた久世は、今まで見たこともないくらい真剣な表情をしていた。  六年っていったら、新任の久世が桜ヶ峰にやってきた年だ。ずっと好きだったとは聞いていたけれど、出会ってすぐの頃から思ってくれていたなんて、全然気づかなかった。  ずっと、嫌われていると思っていたのに。恋人がいると分かっても、それでもずっと自分だけを思い続けてくれていたなんて、そんなの……——。  胸にあふれる愛おしさは、もう堪えようがない。赤くなった顔でそれ以上久世の熱視線に耐えられず、目を伏せた。 「神部さん……」  久世の手のひらが俺の頬を包む。長い指先が耳元に当たって擽ったい。あの夜と同じように、久世の手のひらに自分の頬を擦り寄せた。  もっと触ってほしい……もっと。 「っ……かわいい」  思わずこぼれ落ちたようなその言葉が胸を満たす。誰かから与えられる「可愛い」なんて言葉には、もう振り回されないと決めたはずが、どうしようもなく嬉しく思う自分の気持ちを止められなかった。  自分にとって、可愛いなんて言葉をかけてもらえる期間が、もう残り少ないということは分かっている。ましてや、こんなに歳の離れた久世相手であれば、その期間はもっと短いだろう。  今は何をどう血迷ったのか分からないけれど、こんなおじさんを可愛いと思ってくれる久世も、ただ消費されるだけのこの可愛さが尽きた時、きっと、貴弘と同じになる。分かっているのに……本当に、どうしてこんなにも、人のこころは思い通りにならないのか。  頬に添えられた久世の手に自分の手を重ねる。甘えるようにその手のひらへ擦り寄ると、久世は喉を鳴らして俺に近づいてきた。 「神部さん……」 「……久世せんせ、」  最後まで言い終わらないうちに唇を塞がれる。 「……ん」  ちゅ、ちゅ、と繰り返される甘いキスに酔いしれて、久世の首筋に腕を回した。 「ん……っ、ん、はぁ」  気持ちいい、もっともっとしてほしい。さっき一人で鎮めようとしていた体の疼きがぶり返してくる。  自分の下半身に熱が集まっていく。久世を抱き締める腕に力を込めた。  久世は触れて重ねるだけのキスを何度も繰り返す。じりじりと焦らされるような熱が溜まっていく。 「神部さん……」 「ん……、なに、久世せんせい」  もどかしく思いながら、久世の呼びかけに応える。唇を離しても、離れがたくて、吐息がかかるような至近距離で会話を続けた。 「俺のこと、名前で呼んでくれませんか。……その、こういう時に、先生って呼ばれるの、ちょっと」  困ったような久世のお願いに、ふっと笑う。 「わかる……じゃあ、えっと」 「直哉です、久世直哉」 「知ってるよ……なおや」  六年も一緒に仕事をしているのだから、名前くらい覚えている。だが、その名前をこんな風に呼ぶことがあるなんて、思いもしなかった。気恥ずかしい気持ちで、馴染みのない音を紡ぐ。  久世が俺を抱き締める腕に、また力がこもった。服越しに生々しい体温が伝わってきて、その温度すらも気持ち良く、俺の快感を呼び覚ます。 「尊さん……」 「……!」  今度は久世が俺の名前を呼んだ。ずっと苗字で呼ばれていた相手に、突然名前で呼ばれるのは、何というか、こう……! 「恥ずかしい……」  いよいよ羞恥心が振り切れてしまい、久世の胸に顔を埋めて隠れる。 「すみません、嫌ならもう呼びません」 「違うよ! 恥ずかしいだけで、嫌なわけじゃないから」  申し訳なさそうな久世の声に焦って、顔を上げる。驚いたような久世と視線がぶつかって、また恥ずかしくなる。俯いて視線を逃しながら、口を開いた。 「俺のことも、名前で呼んで」 「……尊さん」  久世が感激したような声で、また俺の名前を呼んだ。俺の顎を手で掬い、またあの焦げつきそうなくらい熱い視線で見つめられる。  久世のその視線を、ずっと自分だけに向けていてほしいと、分不相応な願いを抱いた。