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第7話

 甘く夢のような時間の後に訪れる現実は容赦なかった。  週明けの月曜日は、温泉旅行の癒やしが全て吹き飛ぶほどの激務だった。 「主任! 今送った稟議、先にお願いします」 「はい。午前の方は別添を訂正してください」 「え! ……ほんとだ~! すぐ直します!」 「お~い、土門ぉ。議事次第まだかぁ?」 「さきほど共有しました。お待たせしました」 「おぉ! いつも悪いな」  昼休憩はゼリー飲料を吸う時間のみ。  上からも下からも頼られる主任の職務に追われていた。  そんな時だった。 「ふざけんなよ!」   経理課の入口から怒号が飛んできた。  驚いて顔を上げると、営業第一課の係長が見えた。入社して二年目の経理の子が怒鳴りつけられている。 「こっちはなぁ! 汗水垂らして仕事取って来てんだ! 営業居なきゃ売上ゼロなんだぞ。エアコン効いた部屋でパソコン弄ってるだけの奴が偉そうに指示するな! 俺達が気持ち良く仕事できるよう融通利かせるのがお前達の仕事だろうが!」 「ですから……」 「口答えするな!」  まともに話し合いができる状況でなかった。  とても見ていられなくて割って入った。 「申し訳ありません! 私が処理します!」  里斗は二年目の部下を背に庇った。  営業第一課の係長は血走った目で睨み付けてきた後、罵詈雑言を吐きながらレシートの束を投げ付けてきた。皺だらけの長短様々なレシートが床に散乱する。 「とっとと拾って処理しろ! 役立たずどもが!」  吐き捨てるという表現がピッタリの言い方だった。 「はい。全てお預かりいたします」  里斗が頭を下げると係長はブツブツ言いながらも部屋から出て行ってくれた。  廊下の向こうへ消えても肩を怒らせながらぶつくさ言っているところを見ると、相当、虫の居所が悪いらしい。 「主任、ありがとうございました」 「大丈夫でしたか? 一応、パワハラの相談窓口に報告しておきますから」  部下を席に戻らせると、里斗は床に散乱したレシートを拾い集めた。 「なんか、仕事ポシャりそうって聞いたよ」  そっと近付いてきた隣の課の主任が小声で教えてくれた。 「あぁ、それで……」 「あの営業、料亭だの夜のお店だの、取引先から要求されて言いなりになっているのに、良い返事が貰えないんだって」 「なんですか、それ」 「だいぶ前から良くない噂がある人なんだけど……、最近は営業成績落ちちゃって給料減って自腹切ってるって噂。今のは、そろそろ自腹も苦しくて八つ当たりしてきてんじゃないのかな……なんて」 「酷すぎますね」  手に取った長いレシートを見てみた。  印字が薄く、判別が難しいが、なにかよくわからない項目がズラズラ並んでいる。  ひとつひとつの金額もやたらと多くて、合計が十万円を超えるレシートだった。 「なんですか、このレシート……。こんなの、事前の申請もなく経費なんて無理ですよ……」  レシートの一枚を見て里斗は唇をへの字に曲げた。 「多分、ここのレシート全部、料亭とかキャバクラとかじゃないかな? あとは大きな額の贈り物?」 「冗談でしょう?」  あり得ません、と言って会話を終えると、自分の席に戻った。  レシートは全部で二十枚を超えていた。  日付順に並べ、店名や時間、項目をチェックしていく。 「利用時刻が深夜? なんですか、これ……」  あまりよろしくないお店のレシートだというのは予想できた。 (でも……、課長に報告するには、なんのレシートかはっきりさせる必要がありますね)  そう考えてからネットを開いた。  レシートに書かれた店名を検索してみる。 「うわっ……」  出て来たのはキャバクラだった。  検索結果の説明を読んだだけで「職場で開くべきサイトではない」と分かる。 「……情シスから『不適切サイトを見ないこと』って通知が来ていましたね」  これはまさに不適切なサイトだ。 「こんなところに行ったレシートを経費精算しろなんて……」  どういう神経をしているのだろう。あり得ないと思わないのだろうか。  