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第12話
ジメジメとした暑い日が続く中、月が替わり、八月に入った。
八月前半は、お盆休みまでほとんど毎日年休を入れている。この期間はもともと、一人で旅行にでも行ってのんびり過ごす予定だった。
「旅行ですか」
「うん」
久世に休暇中の予定を聞かれて、答える。
正式なパートナーになって二週間ほど。授業もない夏季休業期間中、俺と久世は時間が許す限りどちらかの家で過ごすようになった。
今日は久世のみ出勤で、定時で上がった久世が仕事帰りにうちに来ている。明日は二人とも休みなので、きっとこのまま泊まっていくだろう。
ソファ代わりに座ったベッドで、隣に座る久世を見る。
「直哉も、来週から休みだろ」
「はい」
「……どこか、行く? 一緒に」
尋ねながら、ちょっとだけ気恥ずかしくなり、誤魔化すように久世の肩に凭れ頭を預けた。
「いいんですか?」
「うん……二人で行きたい」
様子を窺うように、久世に凭れたままそっと視線を持ち上げる。久世はぐっと口を引き結んだまま、険しくなりかけた表情を抑えるように眉間に手を当て、苦しげに声を絞り出した。
「すみません、ちょっと時間をください。処理に手間取っているので」
「そ、そう……いいけど、別に」
たまに久世はこういうおかしなことを言う。冗談という雰囲気でもないので、あまり口を挟まないようにしている。
やがて長い息を吐き出した久世は、険しい表情を解いて優しげな笑みで俺を見た。
「嬉しいです。どこへ行きましょうか」
「うん。どこがいい?」
久世の優しい笑顔には、まだあまり慣れていない。恋人になったんだと実感して、何だか落ち着かない気分になる。
「尊さんは、どこへ行こうとしていたんですか」
「詳しく決めてたわけじゃないけど……温泉とか?」
「いいですね」
久世が片手でスマホを取り出し、検索を始める。
「せっかくなので、景色のいい海辺をドライブしましょう」
「いいの?」
「もちろん」
元々は一人で行くつもりだったので、当然ながら電車で行けるところを探すつもりだったが、どうやら久世が車を出してくれるつもりらしい。
「俺も、車買おうかな」
「運転できるんですか?」
「多分……免許取ってから一回も運転してない、ペーパーだけど」
免許を取ったのは大学時代なので、かれこれ十五年以上は運転していないことになる。俺が打ち明けると、久世は呆れたような顔つきになった。
「車が必要な時は、俺を呼んでください。危ないので、絶対自分で運転しないように」
「えぇ、でも」
「返事は?」
「はい……」
恋人になっても、やはり久世は久世である。こういう時の彼はめちゃくちゃ怖い。自分での運転を禁じられて落ち込みながら答えると、久世は仕方なさそうに笑ってスマホを置き、俺の頬に片手で触れた。
「あんまり俺を心配させないでください。ただでさえ、色々心配なのに」
「心配って、何が?」
「色々ですよ」
頬に触れた久世の手に、自分の手を重ねる。俺が首を傾げると、久世はまた仕方なさそうに笑って、俺に顔を近づけてきた。
「……ん」
キスをされると思って、目を閉じる。思った通り、唇に柔らかいものが触れた。
「ん……んぅ」
そのまま、触れるだけのキスを繰り返して、久世は俺の体をそっとベッドに押し倒す。かけていた眼鏡を外してベッドの近くのテーブルに置くと、俺の横に手をついて、覆い被さる格好で俺を見下ろした。
「尊さん……好きです」
「ん……俺も」
囁きながら、また唇に触れようとする久世へ応える。
「好きだよ……直哉」
一層激しく唇を重ねてくる久世の首に、腕を回して抱きつく。ちゅ、ちゅ……と何度もリップノイズが鳴った。
「ん、ぅ……んん」
……まただ。またこれだ。言葉ではたくさん好きだと言ってくれるのに。キスだってたくさんしてくれるのに。何で久世はこうも……!
「はぁ……尊さん」
「直哉……」
今日こそはこの先に進んでくれと願って、ほとんど涙目になって久世を見上げる。ジクジクと下半身が熱を持って、苦しい。久世の首に回した腕に、ぎゅっと力を込める。離れないで、このまま、もっとして……!