どちらからともなく、また唇を重ねる。ちゅ、ちゅ、と音を鳴らして、何度もその場所を触れ合わせる。  ジンジンと下半身が痺れて痛いくらいだった。いつまでもこんな場所で、触れるだけのキスなんかじゃ我慢できない。 「直哉、明日は、休みだよね」 「どうして知っているんですか」 「……今日、予定表確認したから。次会えるの、いつかなって」  朝、出勤してすぐ確認した、予定表を思い出す。久世が今週出勤するのは、水曜のみ。俺も午前勤務にしているので、次に会えるのは水曜の午前中だと思っていた。 「俺、明日は午後勤務だから。……泊まっていくだろ?」  久世が俺を見つめたまま、目を見張って固まった。その喉が、ゴクリと鳴って上下するのを見た。  俺の家の狭いベッドでは、男二人が一緒に寝るのは難しい。落ちないように、ぴったりと体をくっつけて横になる。 「ごめん、狭くて」 「いえ、俺はいいんですけど……尊さんは、狭くないですか。やっぱり、床で寝ましょうか」  包み込むように大切に、俺を抱き締めながら久世が言う。久世の心遣いは嬉しいが、やっぱりちょっとズレている。恋人が泊まっていくのに、離れ離れで寝ようなんて、そんなの冗談じゃない。 「ううん……このまま、一緒に寝たい」 「尊さん……」  お互いの体温に包まれて、鼓動すらも聞こえる距離で、俺たちはまた見つめ合った。ベッドに入る時、久世は眼鏡を外している。裸眼の久世はあまり見慣れておらず新鮮で、余計にドキドキする。引き寄せられるように、久世の唇へ自分の唇を重ねた。 「ん、ん……」  お互いの唇を押し潰すようなキスをする。触れては離れ、離れてはまた触れる。その繰り返し。  こんなに触れるだけのキスをじっくりするのは初めてかもしれない。貴弘は唇が触れ合えばすぐ、舌を絡めてきたから……また無意識に思考が前の恋人との比較へ向かおうとして、自己嫌悪に陥る。こんな時に、何を思い出しているんだ、俺は。 「んぅ……」  ……いや、でも。さすがに長すぎるのでは。  久世は触れるだけのキスを、強さを変えたり、唇の表面を擦り合わせたりしながら情熱的に繰り返してくれるものの、ちっとも次の段階へは進んでくれなかった。  ムラムラと体の熱ばかりが溜まっていく。ほしい。キスだけじゃ足りない。いっそ自分から舌を入れてみようか。……いや、待て。そんなことしたら引かれるのでは? 何しろ恋人と付き合い始めた頃のことなんて、もう十年も前のことでよく覚えていない。そもそも貴弘とは、会ったその日に口説かれてすぐセックスしたような気がするし。その前の恋人はどうだったっけ……? 「んん……!」  無意識に腰が動いて、下半身を擦り付けそうになってしまう。駄目だ、もう限界……! どうすればいいんだ、どうしたら久世は、もっと先に進んでくれる? もどかしい気持ちを抱えて縋るように久世の胸元を掴んだ。そのまま、掴んだ服をきゅっと軽く引っ張る。 「なおや……」  切なく名前を呼んだ。久世からはぁ、と熱っぽい吐息が漏れるのが分かる。 「尊さん……」  俺と同じ、熱情を滾らせた目で見つめられて、背筋がゾクゾクと甘く痺れた。  よかった、伝わった……! 「……じゃあ、おやすみなさい」 「え⁉︎ お、おやすみ……?」  だが久世は俺の額に優しくキスをすると、あくまで紳士的に、ぎゅっと俺を抱き締めて、そのまま寝ようとし始めた。  嘘だろ……本当に? このまま寝るの⁉︎  俺の誘い方が悪かった? やっぱり、ちゃんと言葉に出さないといけなかったのだろうか。……でもなんて言うんだ? セックスしたいって……⁉︎ そんなの恥ずかしすぎる!  未だ燻る熱を体の内側に残したまま、俺は悶々として全く寝付けず、一人でぐるぐると考え続けた。

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