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第3話 今だけ、命令するな

「中村、この三ページ目」 会議室に藤田修平(ふじた・しゅうへい)の声が落ちた。 中村大輔(なかむら・だいすけ)は手元の資料を開く。 「はい」 「五ページ目と数字が合ってない」 「……すみません」 「修正して、今日中にもう一度持ってこい」 「はい」 修平は次の議題へ進んだ。 大輔は席へ戻るなり資料を開き直した。 隣の同僚が椅子を寄せる。 「藤田課長、お前には厳しいよな」 「俺が突っ込まれるところ作ってるからだよ」 「真面目だねえ」 「うるせえ。仕事しろ」 大輔は画面へ向き直った。 悔しい。 しかも、修平の指摘は正しい。 仕事が速く、判断も早い。 部下の資料へきちんと目を通し、間違いを見つければ短く指摘する。 何度やられても、大輔は結局この男に認めてもらいたくて次の資料を作る。 夜九時を過ぎた頃、数字がようやく揃った。 印刷した資料を持って課長席へ向かう。 オフィスには修平だけが残っていた。 「課長」 「できたか」 「はい」 修平が資料を受け取り、一枚ずつ確認する。 大輔は机の前に立ったまま待った。 最後まで読み終えた修平が資料を閉じる。 「これでいい」 大輔は思わず口を開いた。 「……それだけですか」 修平が視線を上げる。 「何が欲しい」 「いや、別に」 自分から言ったくせに恥ずかしくなり、大輔は資料へ視線を落とした。 「じゃあ、お先に失礼します」 「中村」 「はい」 「少し残れ」 大輔の背筋が伸びた。 **** 最後の社員が帰り、扉が閉まった。 修平は椅子から立ち上がり、ネクタイを少し緩めた。 大輔は初めて見る仕草に目を奪われた。 きっちり締められていた襟元が開く。 それだけで、いつも机の向こう側にいる藤田課長が急に近く感じた。 「昼のことだ」 大輔は視線を戻す。 「数字の件ですか」 「ああ。会議の途中で言う必要はなかった。終わってから直させれば済んだ」 修平が大輔を見る。 「悪かった」 大輔は一瞬黙った。 「……課長が謝るんですね」 「俺を何だと思ってる」 「何でも正しいと思ってる人」 「ずいぶんな言い方だな」 「だって、いつも崩れないじゃないですか」 大輔の視線がまた緩んだネクタイへ落ちた。 白いシャツの襟元。 少し疲れた声。 修平が気づく。 「中村」 「はい」 「近い」 いつの間にか、大輔は一歩踏み込んでいた。 普段なら、言われた瞬間に下がる。 今日はそのまま立っていた。 「だったら、下がれって言ってくださいよ」 修平が黙る。 大輔はもう半歩近づいた。 「課長?」 「……うるさい」 大輔は思わず笑った。 「なんですか、それ」 修平が睨む。 その視線までいつもより熱い。 大輔はネクタイへ指をかけた。 修平は大輔の指を見て、それから目を合わせた。 大輔が軽くネクタイを引く。 二人の距離がなくなった。 「ほんとに何も言わないんですね」 「言わせたいのか」 「いつもなら、とっくに怒られてます」 大輔からキスした。 短く触れて、すぐ離れようとする。 その胸元を修平が掴んだ。 「課長」 今度は修平から唇を重ねた。 さっきより長い。 大輔は驚きながら、すぐ修平の腰へ腕を回した。 離れた修平の呼吸がわずかに乱れている。 「課長、俺のこと止める気ないでしょう」 「お前、こういう時まで生意気だな」 「じゃあ、もっと生意気になりますよ」 大輔がもう一度ネクタイを引いた。 **** 今度のキスは深かった。 大輔が押せば、修平も引き寄せる。 修平の腰が机の端へ当たった。 いつもなら、大輔がこの机の前に立って修平の指示を聞いている。 今は自分が修平を追い込んでいる。 その事実だけで身体が熱くなった。 「中村」 「今、それ禁止」 「何が」 「その課長みたいな呼び方」 「俺は課長だ」 「今だけ忘れてください」 大輔が修平の首筋へ唇を落とす。 ネクタイを緩めたばかりの白い喉を、わざとゆっくり舐め上げる。 修平の肩がわずかに揺れた。 もう一度、同じところへ歯を立てずにくちゅと吸う。 「っ……ぁ♡」 修平自身が息を止めた。 大輔も一瞬だけ動きを止める。 「……今の、反則でしょう」 「忘れろ」 「無理です。……もっと出してください」 修平が睨む。 それでも大輔のシャツを掴んだ指は離れない。 大輔はそれ以上いじらず、また首筋へ唇を寄せ、手をシャツのボタンへ滑らせる。 一粒ずつ外し、胸板へ直接触れる。 修平の呼吸までは隠せない。 「修平さん」 修平の動きが止まった。 大輔自身も、呼んでから心臓が跳ねた。 職場で一度も口にしたことのない名前。 「もう一回呼びますよ」 「勝手にしろ」 大輔が耳元へ顔を寄せ、熱い吐息を吹きかけながら繰り返す。 「修平さん。……いつも厳しい修平さんが、今こんなに震えてる」 修平がシャツを強く引き、唇を重ねた。 大輔は受け止めながら笑う。 「それ、ずるいですよ」 「何が」 「俺ばっか余裕なくなる。……修平さんも、ちゃんと乱れてください」 修平の口元がほんの少し緩む。 