レシートの空いているところに印を入れ「キャバクラ」と書き込んだ。  同じように別のレシートを調べると、会員制のクラブと分かった。  他にも料亭だったり、ホテルのスイートルーム利用だったり、タブレットの最新機種だったり――。 「こんなの、営業で必要なんでしょうか……」  あり得ないものばかりだ。  拾わされたレシート全てが疑義照会事案だった。  午後の少し仕事が落ち着いた頃――。 「課長、少しお時間よろしいでしょうか」  里斗はレシートを手に、課長の席を訪れた。 「実は今日、営業第一課からこのようなレシートが……」  バインダーに挟んだレシートを課長の前に差し出した。  そして部下が受けたパワハラを報告する。 「……営業第一課の係長と言えば……御園君か」 「はい」  里斗が返事をすると課長の表情が非常に険しいものになった。  レシートの内容をチラリと見ただけで、苦虫を潰した顔になる。 「よくチェックしてくれたね。これは部長に報告しておく」 「お願いします。あと、パワハラの件も……」 「あぁ。人事にも報告して記録させるよ。……処罰対象だな」  課長がボソッと呟いた。 (……酷いのは酷かったですけど、一発レッドカードを出すんですか?)  処罰という言葉は確かに聞こえた。  そんなに厳しく対応する会社だったのか――。  それはそれでいいのだが、正直、驚いてしまった。  課長に頭を下げてから自分の席へ戻った。 「……今までも同じような申請あったんでしょうか……」  これまでの経費申請書は大丈夫なものばかりだったと思いたい。  日々の業務の中で不審に思ったことはないはずだ。 「後で見直してみましょうか」  なんとなく不安を感じたものの、優先すべき仕事が山積みだ。  とりあえず、急ぎの物を済ませようとPCに向き直った。  それにしても、弱い者を怒鳴りつけるなんて酷い係長だ。  (いくら虫の居所が悪くても、入って二年目の子に当たるなんて! 自分で自分の機嫌を取れない人って最低です)  営業第一課係長が元彼と重なった。  元彼も自分の思い通りにならないとすぐに怒って「融通が利かない」「相手の気持ちを考えない」と里斗を責めてきた。  間違いも認めないし、注意しようものなら 「偉そうにマウント取って指示するサイコパス。血が通った人間じゃねぇ」 なんて罵倒してきた。そして決まって酷い交わりを求められ、撮影されて延々と蔑まれたものだ。当時のことを思い出してしまい、胃痛に眉を顰める。 (どこにでも居るんですね。そういう類いの人って)  関わりたくないが、部下をなじられ経費の不正請求をされては放っておけない。  罰が下るまで、証拠固めをしたい衝動に駆られた。 「時間ができたら少しずつやりましょう」  全く気乗りしない仕事だが、放置すると容認しているようで気持ちが悪い。なんとも嫌な仕事だった。  そんな時、ポケットの中でスマホが震えた。 (将満?)  ロック画面に表示された通知を見て心が揺れた。スマホに付けた大きなアメシストが旅行の記憶をよみがえらせる。 (返事……まだなんですよね)  告白を受けた後、一緒にバスに乗ったが将満は照れくさそうな表情で「ちょっと寝かせてくれ」と言って眠ってしまった。  やはり、夜中に仕事をした後、朝から歩き回るのは辛かったのだろう。  そんな姿を見てしまうと、とても「私を恋人にしてください」とは言えなかった。  結局、帰りのバスは眠ってしまい、会社に到着した後も将満が専務達に呼ばれてしまって返事をするタイミングを逸した。  そして、そのまま今日に至っている。 (気持ちは嬉しいけれど……「はい」とは応えられないです)  無理をさせてしまうし、辛い思いをさせてしまうことが分かっている。  早く返事をしないといけないが、今スマホを開いてメッセージを打つ訳にもいかない。  なにより、色々なことが思い出されて冷静に返事を打つことができなかった。 (後で……、家に帰って気持ちを落ち着けてから返事しましょう)  社員旅行から帰ってきて同じ事を何度思っただろう。  