「じゃあ、宿を決めましょうか」
だが俺の願いも虚しく、久世は焦ったようにパッと体を離して、またスマホの操作に戻ってしまう。
「……、うん……」
結局今日もお預けだ。泣きたい気持ちで、俺も体を起こした。
旅行の計画がまとまり、出発を三日後に控えた日の夜。俺は自宅で一人、悶々としながらベッドの中で過ごしていた。
久世は一向にキスから先へ進もうとしない。こちらから距離を詰めても、久世がキスをやめようとしたところを追い縋って更にキスをしてみても、「これ以上は無理です」と言って俺から離れてしまう。
久世の言葉に、さすがに落ち込み始めていた。これ以上は無理、ということは、久世はキスより先には進みたくないということだ。
もしかして、俺は久世に体の関係まで求められていないのかもしれない。やはり俺が、歳の離れたおじさんだから、性的な魅力を感じないとか。もしくは、そもそも久世に性欲自体がないとか。
俺は今まで、特定のパートナー=恋人=体の関係も許容した相手、と考えていたけれど、それが間違いだったのか。今になって思えば、貴弘は外で浮気しながらも俺を抱き潰すほどの性欲の権化である。食事中も料理中も、通勤前でも、お構いなしに求めてくるようなやつで、アレを基準に考えてはいけないのかもしれない。
だとすればきっと、これが本当のパートナー関係なのだ。付き合い始めてすぐ、頭の中でいやらしいことばかり考えて、こんなにムラムラしているなんて、俺の方がおかしいに違いない。
考えていたら、自分がひどく淫乱で最低な人間に思えてきた。久世は健全なお付き合いをしようとしているのに、俺ばかりがこんな下心を抱いているなんて、情けなくて仕方ない。
俺も真っ当な人間にならなければ……すぐセックスなんてもってのほか、キスだけで満足できるような健全な人間になるのだ。
今夜もまたジクジクと熱の燻る体を無視して、早く眠ろうと布団を被る。ふと、貴弘が最後に俺に言った、呪いのような言葉を思い出した。
——あんな男に、満足できるはずない……。
まるでこの状況を予想していたかのような言葉に、ゾクリと背筋に寒気が走る。
そんなことはない。今はまだ、こういう健全な関係に慣れていないだけで、俺だってちゃんと普通のお付き合いができるはずだ。
固く目を閉じて眠気が訪れるのを待つ。思い出したくないのに、貴弘の不気味な笑みが浮かんだ。
旅行の出発日となるその日は、朝から眩しいくらいに晴れ渡っていた。夏の強い日差しがギラギラとアスファルトを照らしている。
半袖のTシャツから露出した素肌が、その日差しを受けて焦げ付くようだった。インドア派には厳しい気候だ。旅行の準備を詰め込んだボストンバッグを持って、アパート前の歩道で額に滲んだ汗を拭った。
少し待っていると、久世の車がやってきて、俺の前でハザードランプを点けて停車した。
「おはようございます。外にいたんですか。暑かったでしょう、待たせてすみません」
「ううん。そろそろかと思ったら、待ちきれなくて、俺が勝手に待ってただけだから」
運転席から降りてきた久世がトランクを開けてくれる。そこにボストンバッグを詰めて、トランクの扉を閉めた。
「……直哉?」
ふと、トランクを開けてくれた久世を見る。久世は何故か顔を背け、ぶるぶると小刻みに震えているようだった。
「どうかしたの」
「気にしないでください……行きましょう」
「う、うん」
またいつもの険しい顔をしているが、何か今のやりとりに、久世の心を動かすところがあっただろうか。謎である。
車が走り出して、最初の目的地へ向かう。久世の運転は、いかにも几帳面な彼らしく、丁寧だ。こんな快適な環境で、俺は助手席に乗っているだけなんて申し訳ない。
「俺だけ楽して、ごめん。途中で運転変わろうか」
「この前の話忘れたんですか?」
「覚えてるけど……確かに、こんな高級車を運転するのは、荷が重いかな」
「どんな車でも駄目です」
手厳しい……今度、久世に隠れてこっそり運転の練習に行こうか。自信を持って運転できるようになって、驚かせるのも面白そうだ。
今回は、せめてガソリン代だけでも持とうと決めて、お言葉に甘えることにする。
目的地の海辺までは車で二時間半ほどである。途中、休憩のためにサービスエリアへ寄った。
学校行事以外で車移動する機会なんて滅多にないので、サービスエリアなんて久しぶりだ。期待に胸を膨らませながら車を降りる。
「アイス食べよう、アイス!」
「尊さんて、甘いものが好きですよね」
「うん、好き。……男らしくないかな」
「いつの時代ですか。令和ですよ。生徒に多様性を教える立場でしょう」