大輔はその表情まで欲しくなり、また強く抱き寄せ、ベルトを外す。 ズボンを下ろし、熱いものを直接握る。 修平の息が深くなり、掴んだ肩へ力が入る。 「大輔……♡」 大輔がぴたりと止まった。 今度は修平の方が目を逸らしそうになる。 大輔は逃がさず見つめた。 「……それ、駄目です」 「何が」 「もっと欲しくなる。……修平さんに名前で呼ばれると、頭おかしくなりそう」 修平が大輔のネクタイを引いた。 答えの代わりに、またキスされる。 大輔はすぐ強く抱き返し、机に押しつけて脚を開かせる。 指を濡らし、ゆっくりと中へ入れる。 修平の内が熱く締めつける。 肩書きで呼ばれていた自分を、修平が名前で呼んだ。 しかも、さっきまで仕事をしていたときとはまるで違う声で。 その事実だけで大輔の余裕まで消えていく。 「修平さん」 「……何」 「もう一回」 「面倒な奴だな」 「今さらでしょう。……大輔って、呼んでください」 修平が少し息を吐く。 指が奥を抉るたび、腰が小さく跳ねる。 「大輔……っ」 大輔は嬉しそうに笑い、そのまま唇を奪い、指を増やして動かす。 触れ合いが深くなる。 大輔が主導すれば、修平はその腕を掴んで応える。 修平が少しでも離れれば、大輔が腰を引き寄せ、自分のもので入口を擦りつける。 互いの呼吸が混じり、普段の上下関係が少しずつほどけていった。 「修平さん」 「ん……♡」 「そんな声出されたら、ほんとに止まれません」 「さっきから止まってないだろ」 「まだ余裕ありますね。……じゃあ、挿れますよ」 大輔がゆっくりと奥まで沈める。 修平の声が一段甘く崩れた。 机が軋み、書類が少しずれる。 「っ……大輔……♡ 深い……」 今度は大輔もからかわない。 ただ、腰を抱く腕を強くし、ゆっくりと動かし始める。 「はい」 その短い返事に、修平が一瞬目を見開く。 大輔は耳元へ唇を寄せる。 「ちゃんと聞いてます。……修平さんの中、熱いです」 修平の腕が大輔の首へ回る。 自分から引き寄せる。 大輔はそれだけで十分だった。 強く抱く。 深く求める。 修平も同じだけ返す。 腰を打ちつけるたび、くちゅ、という水音が静かなオフィスに響く。 最初は、普段命令する男を自分が崩していることが嬉しかった。 途中から、そんな優越感より修平自身をもっと欲しい気持ちの方が強くなっていた。 「修平さん」 「大輔……」 「もっと欲しいなら、俺から離れないでください」 修平の腕がさらに強くなる。 大輔は笑う。 「分かりました」 「何が」 「離す気ないってこと。……修平さんも、命令しないでください。今だけ」 「生意気だな」 修平はそう言いながら、大輔の肩へ額を寄せた。 息がかなり乱れている。 それでも視線を上げ、大輔を見る。 腰を自ら動かして、深く飲み込む。 「大輔」 「はい」 「もっと……激しく。……大輔の、全部……♡」 大輔の表情から最後の余裕が消えた。 「……それ、聞きたかった」 大輔は修平を強く抱いた。 机に押しつけ、容赦なく腰を打ちつける。 修平も首へ腕を回し、脚を絡めて応える。 名前を呼ばれる。 名前を返す。 求めるほど修平の低い声が甘くなり、そのたび大輔も止まれなくなる。 「修平さん……中、きつい……」 「大輔……っ♡ そこ、だめ♡……また……」 「もう俺も限界です。……修平さんのも、一緒に」 修平は大輔の肩を強く掴む。 普段の命令口調が、甘く崩れたまま出る。 「なら……来い。……中に、出せ♡」 最後まで命令口調だった。 けれど、その声はすっかり甘く崩れている。 大輔は思わず笑った。 「はい、修平さん」 二人とも互いの名前を呼びながら、最後の高まりへ落ちていった。 大輔が奥で熱いものを解き放つ瞬間、修平も同じように跳ね、低く長い声を漏らしながら大輔の首に顔を埋めた。 **** 静かになったオフィスで、修平は机へ片手をついて呼吸を整えていた。 大輔もすぐ隣に立っている。 乱れたネクタイを見て、大輔が笑った。 「課長、その格好で明日仕事したら面白いですね」 「誰のせいだ」 「俺です」 「分かってるなら直せ」 「はい」 大輔が修平のネクタイへ触れる。 緩んだ結び目を整える。 指先が襟元を直し終えたところで、修平と目が合った。 少しずつ、いつもの藤田課長へ戻っている。 大輔はそれが惜しくなった。 「もう課長に戻るんですか」 「明日は明日だ」 「今は?」 修平は答えず、大輔のネクタイを掴んだ。 引き寄せて、短くキスする。 大輔が嬉しそうに笑う。 「はいはい、修平さん」 「大輔」 一言で、大輔の笑いが止まった。 修平が少し勝ち誇ったように口元を緩める。 「その呼び方、効くんだな」 大輔はしばらく黙り、それから眉を寄せた。 「課長、性格悪いですよ」 「知ってるだろ」 大輔は修平へもう一歩近づく。 「じゃあ今だけ、もう一回呼んでください」 修平が大輔を見る。 「調子に乗るな」 そう言いながら、大輔のネクタイを掴んだままだった。

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