意気地の無い自分を情けなく思いながらも、仕事仕事、と言い訳しながらPCに向き直った。  当然のように残業になり、午後八時を過ぎてから退社した。 「駄目ですね……、もう眠いです」  食事らしい食事を摂っていないせいでフラフラする。  コンビニに寄ってすぐに食べられる物を買って帰ろう。ゼリー飲料ばかりでは体に悪い。  温泉でしっかり食べて寝た時は、驚くくらい心身がスッキリした。食べて寝ることは大切だ。 「……アッチも満たされたからかもしれませんけど」  思い出してしまって耳まで真っ赤になってしまう。  将満にどう返事をしようか――。  どんな風に言えば傷付けずに済み、納得してもらえるだろうか。  しかし、断る理由をあれこれ考える度に、胸に鈍痛が走って重たい感情が広がってくる。 「私は……将満のことを……」  一体、どう思っているのだろう。  将満が好き?  どこが好き?  脳内で自問自答してみる。  マッチョが好き?  体がイイだけ? 「いえ、決してそういう訳では……」  なら、どんなところに惹かれている? 「……将満さん」  名前を呟くと、グッと肩を抱かれる感覚がよみがえる。  髪に口付けし、こめかみに頬擦りしながら声をかけてくる将満……。 「私が眠りに悩んでいることを知っていて、寝落ちしたところを助けてくれて、恥ずかしいおもちゃを買っていることも知っている上で告白してくれた将満……」  仕事をする姿も、自然にできる気遣いも、気取らずリラックスして一緒に過ごせる空気も素敵だと思う。 「……どうしよう」  嫌いじゃない。  でも、好き、と飛び込む勇気もない。堂々巡りだ。  悩みながらコンビニに入った。  おにぎりの棚も弁当の棚も空に近い状態だった。  パンという気分でもなく、かといって食欲もない。  買わなくてもいいか、なんて思い始めながら冷凍食品のコーナーに足を向けた時だった。 「!」  信じられない光景を見た。  酒の棚の前に営業第一課の係長が立っていて、誰かに向かってペコペコと頭を下げていた。  その相手というのが――。 「……レオ?」  腕を組んで係長を睥睨しながら、溜め息を吐いたり大げさに悲しんでみたりしている男は、大学時代の元彼・一色玲王その人だった。 「ど……して、ここに?」  気付かれないよう、音を立てないようにそっと後退した。  傍の棚に身を隠し、ソロソロと足音を忍ばせて出口を目指す。 (どうして営業の係長が一緒に? いえ、そもそもどうしてレオがここに?)  次々と疑問が湧いてくるが、今は逃げるのが先だ。  見つかると面倒なことになるに決まっている。  幸い、気付かれることなく出口に辿り着いた。  ホッとしながらドアをくぐった時だった。 「リト?」  聞きたくない声が飛んできた。コンビニの来客を知らせる音でこちらを向いたのか。 「やっぱりリトだ。久しぶりだな」  一色が駆け寄って来る。 (しまった!)  最悪だ――。  ただ、このまま走って逃げても振り切れないし、マンションまで着いて来られたら絶対に恐ろしいことになるに決まっている。 「一色さん……ご無沙汰しています」  渋々、コンビニの外で足を止め、ぎこちない動きで頭を下げた。  相変わらず好青年という言葉そのものが歩いているような爽やかで品のいい容姿だ。  しかし、本性を知っている里斗にとって、向けられる笑顔は空恐ろしいものでしかない。 「一色さんなんて他人行儀な。いい仲だったの忘れたとは言わせないよ」  体によくフィットしたスーツの前を直しながら一色がクイッと顎を揺らした。 「ど、どどどういうご関係で?」  慌てて追いかけてきた係長が額の汗を拭きながら尋ねてきた。 「大学の時にちょっとね。こんなところで会うなんて運命かな?」  なにが運命だ。  気持ちが悪いし、さっきから背筋がゾッと寒くなるのが止まらない。 「経理主任が一色様をご存じだったとは知らなかったよ」  動揺を隠せない様子で係長が言った。 (営業第一課が掴もうとしている仕事がレオの会社? あの接待のレシート……レオが契約をエサに接待を要求している?)  金遣いが荒く、見栄っ張りでプライドが高い一色なら、充分あり得る。  