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第4話

 旅行先が変わったことで会社がざわついたが、目立った不満が出ることもなく日が過ぎた。  旅行を前に済ませなければならない仕事が山積みで睡眠不足が解消されることはなかったし、誤配についても配達業者から「調査中です」というメッセージが来たのみ。  保証の話も無かった。 (保証の話が出ても困るんですけどね)  今後、正確に配達してくれればそれでいい。  日が経ってくると冷静になってくるが、サイモンのことが悩みの種だった。 (同室って……、まさかアレを持って来るとか……!)  サイモンが聖人君子とは限らない。誤配されたセットを持ってきて、よからぬことを要求されることだってあり得る。  もし、元彼のような性格の人だったら?  道具を使った行為を求められたら? (いえ……自慰を強要されて撮られたりすることだって……)  奈落の底へ落ちていくような感覚に襲われた。  旅行日、休んでしまった方が安全かもしれない。終わっていない仕事があるので、午前中は勤務し、体調不良を理由に午後は休む手もある。 (疑うのは失礼ですけど……、正直、怖いです……)  人を疑うなんて最低かもしれない。しかし、完全に信用することも怖い。  それに、他の不安もあった。  ベッドだ。  去年まで行っていた旅館は、旅館案内に寝具のメーカーと商品名が書かれていた。  安眠を売りにしているメーカーの枕とマットレスがポイントだった。  温泉に入り、美味しいごちそうで腹を満たした後、ぐっすり熟睡できる癒やしが約束されていた。しかし、今回はそこが全く不明だ。 (今回行く旅館って、どうなんでしょう)  まだオープンしていない旅館なので情報が無いし、誰も内情を知らない。行ったところで、癒やされない可能性があるのだ。 (なんだか、ストレスが溜まりそう……。やっぱり休んじゃいましょうか……でも……)  旅行に行けば、サイモンと二人で話をする機会ができて、誤配の件が解決するかもしれない。ただし、それはサイモンが「善人だった」場合の話であって断言は出来ない。  人を疑うのは嫌だ。  でも、信じられるほどサイモンを知らない。 (でも……、でも……)  先週から「もし」「でも」が続いて心身が疲弊していた。  停滞した状態がまだまだ続くと思うと、とても心がもたない。  出勤時間ギリギリまで悩んだあげく、里斗はボストンバッグを手に持った。  着替えや念のための化粧道具などを詰め、暗澹たる思いで出社した。 (きっと……解決の糸口くらいは掴めるはずです……。そうあって欲しいです)  落ちた気分のまま会社の入口をくぐった。  個人的に大きな賭けだった。  社内は浮かれたような空気に満ちていて、心なしかいつもより明るく活気があるように感じられた。  挨拶してくる部下は落ち着かない様子だし、廊下ですれ違った専務からは「グッジョブ!」と短いながらもお褒めの言葉をいただいた。 「……」  ありがとうございます、と頭を下げながらも「アダルトサイトを見てウイルス対策ソフトを作動させた人」という目で見てしまう。 (でも、自分だってそう見られている可能性があるんですよね……)  そう。とんでもないセットを買い、誤配され、サイモンに性癖バレするという人生最大の失態を犯している。  複雑な気持ちになりながらも、昼のギリギリまでPCにかじり付いて仕事を片付けた。 (やっぱり……帰りたい……)  そんなことを思った時だった。 「主任! 時間ですよ!」  部下に呼ばれ慌ててバッグを手に持った。 (あ……お腹鳴ってます。まずいかも……)  睡眠不足で空腹だと車酔いしそうだ。  しかし、デスクにはエナドリくらいしかないし買いに行く時間も無い。  仕方なくそのまま集合場所へ急いだ。不安だらけの旅行の始まりだ。 「やっと来たな」  バスが見えた、と思ったと同時、フッと腕が軽くなった。  横を見ると分厚い胸板が見え、続けて髪をマンバンにしたサイモンの笑みが見えた。  自分のバッグと一緒に里斗のボストンバッグも片手で持っている。 「乗るぞ」 「え、あ、あのっ!」  ホイホイ、と背中を押されてバスに押し込まれた。