呆れたように笑う久世の顔が優しくて、ドキリとした。
改めて、車から降りた久世の全身を見る。久世は半袖のカラーシャツとデニムパンツを穿いていた。家着でも、スーツでもない。外出用の装いがまた新鮮で、胸がときめく。
スリムで脚も長く、スタイルがいいせいか、何を着てもモデルのように似合うと思う。惚れた欲目ではない証拠に、すれ違う女性が何人か久世を振り返るのが分かった。
「尊さん?」
家の中では分からない、人を惹きつける久世の魅力を目の当たりにして、ザワリと胸に不安が過ぎる。十も年下の彼と付き合うことを決めた時、老いていくだけの自分では不釣り合いだなんてことは分かっていたつもりだったが、それでもやはり、外へ出るとその事実から目を逸らせなくなる。
「……ごめん、行こ」
久世との付き合いが、長く続くとは思えない。ただ、今はまだ、そのいつか必ず訪れる終わりを考えたくはなかった。
売店で販売しているソフトクリームは、バニラ、抹茶、チョコレートの三種類の味があった。どれも捨てがたいラインナップに、何を食べようか俺が真剣に悩んでいると、久世が助け舟を出してくれた。
「抹茶とバニラのミックスを一つと、チョコレートを一つにすればいいんじゃないですか」
「えっ、でも俺、さすがに二つは食べられないよ」
「俺も手伝いますよ」
そう言うと、久世はソフトクリームを二つ注文してくれた。やがて久世の提案通り抹茶バニラのミックスソフトクリームが一つと、チョコレートソフトクリームが一つ提供される。
「どっちから食べますか」
「チョコレート!」
チョコレート味のソフトクリームを一つ受け取って、早速食べ始める。暑い中食べる冷たいソフトクリームは、体に染み渡るほど美味しい。口の中に残る甘くてほろ苦いチョコレートの風味も最高だった。
「美味しい……!」
「美味しいけど、急いで食べないと、あっという間に溶けますね」
「ほんとだ、急がなきゃ」
慌ててソフトクリームを食べ進める。時々、久世が差し出してくれた抹茶バニラも分けてもらって、お礼に俺のチョコレートも分けてあげた。
久世の手から俺がソフトクリームを食べる時も、久世が俺の手からソフトクリームを食べる時も、やはり久世は険しい顔をしていた。今更だが、久世のこの顔は俺を可愛いと思って表情が緩むのを堪えているのか、それとも本気で怒っているのか分からないので、そろそろやめてほしい。
サービスエリアを出発し、更に一時間ほど走ると、窓の外に海が広がった。
「すごい……!」
思わず、助手席の窓に張り付く。海なんて見るのは久しぶりかもしれない。天気が良いおかげで、夏の日差しを浴びた海面がきらきらと輝き、その美しさに思わず見入ってしまう。
海沿いの道を走って、最初の目的地へと向かう。海水浴場もあるのか、ところどころビーチに人が溢れているのが分かった。
「直哉は、泳ぎは得意?」
「ノーコメントです」
「カナヅチなのか」
「そういう尊さんはどうなんですか」
「ノーコメントでお願いします」
道理で二人とも海辺へ向かいながら海水浴をしようとは言い出さないわけである。文系、理系と分野は違うものの、もしかしたらスポーツが苦手という点では気が合うかもしれない。
とはいえ、海は見るだけでも十分楽しい。夏らしい景色を堪能しながら、最初の目的地であるカフェに辿り着いた。
海辺に建ったログハウス調の建物には、サーフボードが立てかけられていたり、貝殻のモチーフがあしらわれている。景観にマッチした、おしゃれでかわいい建物だ。
雑誌でも紹介されている人気店のようだが、ランチには早い時間に到着できたので、まだ混んではいないようだ。ドアベルを鳴らして中に入ると、店員がすぐに席へ案内してくれた。海が一望できる窓際の席だ。
メニュー表を見て食べたいものを決める。
「一番人気はシーフードカレーみたいだけど、オムライスも美味しそう。直哉は何にする?」
「俺がカレーを頼むので、尊さんがオムライスにして、またシェアしますか」
「駄目だよ、今度はちゃんと、直哉が食べたいものを注文して」
「俺は何でもいいですよ」
結局、久世がシーフードカレーを注文して、俺がデミグラスソースのオムライスを注文した。料理が運ばれてくるまでの間、ぼんやりと窓の外に広がる大海原を見つめる。
こういった大自然の壮大さを前にすると、自分の悩みがちっぽけに感じるとは、よく言われるところだ。いっそのこと、俺のこの欲求不満という厄介な悩みも、ちっぽけにしてくれないだろうか。