人当たりが良い「できる人」という仮の姿に係長も欺されたのか。 (でも実家が太い女性と結婚したはずです。たかりのようなことをするなんてどうなっているんでしょう)  この再会は、まさに火が点いた爆弾だ。対応を間違うと自分が被弾する。  しかも、確実な回避方法がある訳ではないのが厄介だ。  どうすべき? という言葉が頭の中をグルグルと回っていた。口を閉ざしていると一色が一歩前に踏み出してきた。 「リト、経理主任なんだ?」 「……」  返事に迷っていると、営業第一課の係長が割り込んできた。 「そうなんです! とても優秀で過去に類を見ない速さで昇進した期待の星です! 一色様のご友人でしたら納得ですよ!」  意味の分からないヨイショが始まった。  余計なことを言わないで! と叫びたい。  なにが一色の興味を刺激するか分からなくて怖い。もう、二度と関わり合いになりたくないのだ。 「期待の星って凄いなぁ。そうだ、お祝いさせて。飲みに行こう。俺、今、独り身だから帰りの時間とか関係ないし。リトが優秀な経理主任なら経費で落とせるだろ?」  ブラックな面が垣間見えた。  一瞬だがニタッと酷い笑みが浮かんだのを里斗は見逃さなかった。一色は経理主任の里斗に「金を出せ」と言っているのだ。 (そんなの無理に決まってます!)  心の中で拳を握り締めながら愛想笑いを浮かべて首を左右に振った。 「申し訳ありませんが、体調が良くないのでまたの機会にさせていただきます」  そんな機会は永遠に来ませんけれど、と胸の内で毒づきながら礼をして背を向けた。 「冗談だよね」  ガツッと肩を掴まれた。  指が食い込むほど強い力だ。すぐに係長が首を突っ込んでくる。 「せっかく誘ってくださっているんだ。断るなんて失礼だろう!」  察しろよ、というように何度も脇を小突いてくるのが鬱陶しい。首を細かく左右に振っているのは「帰るな」ということだろう。 (駄目に決まっているでしょう)  視線で係長に訴えるが、全く伝わる気配がない。 「ねぇねぇ、リトの出世話を聞かせてよ。俺の近況も話したいし。いやぁ、懐かしいよ」  そう言いながら一色は手にしたスマホを振って見せてきた。 「?」  怪訝な視線を送ると一色はスマホの画面をにトントンと叩いた。 「懐かしい写真見ながら酒飲むのも楽しいと思うんだよねぇ?」  ニィッと卑劣な笑みを浮かべた一色が笑いを抑えきれないという風に肩を震わせた。 (最低っ!)  脅しだった。  スマホには過去の写真や動画が入っているのだ。それをネタに再び搾取するつもりか。  怒りと羞恥で全身が震える。  恥ずかしい写真はたった一枚で鎖になるのだ。しかも効力は無期限と思い知らされた。 (結婚したって聞いて、地獄が終わったって思っていたのに)  こんな風に再会して、再び縛られるなんて想像もしていなかった。  さっき「今は独り」と言っていた。つまり、結婚に失敗しているということだ。離婚の経験からなにか学ばなかったのだろうか。 (どうすればいい?)  緊張で口の中がカラカラに乾いてきた。  写真で脅されて贈賄・横領といった不正行為に手を染める未来しか浮かんでこない。 (そんな地獄は嫌です!)  逃げ出したい。今すぐに――! 「近くに良いバーがあるんです。静かに飲めていいところですよ。ささ、行きましょ、行きましょ!」  場を取りなすように言う係長にギッと睨まれた。その目は「来ない選択肢はない」と言っている。 (静かに飲めるって、まさか、個室があるところとか? それってお酒飲んでナニかあっても受け入れろってことですよね?)  とても人とは思えなかった。  この係長、営業のために同僚を売ることだって辞さない構えだ。 (まさか、営業第一課に『そういうこと』をさせられた人、居ませんよね!)  やはり、営業第一課の過去の経費申請をしっかりチェックしておけばよかった。購入物や店名、金額などを細かくチェックすれば何か分かったかもしれない。 (もし、そういうことで仕事を取っているとしたらパワハラ! 絶対に止めさせないといけません! 