言葉を返す暇もない。  ほぼ全ての席が埋まっていて出発を待っている状態だった。 「すみません。お待たせしました」  謝りながら進むが、サイモンに押され続けて結局、一番後ろの席まで行ってしまった。 「窓側入ってくれ」 「あ、はい」 「悪いな。俺、足が入んねぇんだわ」  バスの一番後ろは五人席になっている。その真ん中に座ったサイモンは、長い足をポンポンと叩きながらハハハと笑った。 (座席と座席の間が狭くて窮屈ってこと?)  どれだけ長くて太いのか。まじまじとサイモンの足を見詰めてしまった。 (凄い筋肉なんでしょうね……)  マッチョ好きには堪らない四肢だ。間近で見られる機会なんてまず無い。  最高の時間のはずだが、純粋に喜べないのが悲しい。 (……性癖がバレているんですよね……)  そう思うと来たことを後悔してしまう。  そんな里斗の心の内なんて知るよしも無く、荷物を置いたサイモンがニッと笑いかけてきた。心からの笑みに見えた。  今日もいつもどおりパンパンに張ってボタンが限界に耐えているようなシャツ姿だ。  ボタンがはじけ飛んだら、逞しい筋肉が現れるに違いない。 (見て見たいかも……筋肉……)  そんなことを思ってしまって慌てて視線を外していると、秘所達がペットボトルを配りながら近付いてきた。 「おぉ、サンキュー」  将満がペットボトル二本を受け取った。  袖をまくり上げた腕が太すぎるせいか、ペットボトルが小さく見える。 「ミネラルウォーターと茶、どっちがいい?」 「あ、ミネラルウォーターでお願いします」  将満が水をドリンクホルダーに立ててくれた。 「そうだ。カステラ食わねぇ? 俺、好きなんだよ」  完全に旅行モードらしい。  バスも動いていないのに、将満は紙袋からおしゃれな箱を取り出した。  ほい、と手渡され「開けて」と視線で促されるものだから、そっと箱を開けてみた。中に小さな箱が幾つも入っている。 「個包装だから持ち運びやすくて気に入ってるんだわ。美味いしな」  食おう食おう、と勧められ、言われるがまま口に運んだ。  口の中でジュワッと音がするほどしっとりしたカステラだった。  空っぽの胃に濃厚な甘みが染み渡っていく。本当に美味しいし、生き返る気がした。 「美味しい……」 「だろ?」  もらった緑茶と一緒にカステラを味わうサイモンを見ながら、ふと浮かんだ疑問をぶつけてみた。 「筋トレする人って、甘い物よりプロテインというイメージでしたけど?」 「そうか? 俺は甘党だな。大福とかまんじゅうもよく結構食うぞ」 「和菓子お好きなんですか?」 「好きだな。脂質が少ないし、少しで満足できるくらい甘いだろ? ケーキとかクッキーはバターが気になって落ち着いて味わえねぇ」  甘党なのは驚いたが、脂質を気にするあたりさすがマッチョということか。  なんだか秘密を知ってしまったようで、くすぐったいような感じがした。 「このカステラ美味しいですね」 「だろ? 普通より卵黄を多くしてるらしいぞ。小麦粉も少なめなんだと。ざくざくのザラメも好きなんだよな」  ザ・食べ物にこだわる人に思えた。 (こだわりの一品、お取り寄せ品が部屋にいっぱいあったりする?)  勝手に想像してフフッと笑みがこぼれてしまった。  誤魔化すように口元を隠して「美味しいです」と頷いて見せる。  配られた飲料も色々ある中から緑茶を選んだのは和菓子好きだからだろうか。新たな発見に自然と笑みが深くなった。  あっという間に食べてしまったが、なんとなく惜しくて指先をペロッと舐めた。それを見てサイモンがクククと喉を鳴らす。 「やっぱり舐めるよな」  俺も、と指先を舐める姿がなんとも子どもっぽくておかしい。二人で顔を見合わせて笑ってしまった。  空腹の体に美味しい甘味と心地良い時間が染み渡る。一足早くリラックスムードに入っていると、バスが動き始めた。  最初に秘書が行き先変更のことを謝罪してから社長の挨拶が始まった。  専務が合いの手を入れて笑いを誘う和やかな雰囲気でスタートだ。  窓の外を流れていく景色を見ながらフッと体の力を抜いた。  日常から離れて休息に専念できる時間に全身の力が抜けた。ふぅ、と溜め息を吐いてからハッとした。  