こうやって二人で出かけて、綺麗な景色を見たり、美味しいものを食べたり、それだけでも幸せだと感じる自分は確かにいるのに、なぜこうも毎晩、体の疼きを抑えられないのだろう。……やっぱり、俺はどこかおかしいんだろうか。あまりにも不健全な悩みに、憂鬱な溜息が漏れた。
「尊さん? どうしたんですか」
俺の溜息に気づいた久世が、こちらを気遣うような顔で見ていた。
「ごめん、何でもない」
心配させないようにと慌てて笑いかけるが、久世はどこか不安そうな表情のままだ。
ちょうどその時、料理が運ばれてきた。海の幸がたっぷり入ったシーフードカレーと、半熟卵の上にデミグラスソースがかかったオムライスだ。
「美味しそう。いただきます!」
気持ちを切り替えるように元気に言って、自分の前に置かれたオムライスへスプーンを入れる。一口ぶんを掬って口の中へ入れた。
「……!」
トロトロの半熟卵、牛肉と玉ねぎたっぷりのデミグラスソース、それに甘いバターライスが口の中に広がって、最高の美味しさだ。飲み込んでしまうのが勿体無い。存分に味わって食べる。
ふと、目の前にいた久世がこちらを見ていることに気づいた。
「な、なに」
「いえ、美味しそうに食べるなと思って」
「見られてると恥ずかしいんだけど」
「すみません。こっちも食べますか」
久世がまだ手をつけていなかったカレーを一口掬って、スプーンをこちらへ運んでくれる。首を伸ばしてそれをぱくりと口に入れた。
「美味しい……けど辛い!」
スパイスがしっかり効いたカレーは、思った以上に辛口だった。美味しいけれど、俺には少し辛すぎるかもしれない。急いでコップに注がれた水を飲む。
「大丈夫ですか」
「うん。でも、オムライスにしておいて良かった。直哉は辛いの平気?」
「人並みには……うん。美味しいです」
まだ舌がヒリヒリするカレーを、久世は美味しそうに食べている。大ぶりのエビや輪切りのイカが入っていて美味しそうに見えるが、やっぱりもう少し辛くないほうが、俺としてはありがたい。
「この後はどうしようか。チェックインまでまだ時間があるから、どこか寄りたいな」
「実は、もう考えてあるんです。この近くに良い場所があって」
「どんな場所?」
「秘密です。行ってからのお楽しみ」
「えぇ、何それ」
久世もかわいい意地悪をするものだと思って、オムライスを食べながら笑ってしまう。
食事をしながら、久世が俺を優しい目で見て微笑んでいることに気づいて、ドキリとした。急に恥ずかしくなって、スプーンを咥えたまま赤面してしまう。
本当に、久世とのお付き合いは、俺が今まで経験してきたものとあまりに違って、調子が狂う。こんなに健全で、いかにもデートみたいなやりとりには慣れていない。久世の優しそうな笑顔にもやたらときゅんとしてしまうし、自分が自分でなくなるようだ。
気恥ずかしさを誤魔化すように、皿に残ったオムライスを無心で食べる。
食事を終え、カフェを出た後、再び久世の運転で海辺を少し走った。
しばらくすると、港に隣接した海浜公園が見えてきた。並木や遊歩道の他にも、海を見渡せる展望台があるようで、夏休みのためか平日でも人で賑わっていた。
「もしかして、あの公園?」
「半分当たりです」
意味深なことを言って、久世は公園の駐車場に車を停めた。半分当たりとはどういう意味だろう。不思議に思って、先を歩く久世の背中を追う。
久世は公園内にある大きな建物へ向かった。近代的なオブジェのような作りの建物だ。壁に施設名と思しきロゴが入っている。
「アクアライブラリ……?」
「水族館と図書館の一体型施設らしいです。……どうですか、興味ありますか?」
「めちゃくちゃある!」
「よかった」
何だその、ワクワクするような組み合わせは! 水族館も好きだし、図書館も好きなので、テンションが上がってしまう。
早く入りたくて、自然と早足になる。前を歩いていた久世に追いついて、隣に並んだ。
「入場券を買わなくていいの?」
「オンラインチケットを取っているので、大丈夫ですよ」
「すごい。さすが、デジタル世代」
「尊さんが苦手なだけで、これくらい普通ですよ」
久世は呆れたように笑うが、俺にとってはこういったチケット一つ購入するのも一苦労なので、やはりすごいと思う。
オンラインチケットを購入しておいてくれたおかげで、難なく入場できた。中に入ってまず目に飛び込んできたのは大水槽だ。
「わあ……!」
薄暗い館内、青く光る水中を様々な魚が優雅に泳いでいる。見惚れるほどに美しい。思わず立ち止まって視界いっぱいに広がる水槽を見つめた。
「きれいだな……」
無意識にそんな言葉を呟く。ふと視線を落とすと、水槽から漏れた光が、足元に揺らめく水面を映し出していた。まるで水の中にいるみたいだ。水槽の中を優雅に漂う魚たちの一つになったような気持ちで、もう一度視線を持ち上げる。