営業第一課はこういうことが普通なんでしょうか)  急に怒りが湧いてきた。  同行して二人の言動を注意深く観察し、不正を暴くきっかけを掴むべき、という正義感がムクムクと湧き立ってくる。 (……いえ、もしかしたら係長がレオに何か弱みを握られているのかも? 言いなりにならざるを得ない状況なら、それを止めないと)  自分の会社が一色の食い物にされているのだとしたら許しがたい。  逃げたい意識を正義感が上回った。自然に表情が引き締まる。  地獄を見るのは自分か、一色か――。 (それは私の働き次第……)  些細なことにも気付き、記憶し、情報収集できれば勝ちだ。 (会社を守るためです)  そう自分に言い聞かせてから一色を見た。 「行こうか。楽しい夜になりそうだ」  あぁ、あの顔は遊ぶ気満々だ。  そう察した時、屈辱と羞恥でグッと喉が詰まり、息が苦しくなった。  嫌な記憶と苦しい予感で目の前が暗くなっていく。  それでも、歯を食いしばって立った。  両足に力を込め、膝から崩れ落ちないよう気持ちを強く持つ。 (今夜はレオの思い通りにはさせないっ!)  そう決意を固めた時だった。 「珍しい面子だなぁ」 「!」  低くて陽気な声が聞こえた。  意外な声にハッと顔を上げると、ニカッと笑う大柄な人影が見えた。 「将満!」  思わず下の名前で呼んでしまった。その直後、しまった、と思った。一瞬でも「助かった!」と思ってしまった自分に腹が立った。  一色の前で他の男の名を呼ぶなんて悪手だ。  後悔したものの、やはり一色の表情があからさまに曇った。 「まさみち?」  一色が握りつぶす勢いで腕を掴んできた。  不興を買った上に、将満を巻き込んでしまった。大失敗だ。  しかし、将満は涼しい顔で距離を詰めてくる。その目は里斗しか見ていない。 「何回電話しても出ねぇと思ったら、こんなところで営業に捕まってたのか」 「あの……なにかありましたか?」 「ち~とばかしマズイ問題発生中でね。経理主任に戻ってきてもらわないと困るんだわ」  将満に手招きされた。  係長と一色を見たが、二人とも明らかに迷惑そうな顔をしている。そんな二人に将満が正論をふっかけた。 「営業って、こんな時間まで働いてんの? ご苦労なこった。しっかし、残業申請、課長は許可してんの? いいなぁ、営業は。情シスの課長は残業って聞くとめっちゃ嫌な顔するんだよなぁ。多過ぎだぞ、お前ら! ってどやしてくんの。無茶な仕事ぶんなげてくるくせにな」 「なっ! なんだ、お前は! 関係ないヤツは引っ込んでてくれ!」 「なんか焦ってねぇ? ま~さ~かぁ~、経理の人間使ってナニか企んでた訳じゃねぇよな?」 「ば、ばかなことを言わないでくれ!」 「ふ~ん。じゃ、経理主任もらっていくぞ。上層部が緊急会議やってるんでね。いろいろ面倒ごとがあってな~」 「!」  係長の顔から血の気が引いていくのがはっきりと見えた。 「ってな訳で経理主任、悪ぃが付き合ってくれ」 「は、はい」 「残業弁当付きだから安心して」 「なんですか、残業弁当って」 「経費で落としていいって言われてる」 「本当ですか?」  将満がゆっくりと手を伸ばし、一色の腕を掴んだ。 「ぅっ!」  一色の表情が苦痛に歪んだ。同時に、里斗の腕から一色の指が離れていく。 「里斗は俺がもらってく」  低く腹に響くような声で将満が言った。 「!」  ギッと睨み付けてくる一色を置き去りにして、里斗は将満と一緒にコンビニに入った。肩を抱かれているのはいつものことだったが、一色の目があると思うと恐ろしくて震えてしまう。 「あの、本当に残業弁当を?」 「領収書要るよな?」 「レシートで結構です。ただ、現金で払っていただいた方が処理しやすいです。ポイントだの個人のクレカはちょっと……」 「へ~い。あ、GABA入りチョコ追加で」 「それは駄目です」 「厳しいなぁ」  暢気に話す将満と一緒だと、少しずつ体の震えが治まってきた。 (また肩抱かれてレオの前を……)  同じ場所に立ち尽くし、怒りで肩をふるわせている一色の前を通り過ぎて会社を目指した。  しばらく歩いてからチラリと視線を後ろに向けたが、誰も居ない。