いや、こんなにくつろいでいる場合ではない。  悩みの元凶であるサイモンが真横に居るのだ。  促されるがまま窓側に座ったので、逃げ場もない。 (これでは、ずっと一対一!)  さすがにこの状態で「誤配の荷物ありませんか」なんて聞けやしないし「気付いていますか?」「なにか企んでいませんか?」なんて確認するのは不可能だ。  なんとか表情や言葉尻から推察するしかないが、ばれているかもしれない、と思うと、とても目を見て話なんてできやしない。 (どうすればいいんでしょうっ!)  福利厚生の温泉旅行が針のむしろ、苦行のような旅行になりそうだ。  そう思ったのだが――。 「ほい、これ使え」 「?」  鞄からおおきなクッションが出て来た。U字型のネックピローだ。「使う」と返事をする前にガボッと装着させられた。さらにフードまで被せられる。 「あの……これは?」 「到着まで二時間以上あるだろ? こういうのがあればマシじゃねぇかと思って」 「マシ?」  空気で膨らませるタイプではなく、首の湾曲に沿う形をした厚みがあるネックピローだった。締め付け感も心地良くて、思わず吐息が漏れてしまう。 「あ……、これ、いいですね」 「だろ? これあるとベッドに行かなくてもデスクで寝られるんだ」  いや、デスクで寝る派なのか、と突っ込みを入れたかったが、あっという間に睡魔に襲われた。  バスの揺れと視界を遮るフードの暗さ、そして首元の心地良い締め付け――。  ふわっと漂ってくるのはカモミールの香りだ。  以前、リラックス効果があると聞いてピローミストを買ったことがある。同じ香りがする。そんなことを思ったのも束の間――。  甘い物が腹に入った満足感と、仕事から完全に離れられた安堵も重なって意識がスゥッと遠のいた。 (こんな……、寝ている場合じゃない、のに)  誤配のことを確認しなければ――。  そんな思いも空しく、深い眠りに落ちたのだった。  座ったまま眠る――。  右に左に揺れながら寝てしまっている自分が見えた。視線の先の自分を乱暴に起こす者が居た。元彼だ。 (あぁ、これは夢……。大学時代の嫌な思い出ですね)  見たくない、と思ったが、なぜか身動き取れなくて視線を外せない。 「せっかく二人っきりで会ってるのに寝るって信じられない奴だな!」  パンッと頬を張られた。起きろ! と二度、三度と叩かれる。 「時間作って会いに来た彼氏だぞ? お前、俺の時間を無駄にしてる自覚あるか?」 「ごめんなさい」 「酷い顔だな! そんな顔するなよ! 俺が悪いみたいだろ。酷い責め方された私可哀想みたいな面、こっちが傷付くわ。あ~、こんなに人の気持ちを無視する奴だとは思わなかった」  大学の試験期間中だから会えない――。  そう伝えてあったはずなのに、酒に酔った状態で押しかけてきて部屋に居座った時の記憶だ。  散々嫌みを言い続けてこっちの時間を奪った挙げ句、翌朝は全然起きてくれなくて、彼を部屋に残したまま大学へ行き、最低のコンディションで五教科分の試験を受けた。  なんとか単位は取れたが、酷い成績だったのを覚えている。 (フラフラで帰宅したら、部屋中大荒れ。隠していた玩具を全部壊されて、お金も盗られてたんですよね)  辛い記憶に胸が苦しくなり、胃がキリキリと痛んだ。  元彼が突然消えるまで続いた二ヶ月間はまさに地獄そのものだった。  嫌な夢だ――。  苦しむ自分の姿から視線を逸らそうとした。  しかし体が動かない。目を閉じることもできず、小さく呻くことしか叶わない。「どうして」と思った時、頬に人の温もりを感じた。 「泣くなよ……。俺は酷ぇことしねぇ」  優しい囁きが耳に滑り込んでくる。 「どんなおもちゃ持ってたっていいじゃねぇか。誰だって、ひとつやふたつ恥ずかしい秘密があるもんだ」  夢か現か――。  判断できないが、身を委ねたくなるくらい甘い囁きだった。 (そうです。みんな聖人君子じゃないんです)  叩かれて埃が出ない人が居る訳がない。  そう思いながら、名前を呼ばれている気がして目を開いた。 「……サイモン、さん?」 「おう、起きたか。そろそろ着くぞ?」 「!」  一気に目が覚めた。  窓際で寝たと思っていたのに、なぜかサイモンに寄りかかっていた。