「あ、あそこ見て、直哉。あの魚」
魚を指差し、隣に立つ久世の服の裾を引っ張る。
「模様がかわいい。なんていう魚だっけ。縞々の……」
話しながら久世を見ると、久世の視線は水槽ではなくこちらへ向いていた。ばちりと目が合う。まさかこちらを見ているとは思わなくて、驚きのあまり掴んでいた裾を離した。久世も驚いたような顔をして、勢いよく顔を背ける。
「すみません、どれですか」
「え、ええと……あそこの」
「イシダイですかね」
「うん、多分、そう」
妙な空気が流れ、会話がぎこちなくなってしまった。薄暗くてよかった、明るかったら赤くなった顔がバレてしまうところだった。
順路に沿って進むと、丸い水槽が間隔を空けて並び、その水槽を取り囲むようにずらりと本棚が並ぶスペースに出た。ところどころにソファやベンチがあり、本が読めるようになっている。
それぞれの水槽は色鮮やかなライトで照らされていて、中には熱帯の魚が泳いでいる。カラフルで、見た目にも楽しいきらびやかな魚たちだ。
すごい、本当に水族館と図書館が合体したみたいな場所だ。思わず目を輝かせる俺を、久世がクスリと笑った。
「何か読みますか」
「いいの?」
「時間はたっぷりあるので。好きなだけ読んでいいですよ」
「やった!」
早速一番手前の本棚へと近づいていく。ここは生き物に関係する書籍が置かれているようだ。図鑑や専門書など、色々な種類の本がある。
次の本棚はデザイン関係だった。建築の歴史や画集など、やはり多岐にわたる本が置かれている。
その次は児童書。夏休みなので、子連れの客も多い。近くのベンチに座って、大人しく本を読む子どもの姿を見かけた。
その次は文学書だ。小説や詩集、エッセイなど。心なしか海や水に関連する書籍が多い気がする。水族館にかけているのだろうか。
ふと、夏休み前の定期考査でテスト範囲になっていた、著名な作家の小説タイトルが目に入った。そういえば、この物語の始まりは、主人公が海水浴場で『先生』と出会うところから始まるんだっけ。
棚から本をそっと引き抜いて、近くのソファに座った。ソファの近くには、クマノミの水槽がある。珊瑚礁の隙間を泳ぐ可愛い魚たちをしばらく見た後で、手元の本へ視線を移した。
ぱらり、ぱらりと音を鳴らして、ページをめくっていく。本を読む時は、時間を忘れて没頭してしまうことがほとんどだ。今日も俺の意識は、次第に物語の渦中へ引き込まれていく。
謎めいた『先生』に強く心を惹かれる主人公。他者を寄せ付けず、自ら孤独を望むような態度の『先生』。
主人公を拒みながらも、完全には突き放せない。誰にも明かせない過去を持ちながら、しかし誰かに打ち明けたいと思っている。この物語に登場する『先生』という人物は、矛盾に満ちている。この矛盾こそが人間臭く、創作の人物に息を吹き込んでいるのだろう。
人のこころは、本当にままならない。一人のほうが、ずっと気楽に過ごせたはずなのに。老いていく自分にうんざりすることもなく、いつか必ず訪れる、可愛さの期限に怯えることもなく。
それなのに、どうして俺は……——。
ふと、紙面から顔を上げる。いつの間にか、俺の隣に久世が座っていた。
俺の読書を邪魔しないようにか、二人の間には一人分のスペースが空いている。眼鏡の奥の真剣な眼差しが落ちる先は、久世の手元の本だった。海洋生物のイラストが描かれ、その生態について解説されている本のようだ。
俺が集中している間に、随分と時間が経ってしまったようだ。きっと待たせてしまっただろう。その間、近すぎない距離で隣に座って、こうして一緒に本を読んでくれていたのだということが、俺の胸をぎゅうっと苦しく締め付けた。
久世はきれいだ。さっき見た大水槽を優雅に泳ぐ魚みたいに、思わず見惚れてしまうような、完成された美しさがある。彼が真剣に手元の本へ視線を落とす姿には、きっと誰しもが心を掴まれるに違いない。
こちらに気づいて、久世も顔を上げる。目が合うと、ますます胸の苦しさが強くなった。
「尊さん、読み終わりましたか」
「うん。ごめん、遅くなって」
「チェックインまでは、まだ少し時間がありますから。もう少しゆっくりしますか?」
「ううん。まだ、先もあるみたいだし。行こ」
苦しさから逃れるように立ち上がって、本を返しに行く。
この時間が終わらなければいいのにと、ありもしない愚かなことを考える自分が嫌になる。時は待ってはくれない。いつか訪れる終わりに向かって突き進んでいくだけだ。