追ってくることはなさそうだ。思わず溜め息が漏れた。 「あの、マズイ問題ってなんですか?」 「ん?」 「ほら、さっき言っていた緊急会議って」 「なんのことだ?」 「ですから……」 「ヘヘ」  将満が意味ありげに鼻を鳴らした。 「何回も呼び出しの電話をかけたって……」 「そんなもんしてねぇよ」 「? じゃぁ、どうして?」  頭が混乱する。  将満はどうしてコンビニに現れたのか。  連れ出してくれたのは嬉しいが、どういうことだったのかさっぱりだ。  そもそも、なぜコンビニに居ると分かったのか。タイミングが良すぎやしないか? 「正義のヒーローはピンチを救うもんだ。それに返信待つより会った方が早いかなって」 「返信?」 「やっぱりかぁ。里斗のことだから仕事に集中して返信忘れてんだろうなぁって思ってたけど、ほんとにそうだと結構ショックだな」 「!」  慌てて自分のスマホを開いた。未読通知が何件も入っていた。 「あ! すみません! あの、今日は本当に忙しくて……!」 「ははは。だよな。でも……俺より仕事優先って、ちと胸が苦しいな」  付き合い始めたばかりの女子のような事を口にするマッチョを見上げながら「すみませんでした」と繰り返した。  まさか、こんな図体の大きな相手から「私と仕事、どっちが大事なの?」と言われるとは思わなかった。正直、面食らうというか、想定外の台詞に目眩を感じてしまう。 「決して将満を蔑ろにした訳じゃなくて、本当に仕事が……」 「冗談だ、冗談。ちょっと言ってみたかっただけだよ。かわいい乙女心ってどんなものかと思って。でも、悪ふざけが過ぎたな。すまなかった。ただ……あ~、なんだ。その……旅行の時の返事が待ちきれなくてな」  照れ隠しのように言葉を濁した将満が頭の後ろを掻いた。 「あ……、そ、それは……」  そうだ。まだ返事をしていなかった。  嬉しい告白に対する返事は決めている。  ただ、それを言葉にする勇気がなかなか持てなかったのだ。 「里斗……」  甘えてくるようで、すがるようにも聞こえる声だった。  その想いに応えたい――。  でも、失敗を繰り返して傷付けたくない。  相反する想いが交錯する。  しかし、生活リズムの違いという物理的な擦れ違いが心の擦れ違いに直結すると分かっている。もう、辛い恋はごめんだ。 「ごめんなさい。お付き合いはできません」 「!」  将満が目を見開いた。予想外だったらしい。 「……その理由を聞いてもいいか?」 「私では将満に応えることができないからです」 「どうして!」 「あれは、温泉旅行という非日常の思い出にさせてください」  今なら幸せな思い出のままにできる――。  ごめんなさい、ともう一度謝り、頭を下げて将満の返事を待った。  あれこれ喋ると決心が鈍りそうだ。  だから謝るだけで、口を閉ざした。 「……そうか。分かった」  しばらくの沈黙の後、将満が力のない声で言った。  二人で会社に入ったが、そのまま裏口から出た。将満が流しのタクシーを捕まえてくれる。 「お休み、里斗。気を付けて帰れよ」  告白を断ったというのに、将満は優しい笑みで見送ってくれた。  タクシーは、一色と係長に家を特定されないようにするための配慮だと気付いた時、胸が潰れそうなくらい痛くなった。  パタンとドアが閉まってタクシーが走り出す。 「……ごめんなさい」  本当はお互いを求め合う仲になりたい。 (でも……夜行性って分かっている人に寄り添えない私では恋人は務まりません)  自分では駄目だ――。  そう自分に何度も言い聞かせながらマンションに帰った。  部屋に入った途端、涙がこぼれた。  それはとどまることを知らず、体中から水分が抜け落ちるほど溢れ続けた。 「まさみち……」  名前を口にするだけで涙が溢れてくる。里斗はそのまま夜を泣き明かした。  ただ――。  激しい怒りに身を焦がした男のせいで、この夜の出来事は会社の上層部を巻き込む大事件に発展する。その瞬間は間近に迫っていた。

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