被っていたはずのフードも脱げていて、サイモンの胸元に頭を預けた姿勢になっていた。 「す、すみません!」 「気にするな。俺も寝てた」  嘘か本当か分からないが、そう言って笑うサイモンが窓の外を指さした。 「わぁ! 温泉ですね!」  情緒溢れる建物が並び、湯気があちこちから上がっていた。  お手本のような温泉街だ。硫黄の匂いも漂ってきて、一気に旅行感が増した。  バスは狭い道を器用に進み、温泉街からやや外れたところで停車した。バックで駐車場に入り始める。 「素敵な旅館ですね」  外観は古いが、駐車場や旅館を囲む石造りの塀、庭は明らかに修繕の手が入っていて、和モダンな雰囲気に包まれていた。 「おぉ、なかなか良いじゃないか」  社長が機嫌の良い声で言った。従業員の出迎えもあり、第一印象も悪くないようだ。  バスが停まった。  秘書のかけ声で皆がぞろぞろとバスから降りていく。その様子を見送り、サイモンと一緒に最後に降りた。すると、一人の男性が駆け寄ってきた。 「よぉ。久しぶりだな」  サイモンが手を上げて挨拶した。どうやら館長らしい。二人はハグしてバシバシとお互いの背中を叩き合っていた。 (友だちって……男性? 女将じゃない?)  ホッと溜め息が出た。 (溜め息? 今、ホッとした?)  自分で驚きながら二人の様子を見守った。 「従業員の研修に利用するみたいで悪いな」 「いやいや、こっちこそ大人数を受け入れてもらえて助かった」  旧知の仲のようだ。少し距離を置いて立っていると館長が視線を合わせてきた。 「ようこそお越しくださいました。ごゆっくりお過ごしください」  人当たりのいい笑顔と柔らかな言葉遣いが耳に心地良い。  サイモンと話すときの気さくさと全然違う口調にプロ意識を感じながらも、次の言葉に思考が停止した。 「お二人には露天風呂付き特別室をご用意しています」  え? と視線を返したが、館長は笑顔を崩さない。  サイモンも見たが、何とも思っていないような表情だった。 「露天風呂付きかぁ! ありがたいな」 「社長と専務にも、相応の部屋を準備していますから、気兼ねなくお過ごしください」  パチッとウィンクされてしまった。  これはどう返すべきなのだろう。 「お、お気遣い、ありがとうございます?」  語尾が上がってしまった。  正しい返答とは思えなかったが文句を言うのも違う気がする。  混乱したまま黙ってサイモンに続き、案内に従って特別室に入った。 「……」  入ってすぐに言葉を失った。  畳が香る部屋は竹林に面していて、ガラスの壁に囲まれた露天風呂があった。  ベッドルームにはダブルベッドが二台据えられ、十畳ほどの和室の机にはウェルカムスイーツが準備されていた。  部屋の照明は柔らかい間接照明で、落ち着いた雰囲気を演出している。 「いい部屋だな。高級感に包まれた大人の休日って感じがする」 「そ、そうですね」  こんな部屋は初めて、と感嘆の吐息が漏れてしまう。  そんな中でも、ベッドが二台あることにホッとしたと同時、残念に思った自分も居て独りで焦った。  館長のことといい、部屋のことといい、一体自分はなにを期待しているのか。  違うだろう、と自分を責めていたが、二つ置かれた枕に気付いた。 (枕、高さを自分で調整できる?)  そっとベッドに近付いた。  枕は異なる素材のものがひとつずつ準備されていて好みに合わせて選べるようになっていた。マットレスも座った感触は悪くない。しっかりと体を支えてくれるほどよい硬さが心地良かった (良い感じです。いや、そもそも特別室ですから良くて当然ですね)  これは熟睡できそうだ。  体重をかけたり、感触を確かめたりしているうちに、サイモンがノートパソコンを広げ始めた。こんなところまで来て仕事をするつもりなのだろうか。 「残業ですか?」 「ん? 頼まれ事があって、ちょっとだけな」  館長に旅館のシステムやネットワーク周りのチェックを頼まれたらしい。  この特別室は手伝いの対価ということか。 (セキュリティのことも考えて特別室ということですか)  ちゃんと理由があったのか、と拍子抜けしたがすぐに「ん?」と首を捻った。 (サイモンさんが特別室なのは分かりましたけど、どうして私まで?)  旅館のセキュリティを考えると独りの方がいいはずだ。 (やっぱり、誤配の荷物のこと?)  二人きりの方がそういう話はしやすい。サイモンから館長に頼んだのだろうか。 (いろいろ考えると、個室の方が都合良いですもんね)  急に全身から血の気が引いた。  バスで眠らせたのも、こういうことを勘付かれないようにするためだったのかもしれない。  逃げた方がいい?  それとなく外へ出て、他の社員と一緒に行動すれば最悪の事態は避けられる。 (チャンスは今しかないですよね)  ゴクッと喉を鳴らして唾液を飲み込む。  逃げる?  逃げられる?  二日間、どう行動する?  決めかねているとサイモンが視線に気付いて笑みを向けてきた。 「露天風呂、先どうぞ」 「あ……はい……」 「大浴場行きたいなら、そっちもいいんじゃないか? 俺はこっち済ませてから風呂にするから」  そう言い終えると再びパソコンに向かい始めた。 「……」  なにかを企んでいる風はない。  いや、そんな性悪なところがある人じゃないと思う。  無防備に背中を見せているサイモンを見ていると「こっちから言い出すのを待っているのでは?」と思えてきた。 (考えてみれば、サイモンさんも言いづらいですよね。誤配でしたよ、アレって……)  箱を開けていなければドアの前に置けばいい。  そうしないということは、やっぱり、中身を見てしまったのだと思う。  だとすれば言いづらいに決まっている。  ビデオ通話はそれとなく知らせるための行為で、こっちの出方を伺っていると考えるのが自然だ。  こちらから言うきっかけが同室――。  そう考えると腑に落ちた。  ならば行動を起こさないといけないのはこちらだ。 「……」  ゴクッと喉を鳴らした。  緊張で拳を握り締めてしまう。  暑くもないのに手汗が止まらない。 (いつまでもグダグダ考えても仕方がありません!)  体調を崩すばかりでなにも良いことがない。そう腹をくくって一歩前に出た。 「あの……」  声が裏返ってしまって喉がつっかえてしまった。しまった、と思った時、サイモンのスマホが鳴った。 「お? いける? 分かった。じゃぁ、こっちで繋いでテストしてみるわ」  相手は館長か。そのままスマホで会話をしながら何やら仕事を始めてしまった。 「……」  完全にタイミングを逸してしまった。  電話は終わりそうになりし、仕方がないので風呂を見た。 「露天風呂、入ってみますか」  浴衣も準備されているし、サイモンも仕事だ。  せっかくの機会だし、サッと入って電話が終わるのを待とう。  耳に心地良い湯の音に誘われ、服を脱ぐと露天風呂のドアを開けた。 「わ!」  日が傾き始めた外は風が冷たかった。  慌てて湯を二度、三度と体にかけた。ちょっと熱かったが、それでこそ温泉だ。  温泉だと贅沢な湯の使い方をしたくなる。  髪をほどき、頭の先からつま先まで時間をかけて洗い流した。  温泉に置かれたシャンプーやコンディショナーは、どうしてこんなに使い心地がいいのだろう。家で使うものとは明らかに違う香りや泡立ちに、ついつい「買って帰ろうか」なんて思ってしまう。  繰り返し湯を浴びて全身を洗い流したところで湯舟に浸かった。 「あぁぁぁぁ」  もう、溜め息しか出てこない。  ゆったりと体から力を抜き、目にしみる緑の竹林を見た。  まっすぐに伸びた竹が、サワサワと風に揺られて葉を鳴らしている。  そこに混ざる湯の音――。  風と湯の音だけが響くここは、まさに癒やしの空間だった。  年に一度、会社負担でこうした時間を手に入れられるのが嬉しい。  しかも今は同僚に気を配る必要もないし、喋る必要もない。  本当に何もせずに、ぼーっと湯に身を任せるだけの時間は最高だった。 「いいですねぇ……」  身も心も解されていくのを感じながら呟いた時だった。 「いいよなぁ。部屋に露天風呂なんて最高だ」 「!」  全裸のサイモンが入って来た。  一気に現実に引き戻される。 (二人っきりで裸のまま……! しかも、期待を裏切らないマッチョ!)  湯煙の向こうのサイモンに目が釘付けになったまま動けなくなってしまったのだった。

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