読書スペースの先にも、いくつかの水槽があった。珍しい色の両生類が飼育された水槽。水中を漂う幻想的な海月。砂から顔を出した白黒模様のチンアナゴたち。
「見て、直哉。あのチンアナゴ、こっち見てる。かわいい」
「はい」
「……ほんとに見てる?」
久世の視線は水槽ではなく俺に向けられている。俺の話は聞いてなくて、適当に答えているんじゃないだろうか。咎めるように睨むと、久世は気まずそうに水槽へ視線を向けた。
「いくら見てても飽きないなぁ」
「はい」
「………」
またしても久世がこっちを見ているような気がしたが、注意しても効果がなさそうなので気付かないふりをした。
更に先には売店があった。水族館のお土産と一緒に、本も売っている。
「何か買って行こうか、記念に」
「そうですね」
しばらくそれぞれ売店の中を見て回った。館内の水槽を写したポストカードが綺麗だったので、大水槽の写真が使われたものを一枚手に取った。
他には、お皿やコップ、カトラリーが置いてあるコーナーが気になって、立ち止まった。引っ越したばかりなので、まだうちにはあまり食器がない。ここで買うのもいいかもしれない。
魚やクラゲの可愛いキャラクターが描かれたグラスを手に取る。少し迷って、お揃いでもう一つ手に取った。
まだ、食器があまりないから……久世が来た時に、久世に出すコップもないと困るから。心の中でそんな言い訳をして、会計を済ませた。
自分の買い物を終えた後、久世の姿を探した。久世はぬいぐるみコーナーの前にいた。姿を見つけ、思わずぷっと吹き出してしまう。
「直哉、それほしいの?」
久世はその手にチンアナゴの大きなぬいぐるみを持っていた。正確には、オレンジと白の縞模様なので、ニシキアナゴだ。
「意外とかわいい趣味なんだな」
「いえ、これは……」
慌てて棚に戻そうとする久世の手から、ぬいぐるみを奪う。一メートルほどの大きさのニシキアナゴは、確かに手触りも良くて抱き心地抜群だった。
「いいな、これ。抱き枕代わりによさそう」
「買いましょう。プレゼントします」
「えっ、いいよそんな。買うなら自分で買うよ」
「俺に買わせてください」
絶対に買わねばならぬという強い意志を感じる気迫に押されて、ぬいぐるみを久世の手へ戻す。
久世はすごいスピードでレジへ向かうと、あっという間に会計を済ませて戻ってきた。
「どうぞ」
真面目な顔でニシキアナゴのぬいぐるみを差し出す久世が、ぬいぐるみより可愛く見える。
「……ありがとう」
お礼を言って、ぬいぐるみを受け取った。アラフォーのおじさんがこんなものをもらって喜んでるなんて、なんだか恥ずかしいと思いながら、ぬいぐるみで赤くなった顔を隠した。
アクアライブラリを出て、宿へ向かう。チェックインを予定していた十七時ちょうどに宿に着いた。海沿いの高台にある老舗の温泉旅館だ。
外観は古めかしさが勝ったが、中は改装されているのか新しく綺麗な作りだった。フロントで受付を済ませ、部屋のキーを受け取る。
部屋は八階だ。キーに書かれた部屋番号の扉を開けて、中に入った。廊下の先に襖があり、その向こうが和室になっている。二人で泊まるには十分な広さだ。
中央に大きなテーブルがあり、急須や湯呑み、お茶菓子が用意されていた。畳のいい香りに、心が落ち着く。
「すごい、絶景!」
部屋の奥に広縁と大きな窓があり、窓の向こうには夕暮れの海が広がっていた。こんな綺麗な景色を部屋からゆっくり眺められるなんて、なんて贅沢な時間だろう。
せっかくなので客室以外もどんな風になっているか確認する。洗面所、トイレ、そして脱衣所と浴室。どこも綺麗な設備が整っていた。
脱衣所には、風呂場へ続く扉の他にも、奥にガラス張りの扉があった。近づいてみると、扉の向こうには湯の張った大きな樽桶があり、露天風呂になっている。
「えっ、部屋に露天風呂がついてるの⁉︎」
「予約ページにも、写真が載ってましたよ」
「見たけど、大浴場の写真かと思ってた……!」
露天風呂の周囲は高い壁で区切られているが、海側はガラス張りで夕焼けに染まった海が一望できる。さざめく波の音まで聞こえてきて、最高のロケーションだ。こんなところで人の目を気にせずゆっくりお風呂に入れるなんて夢みたいだ。
わくわくしながら、この感動を共有しようと隣に立っている久世を見た。久世は俺と目が合うと、少し頬を染めて気まずそうに視線をずらした。
久世の反応を不思議に思い、首を傾げる。こんなにすごいお風呂なのに、嬉しくないのだろうか。
……いや、待てよ。そうか、部屋付きってことは、ここには俺たち以外誰もいないってことで、つまり、二人っきり……!
この後二人で過ごす時間を意識してしまって、急激に恥ずかしくなる。
お風呂なんだから、当然裸になるし、この露天風呂の大きさは、大人二人入るのがギリギリぐらいだ。きっと体が密着する。
温泉に行こうと決めた時は、そこまで考えてなかった。まだ俺たち、触れるだけのキスしかしていないのに。もしかしたら今日、いきなりそんな進展があったりして——⁉︎
毎晩俺を苦しめている、あの体の疼きが蘇ってくる。心臓がドキドキとうるさい。
そうだ、ここまで健全なお付き合いを貫いてきた久世だって、これだけシチュエーションが整っているのだから、さすがに今日はキスの先に進んでくれるのでは? 一度思い当たってしまうと、もう期待を止められなかった。早く夜になればいいのに。ソワソワしながら、くるりと踵を返す。
「ご飯、六時からだろ。お風呂は後にしよう」
「はい」
部屋の中へ戻りながら、まだうるさい心臓を服の上からぎゅっと握って、燻った熱を逃すように溜息をついた。背後で久世がどんな顔で俺の溜息を聞いていたのか、知らないまま。
食事は一階の料亭で提供された。半個室の座敷で、魚介をメインとした会席料理だ。
最初に飲み物を注文する。
「尊さんは、何を飲みますか」
「俺は、ええと……レモン酎ハイにする。直哉は?」
「俺はウーロン茶にします」
そういえば、久世は職場の飲み会では大抵ドライバーなので、アルコールを飲んでいるところなど見たことがない。
「今日は運転ないのに、飲まなくていいの?」
「はい、あまり強くないので。尊さんも、アルコールは一杯までにしてください」
「えぇ、厳しすぎるよ」
確かに俺もお酒は強くない方だが、自分の適量は酎ハイならグラス二杯だと自負している。文句を言っても、久世はどこ吹く風で聞いてくれない。
先付け、椀物、お造りと、見た目にも鮮やかで美味しそうな料理が次々と運ばれてきた。酎ハイと一緒に料理を楽しむ。アルコールで意識がふわふわして心地よい。意味もなく「へへ」と笑みがこぼれる。
「ご飯が美味しいって、幸せだよな」
「あんまり可愛いことばかり言わないでくれませんか。こっちがどれだけ……」
「ん? なに、直哉。何か言った?」
「……何でもありません」
目の前で久世は難しい顔をして溜息をついている。食事が好みじゃなかったのだろうか。こんなに美味しいのに。
焼き物が来る頃にはグラスが空になってしまった。まだ美味しいご飯が続いているのに、このまま終わるのは物足りない。
「やっぱり、もう一杯だけ飲む」
「駄目ですよ。そんなにお酒強くないでしょう」
「大丈夫だって! 二杯まではへーき」
「そんなこと言って……知りませんよ」
久世は心配しすぎである。このくらいで酔っ払うわけないのに。
二杯目のレモン酎ハイが運ばれてきて、料理も終盤だ。かなりのボリュームがあったので、もう満腹である。最後のデザートを食べ終わる頃には、食べ過ぎで苦しいほどだった。
料亭を出て部屋へ戻る。酔っているせいか、普段よりも足取りが少し軽い。意識はふわふわして心地よく、胸の内に浮かんだ感情が、いつもより素直に顔に出て、自然とニコニコしてしまう。
「尊さん、大丈夫ですか」
「大丈夫。ちょっと気分がいいだけだよ」
心配そうにこちらを覗き込む久世の顔を、思わずまじまじと見つめた。
「………」
「な、何ですか」
本当に整った顔立ちだと思った。眼鏡のレンズの奥にある切れ長の目や、よく通った鼻筋。久世の赴任当初は、「ものすごいイケメンがいる」と生徒の間でも話題になったほどだ。
そのとっつきにくい性格が知られるにつれてだんだんと騒がれなくなったが、容姿だけなら、やはり見惚れるほどに美しい。俺のようなおじさんが横に並んでも、恋人に見えないのは当然として、きっと友人にも、兄弟にも見えないだろう。
「……何でもない」
考えたら落ち込んできた。久世から視線を逸らして歩き始める。
もし、自分がもっと若いころに久世と出会っていたなら。俺の歳があと十……いや、その半分でも若ければ。可愛いと持て囃されたあの若さがあれば、もう少し、彼の隣に並び立つことに自信が持てただろうか。
部屋に戻ると、布団が用意されていた。畳の上に、二人分の布団がぴったりとくっついて敷かれていて、気恥ずかしい気持ちになる。
これだけぴったりとくっつけるなんて、布団を用意してくれたスタッフには、俺たちが一体どんな関係に見えていたのだろう。もしかして、恋人に見えたのだろうか……だったら嬉しい。
少しだけ自信を持ち直した。何となく久世と顔を見合わせる。久世も少し気まずそうに、ソワソワしていた。
「あっ、露天風呂! 露天風呂入ろう!」
恥ずかしさを誤魔化すように言って、荷物を漁る。着替え用の下着を出して、クローゼットに置かれていた浴衣と一緒に抱える。
「今すぐですか? お酒が抜けてからの方がいいんじゃないですか」
「大丈夫だって。行こう、直哉」
声をかけると、久世は気まずそうに視線を逸らした。
「俺は後で入ります。尊さん、先に入ってください」
「え⁉︎」
当然一緒に入ると思っていた俺は、久世の言葉が信じられずに驚いてしまう。
「なんで、一緒に入ろうよ」
「いえ、それはちょっと」
「せっかく一緒に来てるのに……」
恋人と温泉に来て、部屋にプライベートな露天風呂までついている、この状況で別々に入るなんて選択肢があるだろうか。断られるなんて思っていなかった俺は、不覚にも泣きそうになってしまった。
俺の顔を見た久世がぐっと苦しそうな顔になる。それでも迷って決心がつかないみたいで、何も言わずに黙り込んでしまった。
「……わかった。もういい」
最初に露天風呂を見た時には、きっと久世も同じことを考えていると思っていたのに、どうやら期待していたのは自分だけだったらしい。
……何だか、ひどく虚しい。
「尊さん、待って」
焦ったように俺を呼ぶ久世の声が聞こえたが、無視して脱衣所へ向かった。扉を閉めて一人になった瞬間、じわりと涙が滲んだ。
——やっぱり、俺の距離感はおかしいんだ。久世が求めている、健全な普通のお付き合いが、俺には分からない。
こんなことで拗ねて嫌な態度を取ってしまって、久世も呆れているかもしれない。情けなくも滲んだ涙を腕で擦った。この調子じゃ、きっと、俺が思ってるよりもっと早く、このお付き合いは駄目になるかもしれないと思った。
海から吹き込む風が潮の香りを運んでくる。食事の前に露天風呂から見渡すことができた海は、今は怖いくらいの暗闇に飲まれていた。月明かりや、沖を行く船の灯りに照らされて、時折白波が光っており、神秘的な光景だ。
シャワーで体を洗った後、湯船に入る。源泉掛け流しの湯が張られた樽桶に入ると、お湯が縁からあふれ、音を立てて流れ落ちた。
大きく息を吐いて体の力を抜く。湯口から注がれるお湯の水音と、ざぁ、ざぁと打ち寄せる波の音が風情たっぷりだった。
気持ちいい……けど、やっぱり寂しい。一人の旅行なら、こんな気持ちにはならなかった。二人で来たからこんな気持ちになるんだ。いっそのこと、誘わなければよかったのだろうか。
……いや、そんなことはない。今日一日を振り返って、一人の方がよかったなんて、強がりでも言えなかった。
二人だから、こんなに楽しかったのだ。一緒に食べる美味しいご飯、綺麗な景色、隣で読書をする、静かな時間。
「……は」
胸に込み上げる切なさに耐えきれなくて、笑みがこぼれる。何だ、俺、いつの間にこんなに好きになってたんだ。
好きだから、一緒にいたい。そうやって、素直に言えばよかった。さっき変な態度をとってしまったことを謝って、そうしたら、もう一度楽しい気持ちでやり直せるだろうか。
「……よし、決めた」
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